第5話 赤痢が消えた日
宿営地には、酸っぱい臭いが漂っていた。
汗。
馬糞。
腐りかけた食料。
革。
煙。
そして排泄物。
数千人の男と多数の馬、荷車、職人、商人が一か所へ集まれば、何もしなくても汚染は広がる。
ローマ軍の宿営地は、教科書に描かれるような整然としたものではなかった。いや、外形は整然としている。土塁と堀で四角く囲われ、街路は直交し、天幕は規則正しく並んでいる。工兵の仕事は見事だ。
だが、その内側で人間が生活している。
天幕と天幕の間に、洗濯物と汚物と食い残しが溜まる。
設計は完璧で、運用が存在しない。
戦場で敵と遭遇する前に、軍は自らの排泄物によって崩壊しかねなかった。
歴史上、軍隊を最も多く殺してきたのは敵ではない。赤痢とチフスと発疹熱である。ナポレオンのロシア遠征も、クリミア戦争も、そうだった。
俺は百人隊長クィントゥスに案内され、川沿いを歩いた。
最初に見つけたのは、飲料水をくむ場所だった。
その上流で、兵士が衣服を洗っている。
さらに上では、馬へ水を飲ませていた。
もっと上流には、簡単な穴を掘っただけの便所がある。
雨が降れば、汚物は川へ流れ込む。
俺は川面を見た。冬の終わりの水は澄んで見える。澄んで見えることが、この問題を厄介にしている。
「どうして、便所を上流へ作ったのです」
俺が聞くと、担当の兵士は不思議そうな顔をした。
「宿営地から臭いを遠ざけるためだ」
間違ってはいない。
風向きだけを考えれば合理的である。
彼らは考えなかったのではない。考えた。ただし、悪いのは臭いだという前提で考えた。
前提が違えば、正しい思考は正しい間違いへ到達する。
「今日中に位置を変えます」
「誰の命令で」
背後から、低い声がした。
振り返る。
長身の男が立っていた。
四十歳前後。
日に焼けた顔。
華美な装飾はないが、兵士たちは一斉に背筋を伸ばした。
ティトゥス・ラビエヌス。
カエサル軍の首席副官。
ガリア戦争において、カエサルから独立した作戦指揮を任される有力将軍。
そして数年後、カエサルを離れ、敵となる男。
歴史上の人物が目の前にいる。
緊張で喉が乾いた。
俺が知っているのは、彼が最後にどうなるかだ。ムンダの戦場で、かつての上官の軍に討たれる。あと十三年ある。
だが今は、未来の内戦を考えている場合ではない。
「私の判断です」
俺は答えた。
ラビエヌスの目が細くなった。
「お前は誰だ」
「ルキウス・アエリウス。軍への物資供給を請け負うガイウス・アエリウスの息子です」
「徴税人の若造か」
「徴税ではなく、現在は物資供給が中心です」
「同じようなものだ」
否定しにくかった。
公共請負人。属州の税を先に国庫へ納め、後から取り立てて差額を得る。ローマの行政は、この民間業者なしには成り立たない。そして属州民に最も憎まれている職業でもある。
「それで、商人の息子が軍の便所へ命令するのか」
「この配置では、兵士が自分たちの排泄物を飲むことになります」
周囲の兵士がざわついた。
「言葉を選べ」
ラビエヌスの声が低くなる。
「選べるほど時間がありません。すでに赤痢が広がっています」
「何人だ」
「現時点で三十九人です」
「なぜ分かる」
俺は持参した木板を見せた。
部隊。
発症日。
症状。
使用した水場。
同じ天幕の人数。
死亡者。
簡単な集計表である。蝋板ではなく、削った木の板に炭で書いた。蝋は消えやすい。消えない記録が必要だった。
ラビエヌスは木板を受け取った。
「三十九という数字は確かなのか」
「確認できた者だけです。実際はさらに多い可能性があります」
「推測を報告へ混ぜるな」
「ですから、確認済みと推定を分けて記しています」
ラビエヌスの視線が木板の下段へ動いた。
確認済み三十九。
未確認推定二十以上。
死亡四。
重症十一。
「数字が好きらしいな」
「数字は、現実を隠しません」
「人間が書く数字は、いくらでも嘘をつく」
その指摘に、俺はすぐには答えられなかった。
正しい。
集計は客観的ではない。
誰が、何を、どう数えたかで数字は変わる。この男は統計学を学んでいない。それでも、統計の最も危険な部分を経験だけで知っている。
