全か無か
朝の帳簿を開いたところで、扉が叩かれた。
三回。間隔が均等で、力が一定。叩き方に迷いがない。商人ではない。
ミラが椅子から立ち上がった。右手が腰の短剣にかかる。
エドが扉を開けた。
短い金髪。灰色の目。軍服ではなく外套を羽織っているが、背筋の伸び方が隠しきれていない。護衛が二名、後ろに控えている。
バルクハルトだった。
エドが固まった。
「す、すごい人が来たっす」
声が裏返っている。エドはバルクハルトの顔を知らないはずだが、護衛の質と立ち姿で格を察したらしい。勘だけは鋭い男だ。
「レイン・バルトス。入っていいか」
疑問形だが、断れる口調ではなかった。俺は帳簿を閉じた。
「どうぞ」
バルクハルトが事務所に入った。護衛は外に残る。扉が閉まると、ミラの手が短剣から離れた。ただし、重心は落としたままだ。
バルクハルトの目が室内を一巡した。ミラ、エド、机の上の帳簿、窓。品定めの目だ。何を見て何を判断しているのか、こちらには読めない。
【看破】が動いているのだろう。嘘や隠し事を見抜くスキル。この部屋にいる全員が、今この瞬間に査定されている。
「書簡は読んだか」
「読みました。三日で全情報を、と」
「状況が変わった。座って聞け」
俺は椅子を引いた。バルクハルトは立ったまま話し始めた。
◇
「ディートリヒが偽造軍令を準備している」
単刀直入だった。世間話も前置きもない。
「東方辺境伯領の駐留軍に対し、北方への移動を命じる命令書だ。正規の書式、正規の印。書記官フランツが偽造に関与している」
俺はデータベースに意識を向けた。バルクハルトの言葉を一語ずつ格納していく。
「北方へ動けば、東方国境が空く。帝国との緩衝地帯が消える」
「帝国が動く、と」
「動けるようになる。それだけで十分だ。抑止力は存在していることに意味がある。なくなれば、使う必要すらない」
ミラの目が細くなった。東方の軍事情勢は傭兵時代に肌で知っているはずだ。
バルクハルトが机の上に指を置いた。三本。
「三つ、同時にやる」
一本目。
「神殿。偽造軍令の証拠を確保する。クレアの写本で原本を再現し、偽造との差異を記録する」
二本目。
「商人ギルド。ディートリヒの資金経路を押さえる。改竄の裏には金が動いている。その記録がギルドにある」
三本目。
「東方。書記官フランツの身柄を確保し、偽造命令の差し止めを行う」
三本の指が机に並んでいる。バルクハルトの灰色の目が俺を見た。
「なぜ同時か、分かるか」
「一つでも動きが察知されれば、残りの証拠が消される」
「そうだ。ディートリヒは用心深い。神殿に手が入ったと知れば、ギルドの記録は一時間で消える。ギルドを押さえたと知れば、フランツは国境の向こうへ逃げる。三つが揃わなければ、どれも意味をなさない」
(全部が成功するか、全部が失敗するか)
頭の中で、何かが引っかかった。
三つの処理。独立しているが、一つの目的に束ねられている。部分的な成功は許されない。途中で一つが崩れたら、残りも巻き戻さなければならない。
テーブルの縁に光の線が走った。
一本ではなかった。三本の線が同時に伸びて、一つの枠に収まっていく。枠の外縁が閉じた瞬間、概念が流れ込んだ。
トランザクション。
複数の処理を一つの単位にまとめる。全てが成功すればコミット。一つでも失敗すればロールバック。中間はない。
all or nothing。
目を開けた。バルクハルトが俺の沈黙を見ている。【看破】で何かを読み取ったかもしれないが、表情は変わらなかった。
「三日後です。やります」
言葉が口から出た。計算より先に。
バルクハルトの眉が動いた。ほんの僅かだが、意外だったのだろう。即答するとは思っていなかったらしい。
「だが、全員の協力が要る。神殿にはクレアを。ギルドには令状が必要です」
「ハルトを使え。グレイス子爵家の家令だ。ギルドへの令状は用意する」
「東方は」
「ミラとノルトで十分だろう。フランツに戦闘力はない」
ミラが腕を組んだ。名前を呼ばれて、黙ってうなずいた。了承というより、もう計算を始めている顔だ。東方までの移動時間、書記官の居場所、確保の手順。傭兵の頭が回っている。
バルクハルトが外套の襟を直した。帰るつもりだ。
扉の前で振り返った。
「失敗すれば、君の商会も無事では済まない。分かっているな」
「承知しています」
「それでいい」
扉が閉まった。護衛の足音が遠ざかる。
エドが息を吐いた。止めていたらしい。
「あの人、笑わないっすね。一回も」
「笑う用事がなかったんだろう」
俺は机に向き直った。
三日。神殿、ギルド、東方。三つを同時に動かす。
トランザクション。全てが通るか、全てが失敗するか。部分的な成功で妥協する余地はない。コミットかロールバックか。
セレナはまだ出ていない。戻ったら話す。クレアには今日中に会う。ミラは東方への移動準備。エドは——留守番だ。
頭の中で手順が組み上がっていく。ストアドプロシージャで定型化した判断の速さが、今は計画の構築速度になっている。
ミラが窓の外を見ていた。護衛二名が通りを曲がって消えるのを見届けている。
「レイン」
「何だ」
「あの男、本気だぞ。お前を使い捨てにする覚悟がある目だ」
「知ってる」
「分かってるならいい」
ミラが椅子に座り直した。短剣の柄を一度撫でて、手を離す。
(これは取引じゃない。賭けだ)
全てを賭ける。全員で賭ける。
勝てば証拠が揃い、ディートリヒの首に縄がかかる。負ければ——商会ごと潰れる。
帳簿を開き直した。数字が並んでいる。昨日まで意味のあった数字が、三日後には全て無意味になるかもしれない。
それでも、今日の帳簿はつける。手順は止めない。
蝋燭の炎が揺れた。朝の光が窓から差し込み始めている。




