成人まで十年。計画は始まった
書庫の埃っぽい匂いが、いつの間にか俺の日常になっていた。
六歳。誰も来ない書庫の奥で、俺は毎日本を読んでいた。
歴史書、商取引の記録、領地の帳簿。片っ端から読み、片っ端からデータベースに格納する。
テーブルは増え続けている。
脳内に並ぶ表は、既に12個。歴史のレコードが342件、地理が128件、商取引が89件、人物が67件、算術が45件。他にもまだある。
一年で1000を超えるレコードが蓄積されていた。
(もっとだ。もっと入れろ)
知識は武器になる。今はまだ、刃を研いでいるだけだ。
◇
八歳の秋、新しいスキルが目覚めた。
【高速演算】
発現した瞬間、頭の中で数字が踊り始める。三桁の掛け算が、息をするように解けた。
「これは」
俺は書庫から帳簿を引っ張り出した。バルトス領の収支記録。ずっしりした革表紙を開くと、数字の羅列が目に飛び込んでくる。
普通なら読み解くのに何日もかかる。だが【高速演算】とデータベースを組み合わせると——
「三秒」
領地の収支バランスが、テーブルとして整理される。
収入8400金貨に対し、支出が9100。差額はマイナス700。昨年はマイナス400だった。その前の年はかろうじて黒字だったのに、赤字が年々膨らんでいる。
原因は明白だ。戦費の増加。
(この領地、あと数年で立ち行かなくなるな)
八歳の子供が気づいていることに、父は気づいていない。いや、気づいていないふりをしているのか。
どちらにせよ、俺には関係ない。沈む船からは、早めに降りるに限る。
◇
十歳。
「レイン様、また書庫ですか」
使用人のエドが、腕を組んで入口に立っている。唯一、俺をまともに扱ってくれる男だ。
「読みたい本があってね」
「せっかくの天気なのに、もったいない」
エドは廊下の窓を指差し、大袈裟にため息をついてみせた。
「お兄様方は訓練場で汗を流しておいでですが」
「僕には剣より本が合っているから」
エドは肩をすくめた。
俺は内心で詫びた。悪いな、エド。訓練場に行く暇はないんだ。
この頃から、俺は複式簿記を独学で習得していた。
商人の間では一般的な技術だが、貴族で使いこなせる者はほとんどいない。帳簿の世界では、全ての取引に「借方」と「貸方」がある。金の流れを二重に記録することで、誤りを防ぐ仕組みだ。
データベースとの相性は、抜群だった。
取引を入力すれば、残高は自動で計算される。誤差が出れば、即座に検知できる。
インクの染みがついた指先を眺める。商人として食っていく下地が、少しずつ固まっていく。
◇
十二歳。兄たちの間で争いが始まった。
長男と次男が、後継者の座を巡って対立している。三男は長男派。四男は中立を気取っていた。
「レイン、お前はどちらにつくんだ」
四男が食事の席で聞いてきた。
「僕は五男ですよ。誰がなっても変わりません」
「はは、違いない」
四男は笑った。俺もつられたふりをして、口元を緩める。
部屋に戻ってから、俺は人物テーブルを更新した。
長男——短気で判断が遅い。利用価値はない。次男——女好きで浪費が止まらない。こちらも同じだ。三男のガルドは長男派について虚栄心が強い。使いようがある。四男は中立を装う八方美人。風向き次第で寝返る。場合によっては使える。
家族を観察し、記録し、分析する。
情が薄い?そうかもしれない。
だが、この家に情を向ける価値はない。父は俺を見もしない。兄たちは見下すだけだ。
俺がこの家に返すものは、何もない。
◇
十四歳。
十年が経った。
テーブルは89個。総レコード数は4万7000を超えている。
俺のデータベースには、5万近い情報が蓄積されていた。
商売の知識。王国の地理と情勢。主要貴族の人間関係。戦況の推移と物資の流れ。そして、この家の全て。
必要な知識は揃った。複式簿記も、交渉術も、相場の読み方も。
あとは——
「あと一年か」
十五歳の成人式。それが、この家を出る日だ。
俺は計画テーブルを開いた。
知識と情報の蓄積は終わっている。十年かけて仕込んだ下地は、もう十分だ。残る課題は、独立資金。
伯爵家の五男がもらえる額など、たかが知れている。だが、それで十分だ。
元手が少なくても、情報があれば勝てる。この十年で、俺はそれを確信していた。
(待ってろよ、外の世界)
窓の外を見る。
夕日が、王都の方角を赤く染めていた。




