深夜に聞こえる紙の擦れる音
朝、事務所の扉が叩かれた。
開けると、ミラが立っていた。背嚢一つと短剣二本。東方への道中と変わらない身軽さだ。
「来たぞ」
「早いな。昼からでいいと言ったはずだが」
「飯は出るか」
「……出る」
「じゃあ早い方がいい。朝飯がまだだ」
ミラは遠慮なく事務所に入り、椅子に座った。
東方から戻って三日。護衛の常駐契約を持ちかけたのは俺の方だ。東街道の輸送が定期化すれば、護衛は毎回探すより固定した方が安い。日当銀貨3枚を月給に換算して金貨2枚。食事と寝床を事務所で提供する条件で、ミラは即答した。
「雇われた方が安定するだろ。飯もついてるし」
理由がそれだけとは思わないが、聞かない。契約が成立すれば動機は問わない。
◇
昼前にエドが戻り、リッツが来た。
ミラを紹介すると、エドは目を丸くした。
「えっ、あの護衛の人が常駐っすか。すげえ」
「何がすごいんだ」
「いや、東方の帰り道で野犬追っ払ったとき、めちゃくちゃ速かったっすから」
ミラが少し居心地悪そうに視線を逸らした。褒められ慣れていない顔だ。
リッツは軽く頭を下げただけで、すぐに帳簿に戻った。
セレナは午後に来た。ミラを見て、一瞬だけ目を細める。
「あら。常駐が決まったの」
「ああ。今朝から」
セレナはそれ以上何も言わず、自分の席についた。
(何を考えている。あの目は品定めだ)
ミラはセレナをちらりと見たが、興味なさそうに窓の外に目を戻した。二人の間に会話はない。
◇
問題が見つかったのは、その日の夕方だった。
俺は東方への物資供給リストをミラに渡した。護衛として荷の内容を把握しておいてもらう必要がある。
ミラは紙を受け取り、しばらく黙って見ていた。
長い。
紙を裏返した。また表にした。
「……これ、何が書いてある」
「薬品と食糧の品目リストだ。数量と重量が——」
「いや、そうじゃなくて」
ミラが紙をこちらに押し返した。
「読めねえんだ。字が」
事務所が静かになった。エドが手を止め、リッツが顔を上げた。セレナだけが帳簿を繰る手を止めなかった。
ミラの目は真っ直ぐだった。恥じている。だが、隠す気はない。
(裏表がない。嘘がつけないのではなく、つく気がない)
「傭兵に字は要らなかったからな。剣が振れれば仕事はあった」
「そうか」
俺は椅子を引いた。
「うちで働くなら読み書きは必須だ。荷の中身が確認できない護衛は使えない。教える」
ミラが目を瞬いた。
「教えるって、お前がか」
「俺がだ。明日から毎朝一刻。文句があるなら言え」
「……ない」
◇
翌朝。
事務所の机に羊皮紙とインクを並べた。安い練習用の紙だが、ミラには贅沢に見えたらしい。紙を指で撫でて、匂いを嗅いだ。
「まず自分の名前を書けるようにする。ミラ、二文字だ」
俺が手本を書いた。ミラはペンを握った。
握り方がおかしい。剣の持ち方だ。柄を握るように、拳でペンを包んでいる。
「そうじゃない。ここに指を置いて、ここで支える」
ミラの手を取って直した。指の皮が硬い。剣ダコだ。ペンを支える繊細さに向いていない指が、ぎこちなく動く。
一画目。線が震えた。力を入れすぎて紙が破れた。
「くそ」
「力を抜け。剣じゃないんだ」
「分かってる。分かってるけど、手が言うこと聞かねえ」
二画目。曲がった。三画目。潰れた。四画目で、ミラは手を止めた。
紙の上にあるのは、文字と呼ぶには苦しい痕跡だった。
ミラは自分の書いたものを睨んでいる。敵を見るときの目だ。
「こんなの剣より難しい」
「剣も最初は振れなかっただろう」
「剣は三日で振れた」
「文字は三十日かかる。覚悟しておけ」
エドが茶を持ってきた。
「ミラさん、その字、反対っすよ。左右が」
ミラが紙を持ち上げて裏から見た。
「……本当だ」
「大丈夫っすよ。俺も最初そうだったっす」
「お前も字を習ったのか」
「俺はレインの坊ちゃんに教わったっす。十年前に」
ミラが俺を見た。
「十年前から人にものを教えてるのか、お前」
「使えない人間を使えるようにするのは投資だ。それ以上の意味はない」
ミラは何か言いかけて、やめた。
セレナは自分の席から一度も口を挟まなかった。帳簿を見ているふりをしていたが、ペンの動きが止まっていた時間がある。
◇
夜。
帳簿の整理を終えて事務所を出ようとしたとき、明かりが漏れていた。
二階の仮眠部屋。ミラに割り当てた部屋だ。
扉が薄く開いていた。覗くつもりはなかったが、音が聞こえた。紙の上でペン先が擦れる音。止まる。また動く。止まる。
ミラが一人で文字を練習していた。
蝋燭が一本。その灯りの下で、ミラは机に向かっていた。背中が丸い。剣を握るときとは別人の姿勢だ。
手本を見て、書いて、見比べて、紙を裏返す。何度も同じ二文字を繰り返している。
俺は声をかけなかった。
階段を二段下りたところで、足を止めた。
「読めるようになったら、何を読みたい」
背中越しに聞いた。
ペンの音が止まった。
「知らねえよ」
間があった。
「読めないんだから、読みたいものなんかあるわけないだろ」
その声には怒りも自嘲もなかった。
ただの事実だ。読めない人間には、読みたいものが存在しない。選択肢を知らなければ、望みようがない。
俺のデータベースにも同じことが言える。知らないテーブルは検索できない。存在を知らないデータは、取り出しようがない。
「そうだな」
俺はそれだけ言って、階段を下りた。
事務所に戻ると、インクの匂いが残っていた。朝、ミラが練習した机。紙が数枚、端に寄せてある。
一番上の紙を見た。
二文字。朝よりは形になっている。だが、まだ読めない。
ミラには剣がある。それだけで十八年を生きてきた。第四砦を生き延びた。戦う力がある。
だが、この事務所で必要なのは剣ではない。
(投資だ。そう自分に言い聞かせた)
蝋燭を吹き消した。
二階から、まだ紙の擦れる音が聞こえていた。
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