傭兵に絹は似合わない
セレナが事務所の扉を開けるなり、ミラを見て眉をひそめた。
「ちょっと。あなた、いつまでその格好でいるつもり?」
ミラは椅子の背にもたれたまま、林檎を齧っている。革の胸当ては擦り切れて色が抜け、袖口は解れた糸がぶら下がっている。傭兵時代から着ている服だ。もう三ヶ月になる。
「動ければ何でもいいだろ」
「駄目よ」
セレナの声に甘さがなかった。机を指で一度叩く。
「アルク商会の護衛が薄汚れた傭兵服では、取引先に見せられないの。分かる?」
「見せなきゃいいだろ。俺は裏にいる」
「あなたが裏にいたことなんて一度もないでしょう。先週のフォルスト商会との会食にも、剣を担いでついてきたわよね」
ミラが林檎の芯を窓の外に放った。返す言葉がないらしい。
「買い物に行くわ。今から」
「は?」
「レイン、エド。あなたたちも来なさい。荷物持ちが要るから」
(俺とエドの用途が決まるのが早い)
エドが隅で樽の数を数えていた手を止めた。
「え、俺もっすか」
「二人とも」
セレナの声に選択肢はなかった。
◇
仕立屋は中央市場の裏通りにある。看板もない小さな店だが、窓に並ぶ布地の色が上品だった。セレナが迷わず入っていったから、以前から目をつけていたのだろう。
店主の老婆がセレナを見て、すぐに奥から布地の見本を持ってきた。貴族の立ち姿が客の質を語るらしい。
「この子に合うものを見繕って」
セレナがミラを押し出した。ミラは居心地悪そうに腕を組んでいる。
「絹はやめろよ。剣が引っかかる」
「絹なんて誰も言っていないわ」
店主がミラの体を上から下まで見て、三着ほど選んだ。麻のシャツ、革の上着、丈の短い外套。ミラの体格に合いそうなものだ。
試着室は店の奥にある。布のカーテンで仕切っただけの簡素な作りだ。ミラがカーテンの向こうに消えた。
革を引っ張る音。布を被る音。何かが引っかかった音。
「くそ、ボタンが」
「手伝うわ」
セレナがカーテンの隙間から入っていった。俺とエドは店の椅子に座って待つ。
しばらく衣擦れの音が続いた。
「腕、上げて」
「ああ」
音が止まった。
一瞬の沈黙。長くはない。二、三秒だ。だが、その前後で空気が変わったのが分かった。
セレナの声が静かになった。
「……このまま袖を通して。うん、入るわね」
何事もなかったように採寸が続く。ミラも何も言わない。
(左腕の火傷跡か)
ミラの左腕には、肘から手首にかけて火傷の痕がある。傭兵時代のものだと聞いた。それ以上は聞いていない。セレナの指が触れたのだろう。そして、二人とも黙った。
聞かない。触れない。その沈黙が、二人の間では正しいのだと思った。
窓が開いていた。
風がカーテンを煽った。布が大きく揺れて、中が見えた。
ミラが振り向いた。シャツを羽織りかけた姿で、さらしを巻いた胸元が露わになっている。赤い短髪の下の顔が、みるみる赤くなった。
目が合った。
「……見るな」
ミラの手が近くにあった革の上着を掴み、投げた。俺の顔に革が被さった。重い。
エドが椅子ごと後ろを向いた。
「あ、やば。見てないっす。何も見てないっす」
「お前もだエド!」
セレナがカーテンを引き直した。乱暴に、二度。金具がじゃらじゃら鳴った。
店主の老婆が奥から顔を出して、何も言わずに引っ込んだ。慣れているらしい。
結局、革の上着と麻のシャツに落ち着いた。ミラが鏡の前に立つ。傭兵服の時より幾分まともに見える。
「もう少し女らしいものを選んでも」
「剣が振れない服に金を出す気はない」
セレナが溜息をついた。だが、口元は笑っていた。
