前夜
手順書を四部刷った。
一部はセレナ。神殿班の動線と時系列、クレアとの合流地点、撤収条件。セレナは受け取ると黙って目を通し、二箇所に赤を入れた。「合流が北門だと人が多い。裏口に変えなさい」。修正した。
一部はノルト宛て。東方班。フランツの居場所、確保の手順、失敗時の撤退経路。これは明朝、早馬で送る。
一部は俺。神殿班。クレアと合流し、原本の照合に入る。
一部はミラに——渡さなかった。
「東方班の手順、口で言う。覚えろ」
ミラが椅子の背にもたれたまま、こちらを見た。
「ノルトと合流、馬で東方へ。フランツの執務室は税務棟の二階、東から三番目の部屋。ノルトが表から入る。お前は窓から。フランツに戦闘力はないが、護衛が一名つく可能性がある」
「一名なら要らねえな。二名でも要らねえ」
「過信するな。確保が目的だ。殺すなよ」
「分かってる」
ミラが腕を組んだ。右手の指が左腕の火傷痕に触れている。癖だ。戦場の話をすると出る。
エドが机の端に座っていた。足をぶらぶらさせている。さっきから三回、何か言いかけてやめている。四回目で口が開いた。
「明日って、死にますかね」
「死なない」
「じゃあ俺の仕事は」
「留守番だ」
エドの顔が固まった。
「……留守番っすか」
「事務所で待機して、連絡の中継をする。セレナから伝書が来たら俺に回す。俺から指示が出たらセレナに回す。東方には手が届かないから、ノルトの判断に任せる」
「でも、俺だって——」
「お前は戦闘員じゃない」
エドが黙った。不満顔だ。唇が尖っている。
だが、五秒で表情が変わった。不満が消えて、覚悟みたいなものが残った。自分の役割は分かっている。分かっているから不満なのだ。
「留守番、全力でやるっす」
「頼む」
◇
日が暮れた。
裏庭に出ると、蝋燭の光が一つ揺れていた。
ミラが地面に座っている。膝の上に剣を置いて、布で刃を磨いていた。蝋燭は足元の煉瓦の上に置いてある。炎が夜風に傾いて、ミラの赤毛に影を落としていた。
「緊張しないのか」
声をかけた。ミラは顔を上げなかった。布が刃の上を滑る音だけが返ってくる。
「戦場は慣れてる」
布が止まった。
「緊張するのは、帰る場所がある奴だけだ」
刃を蝋燭にかざした。光が反射して、ミラの目が細くなる。傷のない刃だった。よく手入れされている。
少し間があった。
裏庭の向こうで犬が吠えた。遠い。二軒先か三軒先だ。
「今は、少しする」
ミラの声が小さかった。刃から目を離さずに言った。
俺は何も返さなかった。返す言葉が見つからなかったのではなくて、返さない方がいいと思った。ミラは今、自分の言葉に驚いている。口にしてから気づいた顔をしている。
「——明日の東方、馬は出るか」
ミラが話題を変えた。声が少し硬い。
「ノルトが手配する」
「なら問題ない」
刃を鞘に収めた。金属がかちりと鳴った。
ミラが蝋燭を吹き消した。暗闇の中で、立ち上がる気配がした。
「先に寝る」
足音が事務所の裏口に消えた。
俺は裏庭に残った。星が出ていた。雲は薄い。明日は晴れるだろう。馬を走らせるには悪くない天気だ。
◇
深夜。
事務所の机に向かっていた。蝋燭を一本だけ灯して、手順書の最終確認をしている。
三班の動線を頭の中で何度も走らせた。神殿班が記録室に入るのが朝の鐘から四半刻後。ギルド班が令状を提示するのが同時刻。東方班はそれより半日早く動く。馬の速度から逆算して、ノルトとミラは夜明け前に出発する必要がある。
扉がきしんだ。
顔を上げた。
セレナだった。
室内着の上に外套を羽織っただけだ。髪を下ろしている。
普段は結い上げている銀髪が、肩から背中にかけて流れていた。蝋燭の光が揺れるたびに、銀色が明るくなったり暗くなったりする。
少し目を奪われた。
(髪、長かったのか)
見慣れた顔のはずだった。半年以上、毎日顔を合わせている。だが下ろした髪のセレナは知らなかった。別人ではない。知らない角度だった。
「眠れなくて」
セレナが向かいの椅子を引いた。机を挟んで座る。蝋燭が一本、二人の間にある。
「手順書の確認?」
「最終チェックだ。動線に問題はない。あとは人間の判断が入る部分だけ——」
「レイン」
セレナの声が、仕事の声ではなかった。
指が机を叩いていない。考えていないのだ。
「最初に会った日、あなたは私を使えそうだと思ったのよね」
「ああ」
否定する理由がなかった。あの日、宿の薄暗い廊下で、俺はセレナの鑑定スキルと没落貴族の立場を計算して声をかけた。それ以上でも以下でもない。
「今は?」
青い瞳が蝋燭の炎を映していた。揺れている。炎の方が。
「……今は、いないと困る」
言ってから、曖昧だと思った。商会の運営に必要だという意味にも取れる。
セレナの指が机を叩かなかった。考えていない。俺の目を見ている。
蝋燭の炎が傾いた。どちらかが息をしたのだと思う。机が狭い。書類を退けた分だけ、距離が近くなっている。銀髪の先が机の上に触れていた。
階段がきしんだ。
足音。重くはない。だが隠す気もない。
ミラが降りてきた。
「腹が減った。飯は——」
ミラの目が、机を挟んだ俺とセレナを捉えた。
止まった。
蝋燭一本の光の中で、三人が動かなかった。一秒か二秒だったと思う。長く感じた。
「……邪魔したか」
「してない」「してないわ」
重なった。俺とセレナの声が同時だった。
ミラが何も言わずに棚からパンを取った。黒パンを一つ。それだけ持って、階段を上がっていく。
背中が硬かった。
二階の扉が閉まる音がした。
セレナが小さく溜息をついた。吐き出すような息ではなくて、空気を入れ替えるような息だった。机の上の空気がリセットされている。さっきまで近かったはずの距離が、元に戻っていた。
セレナが椅子から立ち上がった。外套の襟を直す。
「明日、気をつけて」
「お前もだ」
セレナが扉を閉めた。足音が階段を上がっていく。
蝋燭が一本、机の上で燃えている。
手順書に目を戻した。文字が並んでいる。同じ文字だ。さっきまでと何も変わっていない。
(明日。全てが動く)
蝋燭の芯を切った。炎が安定した。
寝ないと。明日は長い。




