原本を持つ女
記録室の扉を開けた瞬間、紙の匂いに混じって何かが違った。
埃。いつもの埃だ。だが量が多い。棚の上段から資料を引き抜いた痕跡が、あちこちに残っている。誰かが大量の書類を動かした後だった。
奥の机にクレアがいた。
いた、というより埋もれていた。机の上に書類の塔が三本。崩れかけの塔の間から、三つ編みと眼鏡の上半分だけが見えている。ペンが走る音が途切れない。
「クレア」
返事がない。
「クレア・フォン・ヘルツ」
ペンが止まった。眼鏡の奥の目がこちらを向く。
「あ。レイン・バルトスさん。前回の来訪は十七日前、閲覧対象はスキル発現記録の文書関連、滞在時間は——」
「覚えなくていい。一つ聞きたい」
クレアが首を傾げた。書類の塔が揺れる。
「昼は食べたか」
沈黙。
クレアの目が机の端に移った。紙袋が一つ、書類の下に半分埋もれている。パンの包みだ。手をつけた形跡がない。
「あ。忘れていました」
(知ってた)
「食べろ。話はその後だ」
クレアが紙袋を掘り出した。中身は硬くなったパンと干し果物。朝に買ったものだろう。パンを齧りながら、目はまだ書類に向いている。食べることと読むことを同時にやろうとしている。
「書類から手を離せ」
「はい」
パンを三口で片付けた。干し果物は二粒残して紙袋に戻す。食事というより燃料補給だった。
◇
「書類の照合を手伝ってほしい」
クレアの手がパンの屑を払った。目がこちらに向く。
「二つの書類を見比べて、同じかどうかを判定する仕事だ。一字一句の照合がいる」
「それは写本の得意分野です」
即答だった。迷いがない。
「でも、なぜ私に? ギルドにも照合担当はいますし、鑑定スキル持ちに頼む手もあります」
「神殿の記録が原本だ」
クレアの眉が動いた。
「ギルドに保管されている取引記録の写しと、ここの原本を照合する。どこが書き換えられたかを特定したい」
「書き換え」
クレアの声から抑揚が消えた。淡々としていた口調が、さらに平坦になった。記録に関わる不正は、この女にとって別種の案件らしい。
「原本はここにあります。過去三年分の取引記録でよろしいですか」
「頼む」
クレアが棚に向かった。踏み台を引き寄せ、上段の革綴じの台帳を三冊抜く。重い。腕が震えている。だが落とさない。
俺はギルドから持ち出した写しの束を机に広げた。リッツが夜通しで複写した四十二枚。
クレアが台帳を開いた。
作業が始まった。
クレアの目が原本の一行を捉える。眼鏡越しの瞳が左から右へ走り、止まる。次に写しに目を移す。同じ行を読む。
速い。一頁あたり十秒もかからない。目が行を追う動きに迷いがなかった。写本スキルが記憶した原本と、目の前の写しを照合している。人間の目と、スキルの記憶。二重の検証だ。
「三頁目、七行目。金額が違います。原本は銀貨340、写しは銀貨370」
俺はデータベースに記録した。
「十一頁目、二行目。日付が一日ずれています」
記録した。
「十五頁目、九行目。取引先名の一文字が違います。誤字ではありません。筆の運びが自然すぎます」
クレアの指が写しの文字を指した。
「この書き換え、普通の手書きではありません」
「どう違う」
「筆圧の再現が完璧すぎます。人間が書き直すと、修正箇所だけ力の入り方が変わるんです。緊張するから。でもこれは周囲の文字と筆圧が揃っている。スキルです」
「模写だ」
クレアの目が光った。眼鏡の奥で瞳孔が開くのが見えた。知的好奇心が表に出た顔だ。
「模写。文書関連スキルの中でも発現率が極めて低い。過去十年で記録されたのは——」
「一件だけだ。名前は塗り潰されていた」
「ええ。あなたが前回閲覧した記録ですね」
全部覚えている。俺がどの頁を見たかまで。
照合は四十二枚全てに及んだ。クレアが特定した改竄は14件。金額の書き換えが八件、日付のずれが三件、取引先名の変更が二件、備考欄の追記が一件。
俺はデータベースで14件の結果を処理した。パターンを見る。改竄された取引の共通点。関係者の重なり。金の流れ。
二秒で全体像が見えた。14件は全て、東方辺境伯領への物資供給に関わる記録だった。金額を少しずつずらし、差額を別の勘定に流している。
◇
クレアがペンを置いた。
「レイン・バルトスさん」
「何だ」
「あなた、14件の結果を二秒で処理しましたね」
背筋が冷えた。
「私が報告するたびに、あなたは何かを書き留めていました。でも、全部の報告が終わった瞬間、目が変わった。手元ではなく、どこか遠くを見ていた。二秒。それで結論が出ている」
観察している。この女は、照合作業をしながら俺の挙動まで記録していた。
「収納スキルで、ですか」
前回と同じ問いだ。だが今回は、前回より確信を含んでいる。
俺は黙った。
クレアが眼鏡を直した。三つ編みの先が書類に触れている。
「聞きません」
短い沈黙があった。
「でも、話してくれる日が来たら、聞きます」
追求しない。押し付けない。だが引かない。俺が口を開くまで待つと宣言している。
この距離感がクレアだった。
「……今日の照合、助かった」
「いえ。記録の正確性が損なわれているなら、確認するのは記録官の仕事です」
淡々と言った。だが、ペンを持つ指がわずかに震えていた。怒りか。記録を汚された怒りだろう。
記録室を出た。午後の日差しが廊下に差している。
◇
事務所に戻ると、机の上に封書が置かれていた。
赤い蝋の封蝋。バルクハルトの紋章だ。
セレナがすでに読んでいた。封を切った跡がある。
「緊急よ」
セレナの声に余裕がなかった。机を指で叩く癖が出ている。
封書を開いた。
短い文面だった。バルクハルトの字は硬い。
『王弟派が動く。偽造軍令が準備されている。三日以内に全証拠を揃えろ。詳細は明朝、直接伝える』
三日。
「偽造軍令って何」
ミラが壁にもたれたまま聞いた。
「命令書の偽物だ。模写スキルで署名と印章を再現すれば、本物と区別がつかない」
「それが通ったらどうなる」
「軍が動く。間違った方角に」
ミラの表情が変わった。傭兵の顔だ。軍令の重さを知っている人間の目。
セレナが封書を机に戻した。
「バルクハルトが『全証拠を揃えろ』と言っている。全、よ。三日で」
「クレアの照合で14件の改竄を確認した。だが、これだけでは証拠としては弱い。神殿の原本、ギルドの写し、東方の税収報告。三拠点の記録を突き合わせて、改竄の全体像を示す必要がある」
「三箇所で同時に動くの?」
「同時でなければ意味がない。一箇所で動いたことが漏れた瞬間、残りの証拠が消される」
セレナの指が止まった。
三拠点。三日。一箇所でも失敗すれば、全てが水の泡になる。
ミラが壁から背を離した。
「三箇所なら、三人要るな」
「ああ。三人では足りない。だが、信用できる人間は限られている」
蝋燭の芯が崩れた。小さな火花が机に散る。
三日後。全員で動く。一つでも失敗すれば——。
封書の蝋が、蝋燭の光を受けて赤く光っていた。




