データベースが沈黙する老人
王都の南門が見えたとき、ミラが馬車の幌から首を出した。
「着いたな」
二週間ぶりの王都だ。東街道の土埃がまだ服に染みついている。
門番に通行証を見せ、荷検めを受けた。東方辺境伯領の印が入った通行許可証を見て、門番の態度が少し変わった。
(こういう小さな信用の積み重ねが、通行の速度を変える)
馬車を降りたところで、ミラに護衛代を渡した。銀貨36枚。約定通り、日当銀貨3枚の十二日分。
「確かに」
ミラが硬貨を数え、革袋に放り込む。
「ミラ。次の東方行きにも護衛が要る。頼めるか」
「金次第だ」
表情一つ変えない。だが、断りもしない。
「条件は今回と同じで」
「なら受ける。声がかかる前に別の仕事を入れるから、早めに言え」
ミラが背を向けた。赤毛が日差しに透けている。
(次も来る気はあるらしい。傭兵というのは、思ったより律儀だ)
◇
商人ギルドの窓口で、東方物資供給の初回報告書を提出した。
VIEWで組んだ報告書だ。利益率と継続性を前面に出し、政治的な文脈は一切省いた。ギルドが見たいのは数字だけだ。
「アルク商会。東方辺境伯領への薬品・食糧の継続供給。初回納品完了。月次報告」
窓口の担当が書類をめくる。
「納品金額、金貨480枚。利益率15%。輸送損耗率は2%未満」
担当の手が止まった。
「2%? 東街道で?」
「護衛を手配しましたので」
「……失礼ですが、金級の商会で東方への継続供給は初めてですよ。白金級でも東方は敬遠する」
窓口の向こうで、別の職員がこちらを見ている。奥の席からも視線を感じた。
(注目されるのは計算通りだ。だが、注目は嫉妬を呼ぶ)
報告書を受理させ、ギルドを出た。
事務所に戻ると、セレナが待っていた。
「おかえり。東方の件は通ったわ。バルクハルト経由で議会承認が下りている」
「仕事が速いな」
「あなたがいない間に三通の書簡を出したわ。あと、留守中に来客があった」
セレナが一枚の名刺を机に置く。
「ドルク商会。会頭のヴェルナー・ドルク殿が、面会を希望している」
手が止まった。
ドルク商会。王都最大手の薬草卸。ガストの上。いや、ガストを使う側の人間。
「直接、来たのか」
「使いが来たの。明日の午後、ドルク商会の本店で。断る理由がなかったから、受けておいたわ」
セレナの判断は正しい。王都最大手からの面会を断れば、敵意と取られる。
だが、なぜ今なのか。
(東方の大口契約が動いたタイミング。偶然じゃない)
◇
翌日。ドルク商会の本店は、王都の中央通りに面していた。
石造りの三階建て。門構えは立派だが、金箔や彫刻で飾り立ててはいない。選び抜かれた石材と、計算された窓の配置。金に物を言わせた成金の屋敷とは違う。
(この建物を見るだけで、相手の性格が分かる。趣味がいい。そして、趣味の良さを見せつける余裕がある)
応接室に通された。壁に一枚だけ掛けられた風景画。磨かれた樫の机。椅子の座り心地がいい。
白髪の老人が、奥の椅子から立ち上がった。
痩せた体。目が細い。六十を超えているだろう。
微笑んでいた。口元は柔らかく弧を描いているのに、目の奥に光がない。
「ようこそ。レイン殿。アルク商会の噂は聞いておりますよ」
声は穏やかだった。怒鳴る必要のない人間の声だ。
「ヴェルナー・ドルク殿。お目にかかれて光栄です」
「ほう、堅いね。まあ、おかけなさい」
席に着いた。ヴェルナーは茶を注ぎながら、世間話を始めた。
最近の薬草相場。南方の戦況が物流に与える影響。東街道の整備計画。どれも一般的な話題だが、一つ一つの言葉に無駄がない。
「それで、東方辺境伯領への供給を始められたそうですね」
「はい。先日、初回の納品を終えたところです」
「若い人は素晴らしい。私が東方に手を出したのは四十を過ぎてからだったよ」
ヴェルナーが茶碗を置いた。
「レイン殿。一つ、聞いてもよろしいかな」
「何でしょう」
「商売で一番大事なものは、何だと思いますか」
(情報だ)
そう答えかけた。だが、口を開く前にヴェルナーが続けた。
「信用というのはね、積み上げるものじゃない。渡すものだよ」
微笑みが深くなった。目は変わらない。
「相手に信用を渡す。先に渡した方が、関係を握る。積み上げようとする人間は、いつまでも積み上げ続けなければならない。でも、渡す人間は —— 一度で済む」
奇妙だった。
この老人の言葉を、俺は正しいと感じている。
データベースにこの人物のレコードはほとんどない。ガストの上司であること。王都最大手の薬草卸であること。六十代。それだけだ。
信用に足る根拠が、何もない。
なのに、「この人は信用できる」という確信が、胸の底に座っている。
(おかしい。俺はデータのない相手を信用しない。それが俺の原則だ)
会談は穏やかに終わった。具体的な取引の話は出なかった。ただの挨拶。ただの雑談。
だが、帰り際にヴェルナーが言った。
「また来なさい。いつでも歓迎するよ」
その言葉に、俺はうなずきかけた。
自然に。何の抵抗もなく。
——待て。
俺は足を止めた。
(なぜ俺は、この老人にもう一度会いたいと思っている)
◇
帰り道。セレナが隣を歩いている。
「どうだった」
「……穏やかな人だった」
自分の声が、妙に素直に聞こえた。
セレナが足を止めた。
「レイン。あの人に会って、どう思った。正直に」
「信用できると思った。根拠はない」
セレナの目が細くなった。
「私、あの建物に入ったとき鑑定を使ったの。あの人の言葉には重みがある」
「だろうな」
「でも、重みがあるからこそ危険よ」
セレナの声が低くなった。
「重みのない言葉は疑える。でも、重みのある言葉は疑えない。疑う理由がないから」
俺は黙った。
セレナの言う通りだ。
事務所に戻り、椅子に座った。データベースに意識を向ける。
あの老人の微笑みの前では、俺のデータベースは沈黙していた。
その沈黙が、心地よかったことが —— 一番の問題だ。
---お読みいただきありがとうございます。フォロー・★での応援が執筆の励みになります。




