第7話 数字の好きな男
数字は人を救えるのか。
カエサルから与えられた課題は、主人公にとって意外なものでした。
病人が減った。
それは医師としては喜ばしい成果です。
しかし将軍が知りたいのは別のことでした。
「その結果、軍は何を得たのか」
医療と軍事。
人命と組織。
主人公は初めて、その両方を同時に考えることになります。
どうぞお楽しみください。
「病人が減った。それで軍は、何人多く戦えるようになった?」
その問いが、一晩中、頭から離れなかった。
単純な質問である。
だが、正確に答えようとすると難しい。
患者数が減ったからといって、全員が直ちに戦列へ戻れるわけではない。
軽症者。
重症者。
回復中の者。
後遺症が残る者。
死亡者。
一人の兵士が病気になれば、看病や運搬のため別の兵士も任務を離れる。
炊事兵が倒れれば、本人一人の問題ではない。
騎兵が倒れても、歩兵として単純に置き換えることはできない。
医療上の人数と、軍事上の戦力は同じではなかった。
現代なら、欠勤日数。
労働損失日数。
復職率。
重症度別の平均離脱期間。
そうした指標を使う。
だが、この軍には記録がない。
「最初から完璧な数字など作れない」
俺は自分へ言い聞かせた。
手元にある情報で、仮説を作るしかない。
油灯の芯を切り、木板を新しく削らせる。
まず、赤痢患者一人当たりの平均離脱日数を調べる。
症状が軽い者は三日から五日。
血便と発熱がある者は十日以上。
重症者は一か月近く動けず、死亡する場合もある。
さらに患者一人につき、食事や水の運搬、排泄の世話をする者が必要になる。
兵士同士で看病している場合、その人員も戦闘任務から外れる。
俺は木板へ書き込んだ。
患者本人の離脱日数。
看病者の離脱時間。
失われる訓練時間。
消費される食料。
使われる布。
埋葬に必要な人員。
そこまで計算して、手が止まった。
埋葬に必要な人員。
死者を、費用として扱っている。
数字の向こうにいるのは、クィントゥスのような人間である。
父がいる。
母がいる。
妻や子供がいるかもしれない。
彼らを、失われた戦力として数えてよいのか。
「何を悩んでいる」
背後から声がした。
振り返ると、ラビエヌスが立っていた。
夜明け前である。
軍団の首席副官が、ほとんど眠っていないことに驚いた。
「カエサル様からの課題です」
俺は木板を見せた。
ラビエヌスは目を通した。
「病人一人につき、看病する兵士の時間まで数えるのか」
「軍事的な損失を求められました」
「なら死者も数えろ」
「数えています」
「手が止まっている」
見透かされていた。
「人間を、戦力としてだけ見ることに抵抗があります」
ラビエヌスは眉を上げた。
「軍隊に来て、何を言っている」
「兵士は道具ではありません」
「当然だ」
意外な答えだった。
「だが、指揮官は兵士を使う」
「矛盾しています」
「矛盾ではない。責任だ」
ラビエヌスは木板を指した。
「一人を危険にさらさなければ、百人が死ぬ場面もある。百人を退かせれば、一万人が生き残る場面もある」
「だから数字で判断するのですか」
「数字だけではない」
ラビエヌスは首を振った。
「地形を見る。敵を見る。兵の顔を見る。風を見る。自分の恐怖も見る。その上で決める」
「間違えたら?」
「死んだ者の名を背負う」
その言葉は重かった。
高瀬真一は、患者が亡くなれば症例を検討した。
合併症。
適応。
手技。
判断。
システム上の問題。
分類し、原因を書き出し、再発防止策を作る。
だが、すべてを背負っていたかと問われれば、自信がない。
数値化することで、患者の死から距離を置いていたのではないか。分類は理解の道具であると同時に、優れた防具でもある。
「お前は兵を生かしたいのだろう」
ラビエヌスが言った。
「はい」
「なら、カエサルに示せ。お前の方法で、何人を生かせるのか」
「命を数字に変えてもよいのですか」
「逆だ」
ラビエヌスは俺を見た。
「数字にしなければ、死んだ者は忘れられる」
数日前に、自分が口にした言葉だった。
忘れないために数える。
何をすれば死に、何をすれば生きるのかを残す。
同じ言葉が、三十年戦場にいた男の口から返ってくると、まったく別の重さになった。
俺は木板へ向き直った。
「ラビエヌス様」
「何だ」
「赤痢が発生した部隊の、過去一か月の訓練欠席者数を教えてください」
「そんな記録はない」
「では、百人隊長たちへ聞き取りをします」
「夜明けまでに間に合わんぞ」
「可能な範囲で構いません」
ラビエヌスはため息をついた。
「クィントゥスを使え。あの男は各隊の事情に詳しい」
「ありがとうございます」
「礼は結果を出してから言え」
◇
クィントゥスを起こしに行くと、激しく怒られた。
「脚を切らずに済んだと思ったら、今度は睡眠を切り取るつもりか!」
「一刻だけです」
「一刻で十二の百人隊を回れるか」
「回れませんか」
「回れる。だが二度とやらんぞ」
文句を言いながら、彼は杖をつかんで立ち上がった。
夜明けまでに十二の百人隊から聞き取りを行った。
正確な数字ではない。
記憶違いもある。
誇張もあるだろう。
「先月は五人が寝込んだ」と言った百人隊長が、隣の男に「八人だろう」と訂正される。その八人の内訳を聞くと、二人は酒による腹痛だった。
