衛兵隊との最初の契約
セレナが動き出すと、風景が変わった。
契約から三日目の朝。セレナが食堂に降りてきて、紙を一枚置いた。
「ハイゼン男爵家。戦線に兵を送っていて、医療物資が不足しているわ」
「どこから聞いた」
「昨日、王都の教会に顔を出したの。没落しても、聖堂での顔見知りは残っている。男爵夫人が献金の場で嘆いていたと」
なるほど。市場の掲示板や問屋の噂話では、こんな情報は拾えない。
ハイゼンの名を検索する。
男爵位。領地は東部。現在、戦線に兵を派遣中。財政は中程度。大商人が相手にする規模ではない。だが、金がないわけでもない。
「いい標的だ。大商人が手を出さない、だが金は持っている」
「標的って。人聞きが悪いわね」
「お客様、と言い換えましょうか」
セレナが鼻を鳴らした。
◇
翌日、ハイゼン男爵邸。
門をくぐると、手入れされた庭から花の香りが漂ってくる。小さいが品のある屋敷だ。セレナが取りつけたのは、男爵夫人との面会だった。男爵本人は領地で軍務中。屋敷の切り盛りは夫人が担っている。
「セレナ様、お久しぶりです」
夫人が応接間に通してくれた。四十代、柔らかい物腰の女性だ。セレナを「様」付けで呼ぶ。没落前の格の差が、まだ生きている。
「お久しぶりです、マリア様。こちらは私のビジネスパートナーのレインです」
「商人の方?」
夫人の目に警戒の色が混じった。商人に騙された経験でもあるのだろう。戦時中は悪質な商人も多い。
俺は丁寧に頭を下げた。
「本日は、医療物資のご用命があると伺いまして」
「ええ……。東部の夫から手紙が来ていて、治療用の薬草が足りないと。でも王都の大きな商会はどこも軍の大口契約で忙しくて、うちのような小さな家は後回しにされてしまうの」
(やはりそうか)
大商人にとっては手間に見合わない規模だ。
だが、俺にとっては違う。
「どのような薬草が必要ですか」
夫人がリストを見せてくれた。赤傷草、月光花、銀苔。それに加えて、熱冷ましの青葉草と、化膿止めの白粉花。
五種類。合計で数百束の注文だ。
「納期はいつまでに」
「十日後に補給の馬車が出ます。それに載せたいのだけれど……こんな量、急に用意できるかしら」
五種の名前で、仕入先を絞り込む。
三軒の問屋と、市場の小売りが二軒。ただ、引っかかる。青葉草の在庫がどこも薄い。戦場需要で品薄らしく、まともな品質のものは二軒合わせても必要量の7割しかない。
「十日で用意します」
「本当に? こんな量を」
「品質も保証します。納品時にご確認いただいて、ご満足いただけなければ代金は不要です」
セレナがちらりと俺を見た。大胆な約束だ、という目だ。
青葉草の在庫は足りていない。残り3割をどう確保するか、まだ見えていない。だが、他の四種は確実に揃えられる。約束を破る可能性は低い。低いが、ゼロではない。
夫人はしばらく俺の目を見ていた。
「……お願いしてもいいかしら」
「はい。見積もりは明日お届けします」
◇
男爵邸を出て、通りを歩きながらセレナが言った。
「品質保証なんて、よく言えたわね。不良品が混じっていたらどうするの」
「混じらない」
「根拠は」
「俺のスキルだ。それ以上は企業秘密」
セレナは少し黙ってから、小さく息をついた。
「あなたの秘密、そのうち教えてもらうわよ」
「稼いでからですね」
◇
七日後。納品の日。
青葉草の残り3割を確保するのに、四日かかった。南門の問屋を回り、東市場の薬舗にまで足を延ばし、エドが「もう歩けないっす」と泣き言を言い出した頃に、ようやく揃った。
荷馬車いっぱいの薬草を、男爵邸に届ける。
夫人が品質を確認する。一束ずつ手に取り、色と茎の太さを確かめている。この人は見る目がある。
「……素晴らしいわ。この品質で、この価格」
見積もりは大商人の相場より2割安い。青葉草の仕入れに苦労した分、利益は想定より薄くなった。だが、初回だ。信頼を買う方が先だ。
「今後も、お取引いただけますか」
「来月も同じ品質でしたら、お願いしたいわ」
条件つきの返事だ。だが、それでいい。
俺は微笑んだ。営業用の笑顔だ。
◇
宿に戻り、帳簿をつける。
売上から原価と輸送費を引いて、粗利を出す。セレナの取り分を差し引くと、手元に残るのは金貨20枚ほど。青葉草の仕入れが高くついた分、見込みより薄い。
それでも、市場で薬草を売っていた頃の十日分だ。
「はい、あなたの取り分」
セレナの前に金貨11枚と銀貨20枚を置いた。
セレナは金貨を見つめている。手を伸ばし、一枚を取り上げ、指で弾く。澄んだ音が部屋に響いた。
「悪くないわね」
「ええ。悪くない」
セレナの唇がわずかに緩んでいる。初めて見る、計算抜きの表情だ。
「ただ」
俺は続けた。
「まだ始まったばかりだ。男爵家一軒では足りない」
「分かっているわ。次は子爵家を狙う。教会で二、三当たりがあるの」
「頼みます」
セレナは金貨を外套のポケットにしまう。
「ねえ、レイン」
「何ですか」
「もう少しいい宿に移らない? 壁が薄くてエドのいびきが聞こえるの」
「稼いでからです」
「……あなた、本当にケチね」
隅でエドが肩を震わせ、必死に笑いを噛み殺している。
データベースを更新する。
資金は60枚を超えた。薬草の扱いは五種に増え、顧客の欄にはハイゼン男爵家の名が加わった。冒険者の常連だけだったリストに、初めて貴族の名前が並ぶ。
一軒。まだ一軒。
だが、ゼロと一の間には、果てしない距離がある。
最初の一歩は、踏み出した。




