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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第1章 二つの死、二つの人生

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第6話 総督の天幕

一人の患者を救うことはできた。


一つの部隊から病を減らすこともできた。


しかし、それだけでは世界は変わらない。


大きな組織を動かすためには、その組織を率いる人間に認められる必要がある。


今回、主人公の前に現れるのはローマ最強の将軍。


後に世界史へその名を刻む男。


ガイウス・ユリウス・カエサル。


歴史を知る主人公にとっても、避けては通れない人物との最初の出会いです。


どうぞお楽しみください。

その夜、俺は木板を三度書き直した。

三十九。二十七。十五。八。一。

数字は変わらない。変えたのは、並べ方だけだった。

一枚目は、日付順に並べた。読みにくい。

二枚目は、天幕ごとに分けた。細かすぎる。

三枚目で、ようやく上下二段にした。上段が療養中の人数、下段がその日の新規発症。

これなら、見た人間が最初の三呼吸で「減っている」と分かる。

前の人生で、俺は学会発表用の図表を何百枚も作った。データが正しくても、伝わらなければ何も動かない。それだけは、二千年経っても変わらないらしい。

カエサル。

ガイウス・ユリウス・カエサル。

後世の歴史書では、軍事の天才、政治家、終身独裁官、ローマ帝国への道を開いた男として語られる。

俺が生きていた時代では、誰もがその名を知っていた。

だが、今は違う。

紀元前五十八年。

彼はまだ皇帝ではない。

そもそも、この時代のローマに皇帝という地位は存在しない。

莫大な借金を抱え、政敵に囲まれながら、ようやく属州の総督職を得たばかりの野心的な政治家である。

昨年のウァティニウス法で得たのは、ガリア・キサルピナとイッリュリクム。アルプスの向こう側の属州は、元老院決議で後から付け足された。任期は五年。

これから始まる戦争に勝てなければ、歴史に名を残すことなく失脚する可能性さえある。

そして俺は、その男の未来を知っている。

ガリアを征服する。

ルビコン川を渡る。

ポンペイウスを破る。

終身独裁官となる。

そして、元老院議場で殺される。

三月十五日。

その日付を思い浮かべるだけで、背筋が冷えた。

「顔色が悪いぞ」

クィントゥスが言った。

彼は杖を使っているものの、すでに自分で宿営地を歩いていた。傷はまだ塞がっていない。毎朝、俺が包帯を替えている。

「まだ熱病が治っていないのではないか」

「カエサルに会うと聞けば、誰でも顔色くらい悪くなります」

「そうか?」

クィントゥスは豪快に笑った。

「俺なら、酒を一杯飲んでから行く」

「あなたの助言は、いつも酒につながりますね」

「酒で解決しない問題は、飲む量が足りないのだ」

現代の医師としては、絶対に同意できない。

しかし今は、その乱暴な冗談がありがたかった。喉の奥に貼りついていたものが、少し剥がれた。

「これを持っていけ」

クィントゥスは丸めた布を俺へ差し出した。

中には、黒ずんだ木片が入っていた。

彼の大腿部から取り出した異物である。

「なぜ、これを?」

「お前の話を信じない者がいたら、見せてやれ」

「ただの腐った木片にしか見えません」

「俺の脚の中に七日間入っていたと言えば、少しは面白がるだろう」

カエサルが木片に興味を持つとは思えない。

それでも俺は受け取った。

患者が助かった証拠を、この男は自分の身体から取り出して渡している。そういう渡し方をされたものは、断れない。

総督の天幕は、宿営地の中央にあった。

外から見れば、他の天幕とそれほど変わらない。装飾も少ない。ただ、周囲の空間だけが妙に広く空けてある。人が近づかないのではなく、近づけない空間の作り方だった。

護衛が槍を交差させ、名を問う。

「ルキウス・アエリウス。医療記録の件で参りました」

槍が上がった。

中へ入ると、思っていたのと違った。

饗宴でも、演説でもない。

書記が七人。

蝋板と木板と巻物が机を埋め、鉄筆の音が絶え間なく鳴っている。地図の上には小石と色のついた札が並び、誰かが穀物の数を読み上げ、別の誰かが復唱していた。

会計事務所である。

軍というより、企業の本部に近い。

「アエドゥイ族からの受領分、四千三百」

「倉庫報告では四千百です」

「差はどこへ行った」

「調査中です」

俺は思わず足を止めた。

在庫が合っていない。

しかも、合っていないことを誰も解決できていない。

「口を挟むな」

案内の書記官が小声で言う。

だが、聞こえてしまった。

「袋の大きさは、倉庫ごとに違いますか」

書記たちが一斉に俺を見た。

「何だ、お前は」

「同じ言葉を使っていても、定義が違えば数字は一致しません」

俺は近くの蝋板を指した。

「一袋を同じ量として扱っているのが原因です。倉庫ごとに袋の大きさが違えば、袋数で比べても意味がない。容量へ換算しなければなりません」

書記の一人が不機嫌そうに眉を寄せた。

「袋の大きさなど、倉庫番が知っている」

「倉庫番が知っていても、ここにいる人間が知らなければ、軍全体の在庫は分かりません」

「では、どうしろと言う」

「すべて同じ単位で記録します」

「簡単に言うな。全倉庫の記録を書き直すのか」

「今直さなければ、行軍中に食料が足りないと判明します」

書記は黙った。

横から、別の声が聞こえた。

「不足は何日後に起きる?」

低く、よく通る声だった。

天幕内の全員が動きを止めた。

