手順
裏庭から木剣の音が聞こえる。
窓を開けた。朝の冷気が頬を叩く。空はまだ薄い灰色で、太陽は屋根の向こうだった。
ミラが素振りをしている。
右から左へ横薙ぎ。戻して突き。引いて上段。振り下ろし。右足を引いて半身、袈裟斬り。
動きは速くない。ゆっくりと、一つ一つの形を確かめるように繰り返す。息も乱れていない。朝露が石畳を濡らしていて、裸足の足跡が弧を描いていた。
同じ順番だ。昨日も、一昨日も。ミラが商会に常駐してから毎朝、まったく同じ動きを繰り返している。
横薙ぎ、突き、上段、振り下ろし、袈裟。
数えたことがある。五十回で一巡。それを四巡。二百回。
「ミラ」
窓から声をかけた。ミラが手を止めずに振り向く。赤毛に朝の光が混ざり始めている。
「順番を変えないのか。毎日同じに見える」
「変えたら死ぬ」
短い返答だった。木剣が横薙ぎの弧を描く。
「身体が迷うんだ。次の動きを考えた瞬間、そこに隙ができる。順番が決まっていれば、考えなくていい」
突き。引き。上段。
「考えなくても、身体が正確にやる。二百回、毎日同じ。そうすると戦場で勝手に出てくる」
ミラの目は前を見ている。木剣の軌道が空気を切る音だけが裏庭に落ちている。
俺は窓枠に肘をついたまま、その動きを眺めた。
順番を固定する。入力が同じなら、出力も同じ。考える工程を省く。それでも結果の品質は落ちない。
昨日の帰り道で考えていたことと、同じ形をしている。
ヴェルナーへの返答に至るまでの工程。調査、照合、分析、判断、交渉。毎回この順番を踏んだ。順番が決まっていたから、迷わずに動けた。
ミラの素振りと、俺の判断工程。やっていることの中身は違う。だが構造が同じだ。
手順を固定すれば、品質がぶれない。
窓を閉めた。
◇
午後。事務所の机に向かっていた。
朝のミラの言葉が頭に残っている。考えなくても身体が正確にやる。手順さえ決まっていれば。
データベースに意識を向けた。
テーブルの縁に薄い光の線が走った。今までと違う。線が一本ではなく、複数の線が束になっている。始点から終点へ向かう一本道ではなく、分岐し、合流し、また分岐する。
概念が流れ込んだ。
ストアドプロシージャ。
複数の処理を一つの手順にまとめる。名前をつけて、呼び出す。同じ手順を何度でも、対象を変えて実行できる。
目を開けた。
(使い方は分かる)
まず試すべきは、毎日繰り返している仕入れ評価だ。
手順を組んだ。
一。在庫テーブルから対象品目の残数を確認する。二。相場テーブルから直近七日の取引価格を引く。三。仕入れ先テーブルの中から最安値の業者を選定する。四。発注テーブルにレコードを登録する。五。配送手配テーブルに日時と経路を書き込む。
五つの工程。手作業でやれば帳簿を三冊開いて、相場表と照らし合わせて、計算して、発注書を書いて、配送の手配書を書く。二時間はかかる。
手順に名前をつけた。「仕入れ評価」。
薬草で試す。
手順を呼び出した。
在庫、28束。相場、銀貨14枚が直近の中央値。最安値の業者、南通りのベッカー。発注数、20束。配送、明後日の午前。
頭の中で五つの工程が順番に走り、発注テーブルと配送テーブルにレコードが書き込まれた。
全部で三秒もかからなかった。
「エド」
「はいっす」
エドが配達の荷物を抱えたまま振り向いた。
「薬草の発注、もう終わった。ベッカーに20束、明後日午前着で」
「え。今からやるんじゃなかったっすか。帳簿まだ出してないっすよ」
「いや、終わった」
エドが荷物を床に置いた。俺の顔と帳簿を交互に見ている。
「レインさん、今この部屋入ってから何もしてなかったっすよね。座って目ぇ閉じてただけっすよね」
「それで終わったんだ」
「……そういうの、もう驚かないと思ってたんすけど、やっぱ驚くっす」
エドが頭を掻いた。荷物を拾い直して、出ていく。扉の手前で振り返った。
「あ、じゃあ俺の午後の仕事、一個減ったってことっすか」
「そうなる」
「最高っす」
扉が閉まった。
俺は次の手順を組み始めた。顧客ごとの売掛金回収。不良在庫の洗い出し。月次の利益計算。
どれも毎月同じ手順を踏んでいる。順番は決まっている。あとは名前をつけて、呼び出せるようにするだけだ。
◇
日が傾いた。
事務所の隅で、ミラが羊皮紙と格闘している。
文字の練習を始めて二週間になる。最初の三日はペンの持ち方すら安定しなかった。剣の握りが染みついた手は、繊細な筆圧の調整を拒否していた。
今は名前が書ける。「ミラ」の二文字。最初の頃に比べれば、線の震えが減った。
「どうだ」
羊皮紙を覗き込んだ。「ミラ」が十行並んでいる。七行目あたりから形が崩れ始めている。集中が切れたのだろう。
「名前は書けるようになった。次は数字だな」
「数字」
「商会で働くなら、数字が読めないと話にならない」
ミラがペンを置いた。指についたインクを布で拭く。
「1は書けるぞ。棒を一本引くだけだろ」
「じゃあ999まであと998だ」
「……多くないか」
「10まで覚えれば組み合わせだ。そこまでは頑張れ」
ミラが渋い顔をしている。だが、羊皮紙を新しいのに替えて、ペンを持ち直した。
「1」
棒が一本、羊皮紙の上に立った。太い。だがまっすぐだ。
「次は」
「2だ。こう書く」
俺が手本を書いた。ミラがそれを見て、眉を寄せる。
「曲がってるな。曲がった線は苦手だ」
「剣だって円を描くだろう」
「剣は腕で振る。指先でやるのが難しいんだ」
ミラの2は角張っていた。2というより、折れ曲がった棒だ。だが読めなくはない。
「明日は3から」
「ああ」
ミラが羊皮紙を丁寧に巻いた。この丁寧さは最初からあった。字が下手でも、紙の扱いだけは丁寧にする。物を大事にする人間だ。
今日一日で、六つの手順を定義した。仕入れ評価、売掛回収、不良在庫判定、月次利益、配送最適化、相場監視。どれも毎月、あるいは毎週繰り返していた作業だ。
手順を定義すれば、俺が寝ていても同じ品質の判断が出る。
ミラの素振りと同じだ。順番が決まっていれば、迷わない。迷わなければ、速い。速ければ、余った時間で別のことができる。
窓の外が暗くなっていく。ミラが2の練習を続けている。角張った2が羊皮紙の上に並んでいる。
(仕入れ評価に二時間かけていた時間が空く。その二時間で何ができる)
ディートリヒの改竄の痕跡を追う。ヴェルナーの本当の狙いを探る。あるいは、クレアの記録室にもう一度行く。
手順が増えれば、俺の手が空く。手が空けば、考える時間が増える。考える時間が増えれば——。
ミラの2が、少しだけ丸みを帯び始めていた。