「だから、複数の者に確認させます」
「手間が増える」
「病人が増えるよりは安い」
ラビエヌスは無表情のまま俺を見ていた。
敵意ではない。
値踏みしている。
「何を変える」
俺は川を指した。
「最上流を飲料水専用にします。そこでは馬を入れず、洗濯もさせません」
指を下流へ移す。
「次に炊事。さらに下流で洗濯と器具の洗浄。馬は別の場所です」
さらに下を示す。
「便所は川から離し、必ず下流側へ掘る。穴は毎日土で覆う」
「それだけか」
「赤痢患者を同じ天幕へ集めます」
軍医の一人が声を上げた。
「病人を隔離するのか。見捨てるつもりか」
「違います。治療を集中させ、他の兵士への感染を防ぐためです」
「病は神々の意志だ」
「神々の意志でも、水を分けることはできます」
数人の兵士が笑った。
軍医は顔を赤くした。
言い過ぎた、と思った。この男は明日から俺の敵になる。正しさで人を赤面させた分だけ、改革は遅れる。それが分かっていて、口が止まらない。高瀬真一の悪癖は、身体が変わっても直っていなかった。
俺は続けた。
「炊事場と病人用天幕の入口へ手洗い場所を作ります。使用した布は煮る。食器を共有しない。飲み水は可能な範囲で沸かす」
「薪が増える」
補給担当者が言った。
「薪の消費量を計算します。全軍分が無理なら、病人と炊事用を優先します」
「人手は」
「軽傷兵と戦闘訓練前の新兵を使う。仕事を細分化します」
俺は別の板を出した。
水場の監視。
便所掘削。
薪の運搬。
布の煮沸。
患者数の記録。
それぞれに必要な人数と時間を書いてある。
完全ではない。
だが、命令を「衛生に注意しろ」という曖昧な言葉で終わらせず、行動単位へ分解した。
誰が、いつ、何を、どれだけ。
そこまで書いて初めて、命令は実行される。
ラビエヌスは二枚の板を見比べた。
「本当に、これで減るのか」
「絶対とは言えません」
「また、それか」
「医療に絶対はありません」
ラビエヌスの口元が、わずかに動いた。
「気に入らんな」
「何がです」
「自信があるのか、ないのか分からない」
「方法には自信があります。結果を保証できないだけです」
しばらく沈黙があった。
川の水音と、遠くの鍛冶の槌音だけが聞こえていた。
やがてラビエヌスは、近くの百人隊長へ木板を投げ渡した。
「書いてある通りに動け」
軍医が抗議した。
「ラビエヌス様!」
「四日与える」
ラビエヌスは俺を見た。
「四日で何も変わらなければ、元へ戻す。兵士を無駄に使った分は、お前の父へ請求する」
「四日では短すぎます」
「軍は病院ではない」
「最低でも七日です」
周囲が静まり返った。
首席副官へ条件交渉をする若造など、ほとんどいないのだろう。
ラビエヌスの目が鋭くなった。
「五日だ」
「六日」
「五日だ」
「分かりました」
交渉失敗である。
だが、実施許可は得た。値切られた一日は、成果が出れば取り返せる。出なければ、どのみち何日あっても同じだった。
◇
その日から、宿営地は混乱した。
便所の位置を変えられた兵士が文句を言う。
上流で馬へ水を飲ませようとした騎兵が、監視役と喧嘩する。
煮沸用の薪が足りない。
水壺の栓が壊れる。
患者数を記録する書記が、血便という言葉を書くのを嫌がる。
「こんなものを毎日数えて何になる」
ティロという若い書記だった。解放奴隷の子で、字を書くのが速い。
俺は木板を指した。
「敵を数えている」
「敵?」
「病気だ」
書記は変人を見る目を向けた。
だが、手は止めなかった。
俺は木板を二段に分けて書かせた。
上段に、その日、天幕で寝ている患者の数。
下段に、その日、新しく倒れた者の数。
前者は在庫であり、後者は流入である。二つを分けなければ、対策が効いているのか、単に人が死んで減っただけなのかが区別できない。
一日目。
療養中三十九。新規十二。
二日目。
療養中二十七。新規九。
三日目。
療養中十五。新規七。
死亡者は出た。
すでに重症だった二人である。
一人は炊事班の男で、もう一人は去年入った新兵だった。名前を聞いた。書いた。数字の横に、名前を書く欄を作った。
