帳簿の影
朝一番の配達便で、封書が届いた。
封蝋にバルクハルトの印がある。エドが受け取って机に置いたのを、俺はすぐに開封した。
文面は短かった。
東方辺境伯領の税収不整合について、独自に調査を開始した。フランツ・ベーアの身辺も洗う。現時点でアルク商会側に動く必要はない。追って連絡する。
それだけだ。バルクハルトの書簡はいつも必要な情報だけで、余計な言葉がない。
(動くな、という意味だ)
了解した旨を返信に書き、封をした。エドに渡す。
「バルクハルト様宛てっすか」
「ああ。王宮の東詰所に」
エドが封書を受け取って出ていった。
椅子に背を預けた。天井の木目を見上げる。
東方の件は、ひとまず預けた。バルクハルトが動いている間は、俺が下手に手を出せば邪魔になる。待つしかない。
待つのは嫌いだ。だが、待つべき時に動く人間は判断力がない。それはデータが教えてくれる。
◇
午後。日常業務に戻った。
ストアドプロシージャを37個定義してから、二週間が経つ。業務は安定していた。手順が固定された分だけ、俺の判断が入る余地が減り、品質のばらつきが消えた。
今日の照合は、ギルドとの取引記録だ。
アルク商会がギルド経由で受けた発注と、実際の納品記録。手順「取引照合」を呼び出す。
在庫テーブルから出荷数を引く。ギルドの受領書に記載された受領数と突き合わせる。日付、品目、数量、金額。四つの列を一行ずつ照合していく。
三秒で終わるはずだった。
手順が止まった。
不整合が二件。
一件目。薬草の納品記録。アルク商会の出荷テーブルには「薬草30束、銀貨420枚」と記録されている。ギルド側の受領書には「薬草29束、銀貨406枚」。
一束の差。銀貨14枚の差。
二件目。鉱石の月次取引。こちらは日付が一日ずれている。アルク商会の記録では十二日納品。ギルドの台帳では十三日。数量と金額は一致しているが、日付だけが違う。
(誤記か)
手作業の転記なら、よくある話だ。一束数え間違える。日付を一日書き違える。
だが、手順は誤記の頻度を知らない。条件に合致したかどうかだけを返す。
過去三ヶ月の照合を走らせた。
不整合が八件出た。
数量のずれは全て一束か二束。金額は数量に連動している。日付のずれは全て一日。大きな乖離はない。小さくて、見逃しやすくて、帳簿を手でめくっていたら気づかない規模だ。
パターンがある。
東方の税収改竄と同じ構造だった。ランダムな誤記ではなく、一定の範囲に収まる意図的なずれ。
ただし、場所が違う。東方ではなく王都だ。辺境伯領の書記官ではなく、ギルドの内部で起きている。
(誰が書き換えた)
ギルドの受領書はギルドの事務方が管理している。アルク商会は原本を保持しているから、照合すれば不整合に気づける。だが、照合を手順で自動化していなければ、この程度のずれは埋もれる。
手順がなかったら、俺も見逃していた。
◇
セレナが戻ったのは、夕方だった。
仕入れ先の視察から帰ってきた彼女に、俺は机の上にギルドの受領書とアルク商会の出荷記録を並べた。
「見てくれ」
セレナが外套を椅子の背にかけ、机の前に座った。二枚の書類に目を落とす。
「薬草。30と29。日付。十二日と十三日」
「過去三ヶ月で八件。全部小さなずれだ」
セレナの指が机を叩き始めた。三回、四回。思考のリズムだ。
「ギルド側の記録が書き換えられているの? それともうちの記録が間違っている?」
「うちの出荷記録は俺のデータベースと一致している。出荷時に手順で自動記録しているから、ずれようがない。ギルド側だけが違う」
セレナが受領書を手に取った。指先が紙面に触れる。鑑定だ。
「この受領書——筆圧が均一すぎる。書き直した痕がある。元の数字の上から、別の手で書いている」
数日前の夜を思い出した。東方の税収報告で、セレナが同じことを言った。数字の部分だけ別の手が書いている。
「東方だけじゃない」
俺は声に出した。
「ここにもいる」
セレナの指が止まった。青い瞳がこちらを見ている。
「ディートリヒの手が王都のギルドにまで伸びている、ということ?」
「断定はできない。だが、手口が同じだ。小さなずれを、気づかれない程度に仕込む。東方の書記官がやっていたことと構造が一致している」
セレナが椅子にもたれた。天井を見て、それから俺を見た。
「手順で拾えたから気づけた。手作業で帳簿をめくっていたら、見逃していたわね」
「ああ。だが、逆もある」
俺は自分の声が低くなるのを感じた。
「手順は速い。入力があれば瞬時に処理する。だが、入力データが汚染されていたら、手順の速さはそのまま毒の拡散速度になる」
セレナの指が再び机を叩いた。一回。強く。
「独立した検証手段が要るということね」
「ギルドの台帳と、俺のデータベース。どちらも数字だ。数字同士の照合では、どちらが正しいか判断できない。原本と照合できる人間が要る。書類そのものを見て、筆跡や紙の状態から真贋を判別できるスキル」
言いかけて、止まった。
頭の中で、クレアの顔が浮かんでいた。薄い金髪と三つ編み。眼鏡の奥の、好奇心だけの目。台帳の頁を十秒で完璧に再現した指。
写本。見たものを完璧に再現する。つまり、原本と写しの差異を一目で見抜ける。
セレナも同じことを考えたらしい。
「あの子を巻き込むの?」
声が静かだった。問い詰めているのではない。確認している。
「……巻き込まないつもりだった」
記録室を出たあの日、俺は決めたはずだ。あの場所に、俺の問題を持ち込んではいけないと。
だが、入力データの信頼性を担保できる人間が、俺の知る限りクレアしかいない。
セレナが立ち上がった。外套を取り、肩にかける。
「今日は考えなさい。明日、答えを聞くわ」
扉が閉まった。
速く処理できるようになった。37の手順が、俺の判断を速く、正確にした。
だが、速さは正確さの保証にはならない。汚れた水を速く汲めば、速く毒が回るだけだ。
机の上に、八件の不整合が並んでいる。小さな数字のずれ。気づかれないように仕込まれた影。
これが王都の中にある。
窓の外で、ミラの木剣の音が聞こえた。いつもの素振りだ。五十回一巡、四巡で二百回。順番は変えない。変えたら死ぬ、とミラは言った。
俺の手順も同じだ。順番は正しい。だが、手順に流し込む水が汚れていたら、順番がどれだけ正しくても、出てくる答えは間違っている。
クレアの顔が、消えなかった。




