辺境伯の帳簿を一刻で書き換える
辺境伯領の門をくぐったとき、最初に感じたのは匂いだった。
干からびた泥と、埃。風が運んでくるのは土の渇きで、王都の市場で嗅いだ活気ある雑踏の気配とはまるで違う。
通りが静かだ。
市場の区画には天幕の柱だけが立っていて、荷台の上に商品がない。柵が二箇所、折れたまま放置されている。道の端で犬が一匹、肋骨を浮かせて寝ていた。
隣でミラの歩調が落ちた。
横目で見ると、赤毛の下の顔が硬い。視線が通りの奥を追っている。
「南方と同じだな」
小さな声だった。独り言に近い。
俺は答えなかった。ミラが南方で何を見たのか、まだ聞いていない。聞く段階でもない。だが、この景色に反応する体の強張りが、第四砦の記憶と繋がっていることくらいは分かる。
◇
ノルトは砦の裏手にある石造りの棟にいた。
扉を開けたノルトは、一瞬だけ目を細めた。
「来てくれたか」
「お久しぶりです、ノルト殿」
半年前、王都の事務所での対面以来だ。あのとき俺はクレフの一件で大口契約を逃しかけた。それを二週間で立て直して信頼を繋いだ。
ノルトの顔には疲れが出ていた。目の下の影が濃い。軍人の姿勢は崩れていないが、肩に重さが乗っている。
「辺境伯は」
「病床です。半年前から。実務は私が預かっています」
執務室に通された。石壁に棚が並び、帳簿と書簡が積まれている。蝋燭の煤が天井に薄い染みを作っていた。
ノルトが棚から帳簿を取り出し、一瞬だけ手を止めた。
「……レイン殿。あなたにこれを見せるのは、本来あり得ない」
帳簿を机に置いた。革の表紙に辺境伯家の封蝋が残っている。
「半年前、仕入先の一つがドルク商会と繋がっていただけで契約を断った人間が、領地の帳簿を開こうとしている。その意味は分かりますか」
分かる。
あのとき、ノルトは調達情報が漏洩する可能性だけで席を立った。情報管理に妥協しない男だ。その男が、税収と軍事費を含む帳簿を一商人に見せようとしている。
(追い詰められている。相当に)
「他に頼れる人間がいない、ということですか」
ノルトは答えなかった。帳簿を開いた。
「これが過去一年の税収と支出です」
羊皮紙に並ぶ数字を追った。同時に、データベースに流し込む。
税収が前年比で35%減。一方、軍事費は横ばい。民生支出 —— 道路補修、市場維持、種子の備蓄 —— が削られている。削られた分が軍事費の穴埋めに回っている。
つまり、領地を壊して軍を維持している。
「ノルト殿。率直に申し上げます」
「頼む」
「このまま二年続けば、領民が流出します。税収はさらに下がり、軍事費も賄えなくなる。悪循環です」
ノルトは黙って頷いた。知っていたのだろう。数字を見なくても、この町を歩けば分かる。
「それで、どうすればいい」
「提案書を作ります」
俺は帳簿の数字を見つめた。
三つの宛先が頭にある。辺境伯、バルクハルト、商人ギルド。同じ数字を使って、三通の提案書を書く必要がある。
辺境伯には、軍事費を2割削減して民生に回す案。兵の質を量で補う発想から、補給線の効率化で戦力を維持する方向へ転換する。
バルクハルトには、東方辺境伯領の安定が南方戦線の後背地を守ることを示す。辺境が崩れれば、南方への補給路が脅かされる。
商人ギルドには、東方市場の復興による利益率。投資回収の見通しと、独占供給による優位性。
同じ税収データ。同じ支出明細。同じ数字の羅列。
なのに、三つとも別の絵になる。
(見せ方を変えるだけで、意味が変わる)
王都で提案書を練ったときに感じた違和感が、もう一度、頭の奥を突いた。
データはある。構造も整っている。だが、今の俺のデータベースには、同じテーブルから異なる切り口で見せる機能がない。
その瞬間、視界が多層化した。
ノルトの机に広げた帳簿の数字。その上に、半透明のフィルターが重なるのが見えた。一枚目のフィルターを通すと、数字が軍事的な意味を帯びる。二枚目に切り替えると、同じ数字が政治的な文脈を語り出す。三枚目では、商業的な利益率として輝く。
実体は変わらない。テーブルのデータはそのまま。変わるのは、切り取り方だけ。
VIEW。その名前が、静かに落ちてきた。
俺は三枚の羊皮紙を取り出した。
◇
一刻かかった。
三通の提案書をノルトの机に並べた。
「左が辺境伯向けです。軍事費の2割を民生に再配分し、補給線を三本から二本に集約して効率化する案です」
ノルトが手に取った。
「真ん中がバルクハルト、王太子派向けです。東方辺境の安定が南方戦線の後背地を守る構図を示しています。辺境伯領の民生回復は、王国全体の戦略的利益です」
「右が商人ギルド向けです。東方市場が回復した場合の取引量予測と、先行投資の回収見込みです」
ノルトが三通を交互に見比べた。
「……同じ数字だ」
「はい」
「税収も支出も、元の数字は全く同じだ。なのに」
ノルトが三通目を机に置いた。
「三つとも、違う絵に見える」
「見せ方を変えただけです。数字は嘘をついていません。どの提案書も事実に基づいています。ただ、読む人間が知りたいことに合わせて、切り口を変えた」
ノルトは長い沈黙の後、顔を上げた。
「レイン殿。あなたは本当に商人か」
二度目の問い。半年前と同じ言葉だが、声の響きが違った。
「商人です。商人だから、相手が何を求めているかを考えます」
ノルトは三通の提案書をもう一度、丁寧に揃えた。
「辺境伯に見せてもいいか」
「お任せします。ただ——」
窓の外を見た。埃っぽい風が、枯れた木の枝を揺らしている。
「問題は、どの提案書を見せるかじゃありません」
「何が問題だ」
「誰が信用して読むか、です」
ノルトの手が止まった。
三通の提案書は正しい。数字も論理も破綻していない。
だが、無名の商人が書いた紙を、辺境伯が読むか。バルクハルトが信用するか。ギルドが真に受けるか。
データの見せ方は手に入った。足りないのは、それを届ける信用だ。
ノルトが扉の前で振り返った。
「一人、心当たりがある。この街で最も信用を持っている男だ」
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