伯爵家を出る日
十五歳の春。成人の日が来た。
ヴェルデン王国では、十五歳で成人と認められる。貴族の子弟は成人式を経て、騎士の叙任か、学院への入学か、あるいは家業を継ぐか。それぞれの道に進む。
五男の俺に、用意された道はない。
◇
成人式は、あっけないものだった。
神殿で祝福を受け、父から短剣を授けられる。柄の革が掌に硬く食い込んだ。形式的な儀式だ。長男の時は領民を集めた盛大な祝宴があったと聞く。五男にはそんなものはない。
食堂で家族だけの簡素な食事を終え、俺は父の書斎を訪ねた。
「話がある」
父は書類から目を上げた。白髪が増えている。戦費のやりくりで、この数年は眠れていないのだろう。
「商人として独立させてください」
「……商人か」
父の目が一瞬、鋭くなった。ガルドの失敗を思い出したらしい。
「ガルドの二の舞にはなりませんか」
「なりません。兄上とは準備が違います」
言い切った。嘘ではない。十年かけた準備は、思いつきの投資とは違う。
父はしばらく俺を見つめていた。値踏みするような目だ。この男が俺をまともに見たのは、これが初めてかもしれない。
「五男に与える領地はない。相続するものもない」
「承知しています」
「独立資金として50金貨を出す。それで終わりだ。以後、バルトス家の名は使うな」
50金貨。銅貨に直せば50万。庶民なら数年は暮らせるが、商売の元手としては心許ない。
だが、想定内だ。
「ありがとうございます、父上」
俺は頭を下げた。
父はすでに書類に目を戻していた。
◇
荷造りは一日で終わった。
持っていくものは少ない。着替えと、最低限の日用品。書庫の本は持ち出せないが、中身は全てデータベースに入っている。
持ち物テーブルを開く。銅貨50万と着替え三組。短剣が一振りに、商人ギルドへの紹介状。それだけだ。
身軽だが、俺の本当の財産は目に見えない。
テーブルは93、総レコード数は5万2000を超えている。商売の知識、王国の情勢、貴族の人間関係、物資の流通経路。十年分の情報が、俺の頭の中にある。
これが、50金貨より遥かに価値のある元手だ。
◇
屋敷の裏口に、母が立っていた。
「レイン」
目が赤い。泣いていたのだろう。
「母上」
「身体に気をつけて。無理はしないで」
「大丈夫です」
母は小さな袋を差し出した。
「これ、私のへそくり。10金貨しかないけど」
側室の母に、余裕があるわけがない。それでも息子のために貯めていたのだ。
「……ありがとうございます」
受け取った袋が、妙に重い。
(これは、返す)
心の中で決める。利子をつけて。この人が楽に暮らせるくらいの額で。
「元気でね、レイン」
「はい。母上も」
母は笑った。泣きながら。
俺は振り返らずに歩き出す。振り返ったら、足が止まる気がしたから。
◇
屋敷の門を出ると、エドが待っていた。
「見送りか?」
「まさか」
エドは荷物袋を肩に担ぎ直し、にやりと笑った。
「俺も行きます」
「は?」
「使用人の契約は今日で切れましてね。次の雇い主はレイン様、あなたです」
こいつは何を言っている。
「俺には使用人を雇う余裕はないぞ」
「飯と寝床さえあれば構いません。給金は、レイン様が稼いでから払ってくだされば」
エドは腕を組み、こちらを真っ直ぐに見た。
「十年ですよ、十年。書庫に籠もって準備してた人間が、何も考えてないわけがない。俺は賭けます、あんたに」
俺は思わず目を見開いた。この家で、母以外に俺を見ていた人間がいたとは。
データベースを開き、人物テーブルにエドの名を加えた。信頼度は――高い。
「勝手にしろ」
「はい」
二人で街道を歩き出した。王都まで、馬車で三日。
計画テーブルの最後の項目。独立。その状態を「完了」に書き換えた。知識も情報も、競合排除も資金も――十年の仕込みが、全て終わった。
春の風が、前から吹いていた。
「十年待った」
俺は呟いた。
「ここからが、本番だ」