◇
昼を過ぎていた。市場の食堂に入った。
木の長テーブルに四人で並ぶ。ミラが肉の煮込みを注文した。三人前。
「三人前っすか」
「足りなかったら追加する」
エドが俺を見た。俺は肩をすくめた。
煮込みが来た。ミラは一皿目を五分で空にした。二皿目に手をつけながら、パンを千切って煮汁に浸している。食べ方に迷いがない。効率だけを追求した動きだ。
「傭兵時代は一日一食だったからな。食えるときに食う。体が覚えてる」
セレナは魚の焼き物を小さく切り分けて、一口ずつ運んでいる。ミラの食べっぷりを横目で見て、フォークを止めた。
「……すごいわね」
「何が」
「いえ、何でも」
ミラが三皿目を片付けた頃、エドが皿を見下ろした。
「あれ。俺のパン、一切れ足りなくないっすか」
「知らねえよ」
「いや、三切れあったはずなんすけど」
ミラが煮汁を啜りながら目を逸らした。エドが口を開きかけて、やめた。賢明だ。
(商会の食費が嵩む理由の一端が、目の前で三皿の煮込みを平らげている)
食堂を出た。午後の市場は人が多い。荷車が通りを塞ぎ、声が飛び交っている。
エドが両手に紙袋を抱えている。ミラの新しい服と、セレナが追加で買った布地と、食堂で包んでもらった残りのパン。
「俺、護衛のエドっすよね。荷物持ちじゃないっすよね」
「両方よ」
セレナが振り返りもせずに言った。エドが紙袋の向こうで何か呟いたが、聞こえなかった。
角を曲がったところで、正面から紙束を抱えた人影が来た。紙の山が顔を隠している。足元しか見えていない。
「危な——」
声をかける前に、ミラが片手で紙束の端を押さえた。ぶつかる寸前で止まる。
紙束の上から薄い金髪と眼鏡が覗いた。
「あ」
クレアだった。
「すみません。前が見えていなくて」
「神殿の帰りか」
「はい。記録の写しをギルドに届けるところです」
紙束を抱え直す。量が多い。両腕で抱えて、顎で押さえている。
「レイン・バルトスさん。先日は記録室にお越しいただきありがとうございました。スキル発現記録の文書関連、過去十年分をご覧になりましたね。閲覧時間は約四半刻で、ご覧になったのは主に模写の項目でした」
一字一句覚えている。写本のスキルは記録室の外でも健在らしい。
「ああ。その節は世話になった」
クレアが小さく頭を下げた。紙束が傾いて、ミラがまた手で支えた。
「では失礼します。紙が、その、重いので」
クレアが紙束を抱え直して歩いていった。三つ編みが背中で揺れている。二、三歩ごとに紙束の位置を直している。危なっかしい。
ミラが腕を組んで見送った。
「変な奴だな」
「記録官見習いだそうだ」
「あの量の紙を一人で運ぶのか。体力はあるんだな」
エドが荷物の隙間から顔を出した。
「俺より荷物持ちしてるじゃないっすか、あの人」
帰り道は西日が長い影を引いていた。
エドが荷物を抱え、ミラが新しい革の上着に手を通したまま歩いている。袖を何度か引っ張って、感触を確かめている。悪くない顔だ。セレナがその横を歩きながら、袖の丈を気にしている。
平和な午後だった。
ヴェルナーの返答期限も、ディートリヒの書類改竄も、今日は考えなくていい。明日の朝にはまたデータベースを開くことになるが、今はこの時間でいい。
ふと、試着室での沈黙を思い出した。
セレナの指がミラの左腕に触れた瞬間。あの二、三秒。セレナは何も聞かず、ミラは何も語らなかった。
あの沈黙の中で、何かが動いた気がする。信頼とも共感とも違う、もっと静かなもの。
まあ、俺のデータベースに記録できるものではない。