俺は何度も、自分の対策が遅かったことを責めた。
だが四日目、新規発症者は四人まで減った。
療養中八。
五日目。
療養中一。新規二。
偶然かもしれない。
発症の波が自然に収まりつつあるだけかもしれない。
対照群もない。
患者の把握も完全ではない。
現代の研究なら、とても因果関係を主張できるデータではない。査読者に一行で棄却される。
だが、兵士たちは変化を感じていた。
病人用天幕の空いた寝台が増えた。
炊事担当者が腹を壊さなくなった。
夜中に便所へ走る足音が減った。
◇
六日目の朝。
俺は病人用天幕へ入った。
以前は三十人以上が横たわっていた場所に、今は八人しかいない。
そのうち五人は回復期だった。
一人の兵士が粥を食べている。
別の兵士は仲間と賭け事をしていた。
天幕の布を透かした朝の光が、彼らの上に落ちている。
生きている。
数字が減っただけではない。
一人ひとりが、兵士として、父として、息子として生き残っている。
天幕の外で、ラビエヌスが待っていた。
「報告しろ」
俺は木板を渡した。
「最初の確認患者は三十九人。療養中の数は三十九、二十七、十五、八、一と推移しました。新規発症は十二、九、七、四、二です」
「死者は」
「最初から重症だった二人です」
「前の五日間は」
「確認できた範囲で十七人です」
ラビエヌスは黙った。
周囲には、百人隊長と軍医たちが集まっていた。
誰も話さない。
「偶然だろう」
ラビエヌスが言った。
俺は頷いた。
「その可能性はあります」
軍医たちが安堵した顔をした。
俺は続けた。
「来週も続ければ、偶然かどうかに近づけます」
ラビエヌスが俺を見た。
「近づくだけか」
「一度の結果で断定する方が危険です」
また沈黙が落ちた。
やがてラビエヌスは、木板を俺へ返した。
「お前の数字は嫌いだ」
「そうですか」
「私の経験を、ただの印に変える」
三十年、彼は戦場で人を見てきた。顔を見れば動けるかどうか分かる。声を聞けば士気が分かる。その全部を、俺は木の板の上の数へ変換しようとしている。
嫌われて当然だった。
ラビエヌスは病人用天幕へ目を向けた。
「だが、兵士はもっと好きだ」
俺は言葉の意味を考えた。
「数字より、兵士が生きている方がよいという意味ですか」
「そうだ」
「私も同じです」
「なら、なぜ数字へこだわる」
俺は木板を見た。
三十九。
二十七。
十五。
八。
一。
一人ひとりの顔は、数字の中から消えている。
炊事班の男の顔も、新兵の顔も、この板の上にはない。
それでも記録しなければ、次の患者を救えない。
「忘れないためです」
「何を」
「何をすれば死に、何をすれば生きるのかを」
ラビエヌスはしばらく俺を見つめた。
「明日から、他の隊でも同じことを行え」
「権限をいただけるのですか」
「権限ではない。試験だ」
「失敗した場合は」
「お前を追い出す」
ラビエヌスは背を向けた。
数歩進んだところで、足を止めた。
「百人隊長を救い、病を減らした若造がいるという噂は、すでに総督の耳へ入っている」
総督。
ガリア総督。
ガイウス・ユリウス・カエサル。
胸が強く鳴った。
紀元前五十八年。
俺は、歴史の入口に立っている。
「カエサル様が、お前の木板を見たがっている」
ラビエヌスは振り返らなかった。
「数字の好きな男は、もう一人いるらしい」
◇
その日の夕方。
宿営地では、久しぶりに多くの兵士が笑っていた。
赤痢が完全に消えたわけではない。
まだ患者はいる。
明日、新たな発症者が増えるかもしれない。
それでも、流れは変わった。
日が落ち、天幕の間に炊事の煙が低く流れた。誰かが下手な歌を歌い、誰かが野次を飛ばしている。数日前まで、この宿営地からは呻き声しか聞こえなかった。
俺は木板へ新しい数字を書き入れた。
一。
赤痢、新規発症者一名。
この時代へ来て初めて、減っていく数字を書いた。
そして、明日その板を見せる相手の名を思った。
ガイウス・ユリウス・カエサル。
十四年後の三月十五日、その男は俺の腕の中で死ぬ。
まだ、誰も知らない。
俺以外は。




