巻き戻せないもの
作戦から二日が経った。
事務所の机に報告書が三通並んでいる。神殿からの正式な照合記録、ギルドから押収した資金台帳の写し、東方辺境伯領からのフランツ拘束報告。トランザクションの成果物だ。
バルクハルトは昨日のうちに全てを王に提出した。ディートリヒ・フォン・アイゼンベルクに対する正式な告発が受理されている。
だが、それだけだ。
エドが朝の便で持ち帰った続報を読む。王弟がディートリヒの身柄引き渡しを拒否している。「側近の行動について、王弟殿下自らが調査する」という名目で、事実上の庇護だ。
証拠は揃った。だが、証拠があることと裁きが下ることは別の話だった。
セレナが紅茶を机に置いた。湯気が立っている。
「長期化するわね」
「ああ。王弟派の抵抗は想定内だ。証拠が消えない限り、時間は味方になる」
「時間が味方になるのは、こちらだけじゃないでしょう」
セレナの指が机を叩いた。二回。いつもより強い。
東方辺境伯領は、ひとまず安全だ。フランツは拘束され、偽造軍令は阻止された。ノルトの報告では駐留軍は動いていない。国境は守られている。
問題は別にある。
◇
午後。クレアが事務所を訪ねてきた。
三つ編みが少し乱れている。眼鏡を直す手が落ち着かない。何か言いにくいことがあるときの癖だ。
「レイン・バルトスさん」
「座れ」
クレアが椅子に腰を下ろした。背筋は伸びているが、目が泳いでいる。
「約束は守ります。あなたのスキルについては聞きません」
「ああ」
「ですが」
クレアの声が低くなった。淡々とした口調が、いつもより硬い。
「あなたの秘密を知る人間が、今日だけで増えすぎました」
「……どういう意味だ」
「作戦中、私は神殿で軍令の原本を照合しました。七箇所の差異を特定して、記録に残しました。その記録を見た神殿の上級記録官が、私に聞いたんです。『誰の指示で、何を目的に、この照合を行ったのか』と」
クレアが眼鏡の奥からこちらを見た。
「私は正直に答えました。アルク商会のレイン・バルトスの依頼で、ギルド記録の改竄を確認するためだと。上級記録官は、それ以上聞きませんでした。でも、気づいています。普通の商人が、14件の改竄を三日で特定できるはずがないと」
分かっていた。分かっていたが、改めて言葉にされると重い。
「気をつけてください」
クレアが立ち上がった。紙束を一つ抱えている。来るついでに記録を持ってきたらしい。この女はいつもそうだ。用事は複数まとめて済ませる。
扉が閉まった後、ミラが壁にもたれたまま口を開いた。
「字は読めねえけどな」
「ああ」
「お前がやってることが普通じゃないのは分かる。作戦の夜、事務所で三方面の報告を同時に捌いてただろ。あれを見て、普通だと思う奴はいない」
ミラの目は鋭かった。戦場で生き延びた人間の観察眼だ。文字が読めなくても、人間の異常は見抜く。
(知っていた。だが、知っていることと対処できることは違う)
セレナが紅茶を啜った。何も言わない。指も叩かない。考えるまでもないということだ。
◇
夕方。扉が叩かれた。
三回。柔らかい叩き方だ。力を抑えている。だが間隔が正確で、音の大きさが揃っている。慣れた人間の叩き方だった。
エドが扉を開けた。
白髪。細い目。穏やかな微笑み。
ヴェルナー・ドルクが、供も連れずに一人で立っていた。
「突然すまないね。少し話がしたくて」
エドが俺を見た。俺はうなずいた。
ヴェルナーが事務所に入った。室内を見回す。ミラの短剣、セレナの紅茶、机の上の報告書。目が一巡して、俺に戻った。
「噂は聞いているよ。王弟派の書記官が告発された。三拠点を同時に押さえて、一日で情報網を解体したそうじゃないか」
「商人ギルドの噂は速いですね」
「商人は噂で飯を食うからね」
ヴェルナーが椅子に座った。姿勢がいい。六十を過ぎた老人とは思えない背筋だ。
「レイン君。私が先月、全面提携を持ちかけたのを覚えているかい」
「覚えています。お断りしました」
「ああ。賢い判断だった。あの提案は、仕入れ網の共有が目的ではなかったんだよ」
知っていた。セレナと話した通りだ。だが、黙って聞く。
「君がどう断るかを見たかった。条件を計算して、リスクを測って、対案を出す。その過程を観察するのが本当の目的だった」
ヴェルナーの目が変わった。
いつもの空虚な微笑みが消えている。目尻の皺は残っているが、瞳に光がある。値踏みではない。何か別のものだ。
「結果は上々だ。君は速い。情報の扱い方が、私が知る誰よりも速い。そして今回の件で、速いだけでなく正確だと分かった」
ヴェルナーが立ち上がった。
「また会おう。次はもっと面白い話を持っていく」
扉が閉まった。足音が遠ざかる。
セレナが紅茶のカップを置いた。
「あの人、初めて本気の顔を見せたわね」
「ああ」
(面白い話、か)
ヴェルナーの【信用】は、相手に信用できると感じさせるスキルだ。だが今日の目は、スキルで作ったものには見えなかった。
それが余計に厄介だった。
◇
夜。
事務所に一人残って、帳簿を閉じた。セレナは二階に上がった。ミラは裏庭で素振りをしている。木剣の音が規則正しく響いている。
机の上に封書が一通、置かれていた。
夕方の便で届いたものだ。エドが仕分けた郵便の中に紛れていた。差出人の記載がない。封蝋もない。ただの白い封筒だった。
開けた。
中には紙が一枚。
手が止まった。
作戦前夜。セレナと二人で確認した手順書の下書き。三拠点の行動手順と、各担当者の名前と、想定される障害の一覧。あの夜、蝋燭の明かりの下で、俺がセレナにだけ見せた私的なメモ。
その完璧な複製が、目の前にある。
筆跡が同じだった。俺の字だ。だが俺は書いていない。紙の質も違う。もっと上等な紙だ。
模写。
ディートリヒからのメッセージだ。言葉は一つも書かれていない。だが、意味は明確だった。
お前の手元にある情報にも、手が届く。
手が震えた。
封書を持つ指先が、蝋燭の灯りの中で細かく揺れている。
止めた。
紙をデータベースに格納した。筆跡の特徴、紙の材質、封筒の形状、配達された時刻。全てを記録した。震えている暇があったら、データを取る。
トランザクションは成功した。証拠は王の手に渡った。ディートリヒは告発され、フランツは拘束された。
だが、知られたという事実は巻き戻せない。
コミットした処理はロールバックできない。俺のスキルが異常だと気づいた人間の記憶は、消せない。ディートリヒが俺の情報に触れたという事実は、取り消せない。
蝋燭の芯が崩れた。炎が一度大きく揺れて、影が壁を走った。
俺を知っている人間が増えた。そのうちの何人が味方で、何人が敵か。まだ分からない。




