三つの戦場
神殿の記録室は、いつもと同じ紙の匂いがした。
だが、今日は埃の匂いが薄い。クレアが朝から棚を整理していたらしい。俺たちが来ることを知って、必要な書類をすべて机に出しておいてくれている。
「軍令の原本です。過去二年分、全十七通」
クレアが革綴じの台帳を開いた。眼鏡の奥の目に、いつもの好奇心はない。記録を扱う人間の、静かな緊張がある。
俺はバルクハルトから預かった偽造軍令を机に広げた。東方辺境伯領の駐留軍に北方への移動を命じる命令書。書式は正規。印章も署名もある。
クレアの手が原本の署名に触れた。
「見ます」
一言だけ言って、原本の署名を凝視した。三秒。眼鏡越しの瞳孔が開くのが見えた。写本スキルが記憶に焼き付けている。
次に、偽造軍令の署名に目を移した。
五秒の沈黙があった。
「七箇所」
クレアの声は平坦だった。感情が消えている。記録に関わる不正を前にしたときの、あの声だ。
「署名の筆圧が0.3ミリ深い。ここ、と、ここ。印章の角度が二度ずれています。右に傾いている。日付の墨色が微妙に違います。原本は一年前の墨で、こちらは新しい」
指が偽造軍令の上を滑る。迷いのない動きだった。
「残り四箇所は書式の間隔です。行間が0.5ミリ広い。罫線の引き方が定規ではなく目分量。正規の書記官は罫引き器を使います」
俺はデータベースに七箇所の差異を格納した。署名、印章、墨色、書式。四つのカテゴリに分類し、それぞれの偏差を数値で記録する。
「証拠記録を作る。クレア、今の七箇所を紙に書き起こせるか」
「はい。原本の写本と、偽造の写本を並べて、差異箇所に印をつけます」
クレアのペンが走り始めた。原本の署名を白紙に再現する。完璧な複製だ。次に偽造軍令の署名を隣に再現する。二つの署名が並んだ。
肉眼では区別がつかない。だがクレアの写本が差異箇所に赤い印をつけていくと、七つの点が浮かび上がった。
(これで神殿は片付いた)
証拠記録をデータベースに格納した。ストアドプロシージャ「証拠構造化」が自動で分類を始める。
◇
記録室の扉が叩かれた。
エドだった。息が上がっている。走ってきたらしい。
「セレナさんから伝書っす」
小さな封書を受け取った。セレナの字は綺麗だが小さい。限られた紙面に情報を詰め込む癖がある。
『ギルド記録保管室に到着。職員が閲覧を拒否。「管理部の許可が必要」の一点張り。ハルトが令状を提示。現在、保管室に入った。資金記録の確認に入る。続報を待て』
閲覧拒否。想定の範囲内だ。ギルドの職員が独自判断で拒否したのか、上からの指示で拒否したのか。後者なら、ディートリヒの手がギルドの管理部にまで届いていることになる。
だが、ハルトが令状で突破した。バルクハルトの名は重い。ギルドの一職員が抵抗できる相手ではない。
(セレナとハルトなら大丈夫だ。次)
東方の報告はまだ来ていない。ミラとノルトは昨日の夕方に出発した。書記官フランツの拘束は今朝の予定だ。距離を考えれば、報告が届くのは昼過ぎになる。
待つしかない。
クレアがペンを止めた。
「レイン・バルトスさん。証拠記録、七箇所全て書き終わりました」
「見せてくれ」
二枚の写本を受け取った。原本の再現と偽造の再現。赤い印が七つ。差異の説明がクレアの小さな字で余白に書かれている。
完璧だった。これをバルクハルトに提出すれば、偽造の立証に十分な証拠になる。
◇
昼を過ぎた頃、二通目が届いた。
セレナからだ。エドが受け取って走ってきた。今日のエドは伝書係だ。走り回っている。
『保管室の資金記録を確認。三年分の東方物資供給に関する支出台帳を照合中。だが、問題がある。直近六ヶ月分の資金記録が棚にない。職員に聞いたところ「先週、管理部が持ち出した」とのこと。管理部は「返却済み」と主張。記録が宙に浮いている。ハルトが管理部に令状を突きつけて捜索中。続報を送る』
六ヶ月分の資金記録が消えている。
俺は伝書を机に置いた。手が止まった。
直近六ヶ月。ディートリヒが偽造軍令を準備し始めた時期と重なる。偽造に使った金の流れが、その六ヶ月分に記録されているはずだ。
(先手を打たれた)
誰かが記録を持ち出して、戻していない。管理部は「返却済み」と言い、棚には存在しない。書類が物理的に消えている。
ストアドプロシージャで残りの証拠を構造化した。神殿の偽造軍令七箇所の差異。ギルドの三年分のうち、二年半分の資金記録。東方からの報告はまだ。
証拠の全体像が組み上がりつつある。だが、六ヶ月分の穴がある。穴があるまま提出すれば、ディートリヒ側は「証拠不十分」と主張できる。
(トランザクションが危うい。一つでも欠ければ——)
考えている間に、三通目が届いた。
今度はエドではなかった。見知らぬ男がクレアに封書を渡し、何も言わずに去った。ノルトの部下だろう。軍人特有の無駄のなさだった。
封を切った。中身は短い報告書と、別の紙に走り書きされたメモが一枚。
報告書はノルトの字だ。簡潔で硬い。
『書記官フランツ・ベーアの身柄を確保。拘束時、フランツは執務室から書類を持ち出して逃走を図った。ミラが制止。偽造命令書の原本と、関連書類を押収。差し止め完了。詳細は口頭のメモを参照されたし』
もう一枚がミラのメモだった。ノルトの部下が口述筆記したのだろう。字はミラのものではない。だが言葉はミラだ。
『フランツは窓から逃げようとした。足を掴んだ。「逃げるな。面倒だ」と言ったら泣き出した。書類は全部押さえた。ノルトが中身を確認中。飯がまだだ』
最後の一文で力が抜けた。
(東方は片付いた)
三つのうち二つが完了した。神殿の偽造軍令の証拠。東方の書記官の身柄と偽造命令の原本。
残るはギルドの資金記録。六ヶ月分が欠けている。
クレアが俺の顔を見ていた。
「悪い知らせですか」
「半分だ。東方は成功した。だがギルドの記録に穴がある」
「穴」
「直近六ヶ月の資金記録が持ち出されて、戻っていない。偽造に使われた金の流れを証明する記録だ」
クレアの眉が寄った。記録が消えた、という事実に対する純粋な怒りだ。
「記録は消えません」
小さな声だった。だが、断定の響きがあった。
「写しがどこかにあるはずです。ギルドの台帳には副本の規定があります。管理部が持ち出したのが原本なら、副本は——」
「別の場所にある」
クレアがうなずいた。
俺はエドを呼んだ。
「セレナに伝書を出せ。副本の所在を確認しろ、と」
エドが走り出した。
窓の外で、午後の日差しが傾き始めている。
三つの戦場は動いている。二つは確保した。残る一つに穴がある。穴を埋める手がかりはある。だが、時間が足りるかどうかは分からない。
(コミットにはまだ早い。全部が揃うまで、トランザクションは閉じない)
クレアが証拠記録の余白に、作成日時と署名を入れていた。記録官の仕事だ。何があっても、記録を残す。
俺はデータベースを開いた。三方面の情報を統合する。神殿、ギルド、東方。揃っている部分と欠けている部分。全体像の輪郭は見えている。
あと一つ。六ヶ月分の資金記録。
それが揃えば、コミットできる。