鉄筆の音が消える。

書記たちが一斉に姿勢を正す。

俺はゆっくりと振り返った。

赤い縁取りのある軍用外套。

細身の身体。

高い額。

鋭く、相手の内側まで見通すような目。

派手な威圧感はない。

背も特別に高くはない。

しかし、その男が入ってきただけで、天幕の空気の密度が変わった。

ガイウス・ユリウス・カエサル。

歴史上の英雄が、俺を見ていた。

「質問に答えろ」

カエサルは言った。

「不足は何日後に起きる?」

俺は蝋板へ目を戻した。

計算に使える数字は不完全だった。

それでも、おおよその推定はできる。

「現在の記録が正しいと仮定すれば、十一日後です」

「記録が誤っていれば?」

「最短で七日です」

「最長では?」

「十五日。ただし、そこまで持つ可能性は低い」

カエサルは書記官を見た。

「全倉庫の袋一つ当たりの容量を、日没までに調べろ。明朝から容量単位で報告させる」

「はっ」

書記たちが慌ただしく動き始めた。

一つの質問と、一つの命令。

それだけで、この組織の記録の仕方が今日から変わる。俺が三日かけて説得した宿営地の水場のことを思うと、権力というものの単純な効き方に眩暈がした。

カエサルは再び俺を見た。

「お前が、病人を数えている男か」

喉が鳴った。

「はい」

「名前は?」

「ルキウス・アエリウスです」

「アエリウス」

カエサルは記憶を探すように目を細めた。

「ガイウス・アエリウスの息子か」

「父をご存じなのですか」

「金と穀物を持ってくる男の名は覚えている」

政治家らしい答えだった。

カエサルは俺の持っている木板へ視線を落とした。

「見せろ」

俺は両手で木板を差し出した。

三度書き直した、上下二段の板である。

カエサルは受け取ると、上段を左から右へなぞった。

三十九。

二十七。

十五。

八。

一。

表情は変わらない。

だが、視線が下段へ落ちるまでに、ほとんど間がなかった。この男は、二段になっている意味を説明なしで理解している。

「数字の減少が、お前の対策によるものだと証明できるか」

「完全には証明できません」

周囲の書記たちが、息を呑んだ。

せっかくの功績を、自分で否定したように聞こえたのだろう。

しかしカエサルは、わずかに口元を上げた。

「正直だな」

「偶然に自然減少した可能性があります。患者の把握漏れもあります」

「では、何のために数えた」

「次に同じことが起きた時、比較するためです」

「次?」

「一度だけなら奇跡です。何度でも再現できれば、方法になります」

カエサルは木板を見たまま、しばらく黙っていた。

その沈黙の間に、俺は理解した。

この男は、ただ数字を見ているのではない。

俺が何者なのかを測っている。

病弱な商人の息子。

医師でも軍人でもない若者。

それが軍団の衛生を変え、穀物記録の欠陥まで指摘した。

カエサルにとって俺は、理解不能な異物なのだ。

そして、おそらく。

利用価値があるかどうかを判断されている。

「明朝、もう一度来い」

カエサルが言った。

「質問がある」

「今では駄目なのですか」

天幕内の空気が凍った。

書記の一人が、信じられないものを見る顔をした。

総督の命令へ問い返す者などいないのだろう。

カエサルは怒らなかった。

むしろ面白そうに俺を見た。

「今夜、お前に準備をさせるためだ」

「何を準備するのです」

「お前が減らしたという病人の数を、兵士の数へ変えてこい」

「同じでは?」

「違う」

カエサルは木板を俺へ返した。

「病人が減った。それで軍は、何人多く戦えるようになった?」

答えられなかった。

木板には、三十九、二十七、十五、八、一と書いてある。

三度書き直して、自分では完璧なつもりでいた板だった。

その下に書くべき数字を、俺は一つも持っていなかった。


第6話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は主人公とカエサルの初対面回でした。


ただし、この作品のカエサルは、まだ後世の人々が知る「英雄カエサル」ではありません。


彼はまだガリア遠征を始めたばかりの総督です。


成功も確約されておらず、多くの借金や政治的な問題を抱えています。


しかし同時に、


・人材を見抜く目


・情報を活用する能力


・決断の速さ


は、この時代でもすでに並外れています。


主人公が評価されたのも医療技術そのものではなく、


「数字から問題を見つける能力」


そして


「仕組みとして再現しようとする考え方」


でした。


一人の患者を救う医師から、


軍団そのものを変える人物へ。


主人公の立場は少しずつ変わり始めています。


次回、第7話。


カエサルから出された課題。


「病人が減ったことで、何人の兵士が戦えるようになったのか」


その問いに主人公は向き合うことになります。


【ローマ豆知識④ カエサルはまだ皇帝ではない】


多くの人が「カエサル=ローマ皇帝」という印象を持っています。


しかし紀元前58年の時点で、カエサルは皇帝ではありません。


そもそもローマ帝国すらまだ存在しておらず、この時代は共和政ローマです。


カエサルの肩書は「ガリア総督プロコンスル」。


属州と軍団を任された有力政治家の一人に過ぎません。


とはいえ、彼が率いる軍団はローマ最強クラスの戦力でした。


そしてこれから始まるガリア戦争によって、カエサルは歴史上屈指の名将として知られるようになります。


現時点では、まだその物語の始まりに過ぎません。

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