それでも傾向は見えた。
赤痢患者本人だけでなく、看病、運搬、清掃、埋葬によって、発症者数の約一・五倍に相当する人員が一時的に通常任務を離れていた。
新規発症が一日十二人から一人へ減れば、患者本人と周辺人員を合わせ、毎日十数人分の戦力損失を防げる。
一か月では数百人日。
一個百人隊が数日間、丸ごと消えるのと同等である。
俺は数値の幅を示した。
最少推計。
標準推計。
最悪推計。
◇
その日の朝、再び総督の天幕へ入った。
カエサルはすでに地図を見ていた。
昨日と同じ服装だった。
この男も、ほとんど眠っていないのかもしれない。
「答えを持ってきたか」
「推定です」
「前置きはよい」
俺は木板を机へ置いた。
「衛生対策をしなかった場合、現在の発症速度なら、一か月で少なくとも二百五十人から三百五十人が数日以上任務を離れる可能性があります」
天幕内が静まった。
「衛生対策を継続した場合は?」
「五十人から百人程度まで減らせる可能性があります」
「差は?」
「最少で百五十人。多ければ三百人近くです」
カエサルは即座に尋ねた。
「一個軍団では?」
「今回の部隊と同じ条件なら、およそ一個百人隊から数個百人隊分の戦力を維持できます」
「全軍では?」
俺は言葉を詰まらせた。
まだ一部隊の観察しかない。
「単純に掛け算はできません」
「なぜだ」
「水場、地形、季節、部隊ごとの規律が違います」
「では、お前の数字は役に立たないのか」
試されている。
俺は首を振った。
「役に立ちます。ただし、未来を言い当てるためではありません」
「何のためだ」
「どこへ人と物を配るかを決めるためです」
カエサルの目がわずかに光った。
俺は続けた。
「病人が多い部隊へ、水壺、薪、布、衛生担当者を優先して配置する。改善しない部隊は、水場や食料を再調査する。数字は答えではありません。異常を見つけるための警報です」
カエサルは木板を手に取った。
「この最少、標準、最悪という三つの数字は何だ」
「幅です。情報が不確かなため、一つの数字へ決める方が危険です」
「弱気に見える」
「確実でない数字を、確実そうに言うよりは安全です」
書記官の一人が、かすかに笑った。
カエサルも口元を緩めた。
「数字の好きな男かと思ったが、数字を疑う男でもあるらしい」
「数字を信じています」
俺は答えた。
「だからこそ、限界も示します」
カエサルは俺の木板を机へ置いた。
「では、次の七日間で確かめろ」
「何をです」
「お前の方法が、一部隊だけの偶然でないことをだ」
「どの部隊で試すのですか」
「三個コホルス」
予想より大規模だった。
一個コホルスは数百人。
三個なら千人を超える。
水場の管理。
病人の隔離。
手洗い。
布の煮沸。
患者記録。
俺一人では到底管理できない。
「人員が必要です」
「何人だ」
「最低でも各コホルスに二人。可能なら四人」
「誰を使う」
「読み書きのできる兵士と、軽傷で戦闘訓練に参加できない兵士です」
「医師ではなくてよいのか」
「医師にしかできない仕事と、誰でもできる仕事を分けます」
カエサルはラビエヌスを見た。
いつの間にか、彼も天幕内へ入っていた。
「聞いたな」
「はい」
「三個コホルスを選べ。規律の良い部隊、普通の部隊、問題の多い部隊を一つずつだ」
ラビエヌスが頷いた。
「七日後、お前の方法が役立つか判断する」
カエサルは俺へ言った。
「失敗した場合は?」
「お前を父親の屋敷へ返す」
「成功した場合は?」
カエサルは答えなかった。
地図へ視線を戻した。
「成功してから聞け」
天幕を出た俺に、ラビエヌスが言った。
「自分から褒美を尋ねるとは、肝が据わっているのか、礼儀を知らないのか」
「両方かもしれません」
ラビエヌスは鼻で笑った。
「七日だ、数字の好きな男」
◇
七日間。
千人を超える兵士。
俺は自分の天幕へ戻り、必要な人員を書き出した。
各コホルスに四人。
三個で十二人。
翌朝、割り当てられた者の名簿が届いた。
十二の名が並んでいる。
そのうち九人が、字を読めなかった。
第7話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回のテーマは「数字の意味」でした。
患者が何人いるか。
死者が何人出たか。
それだけでは組織は動きません。
その数字が、
・どのような損失を生み
・どのような利益を生み
・何を優先すべきか
を示して初めて意思決定に使われます。
主人公は医師ですが、MBAや経営経験を通じて数字の使い方も学んできました。
そしてカエサルもまた、数字の先にある現実を見る人物です。
次回から、主人公の改革は個人ではなく軍団全体を対象にした試験へ進むことになります。
【ローマ豆知識⑤ ローマ軍はなぜ強かったのか】
ローマ軍が強かった理由として、兵士の勇敢さが語られることがよくあります。
しかし実際には、
・補給
・道路
・宿営地建設
・情報収集
・指揮系統
といった「仕組み」の力も非常に大きなものでした。
本作で主人公が行っている衛生改革も、その仕組みの一つです。
ローマは個人の英雄だけでなく、優れた制度によって強くなった国家でもありました。




