アルク商会、設立
事務所を借りた。
南区の通り沿い、二階建ての石造り。一階が店舗兼応接、二階が事務所と倉庫、奥に小部屋が二つ。家賃は月に金貨20。安くはないが、宿の一室で商売を続けるわけにもいかない。
「悪くないわね」
セレナが壁を指先でなぞった。埃が指に付く。古い石壁から、かすかに湿った土の匂いがする。
「掃除は必要だけど、立地はいい。貴族街と市場の中間。どちらにも行きやすい」
「商売の動線は考えた」
エドが箒を持って駆け回っている。
「レイン様、ここ窓が開きません。錆びてるっぽいです」
「力で開けろ」
「いやいや、人間の腕じゃ無理ですって」
ギルドへの届け出は済ませた。
商会設立には金級への昇格が必要だったが、衛兵隊との契約実績が効いた。審査は一日で通った。
「商会名は」
ギルドの受付が聞いた。
「アルク商会」
セレナが隣で小さく頷いた。事前に二人で決めた名前だ。
アルク。古い言葉で「繋ぐ」を意味する。
商売は繋がりだ。人と人、物と物、情報と情報。それを繋ぐ者が、市場を制する。
少なくとも、俺はそう考えている。
◇
商会の設立から一週間。
取引は順調だった。むしろ、順調すぎた。
衛兵隊の半量契約が始まると、そこから派生して問い合わせが増えた。
「衛兵隊の医療班を担当している商会があると聞いた」
「証明書つきの薬草を扱っているのは、ここか」
口コミの速度が、処理能力を超え始めている。
顧客の情報が脳裏に並ぶ。フェルト男爵家はハイゼン経由で契約済み。ベルク子爵家はグレイス経由、こちらも契約済み。王都衛兵隊、冒険者経由で契約済み。東方辺境伯の代理が衛兵隊経由で交渉中。さらに南門警備隊と傭兵団「鉄槌」から問い合わせが来ている。
6件の取引先に、3件の新規。
問題は、この9つの関係が単純な一覧では管理しきれなくなっていることだ。
フェルト男爵家はハイゼン男爵家の紹介で来た。この二家は姻戚だ。ベルク子爵家はグレイス子爵家の紹介。しかしベルク家とハイゼン家は仲が悪い。衛兵隊のヴォルフは東方辺境伯に知人がいて、そこから話が流れた。
「セレナ、ベルク子爵家とハイゼン男爵家の関係は」
「悪いわ。三年前の領地境界の件で揉めている」
「じゃあ、ベルク家への納品にハイゼン家の名前は出さないほうがいい」
「当然よ。でも、フェルト家はハイゼン家経由だから、フェルト家とベルク家の同席も避けるべきね」
「面倒だな」
「貴族の付き合いってそういうもの。一つ間違えれば両方失うわよ」
俺はデータベースを開いた。
顧客テーブル。仕入先テーブル。人物テーブル。
それぞれに情報は入っている。だが、「誰と誰が繋がっているか」は入っていない。
ハイゼン家とフェルト家が姻戚であること。ベルク家とハイゼン家が対立していること。ヴォルフと東方辺境伯の代理人が旧知であること。
これらの「関係」は、全てセレナの頭の中にある。セレナがいなければ、俺はとっくに地雷を踏んでいた。
「ねえ、レイン」
「何だ」
「あなた、顧客の情報をどう管理しているの。さすがに頭の中だけじゃ無理でしょう」
「……帳簿に書いている」
嘘だ。データベースだ。だが、まだ言えない。
「帳簿ね。それじゃ限界が来るわよ。人が増えれば関係も増える。十人の顧客なら関係は45通り。百人になれば——」
「4950通り」
セレナが目を丸くした。
「……暗算が速いのは知ってたけど」
「高速演算スキルだ」
「そう。じゃあ計算はできるとして、その4950通りの関係を、全部覚えていられる?」
覚えていられない。
データベースがあっても、テーブルが独立している限り、関係性は記録できない。
顧客テーブルに「ハイゼン男爵家」がある。人物テーブルに「ハイゼン男爵」がある。仕入先テーブルに「マルコ商店」がある。
だが、「ハイゼン男爵家の執事はマルコ商店の主人と旧知である」という情報は、どこにも格納されていない。
テーブルとテーブルの間に、橋がない。
(外部キー)
その言葉が、脳裏をかすめた。
まだ形にならない。だが、必要なものの輪郭は見えている。
テーブルを繋ぐ鍵。レコードとレコードの関係を定義する仕組み。
「レイン? また考え事?」
「ああ。関係の管理か。確かに、今のやり方じゃ限界だ」
セレナは腕を組んだ。
「私が覚えていられるのは、せいぜい五十人分よ。それ以上になったら——」
「なったら、どうする」
「人を雇うか、仕組みを作るか。どちらにしても、あなたが考えることね」
セレナは窓の外を見た。南区の通りに、夕日が差している。
「商会を作ったということは、もう一人じゃないの。組織として動くなら、私の頭の中だけに情報を置いておくのは危険よ」
正しい。
セレナが倒れたら、俺は顧客の関係図を一瞬で失う。それは商会にとって致命的なリスクだ。
「考えておく」
「期待しているわ」
セレナは部屋を出ていった。
俺は新しい事務所の椅子に座り、天井を見上げた。
テーブルは増えた。レコードも増えた。主キーで個体を区別できるようになった。
だが、それだけでは足りない。
次に必要なのは、テーブルとテーブルを繋ぐ力だ。




