第4話 手を洗え
百人隊長の治療は成功しました。
ですが、一人の患者を救っただけで世界が変わるわけではありません。
古代ローマには長年積み重ねられてきた常識があり、人々はそれを当然のものとして受け入れています。
若き騎士階級の青年が突然現れ、
「その治療法は間違っている」
と言い始めても、簡単に信じてもらえるはずがありません。
今回は、主人公が古代ローマ社会の壁と初めて向き合う回になります。
どうぞお楽しみください。
クィントゥスを救ったという噂は、俺が考えていたよりも早く広がった。
軍隊というのは、噂の伝達速度だけは現代を上回る。三千人の男が、することもなく同じ場所に集まっているのだから当然である。
三日後。
父の屋敷の門前には、兵士が列を作っていた。
裂傷。
火傷。
捻挫。
発熱。
腹痛。
歯の痛み。
中には二年前から腰が痛いという男までいる。
「ここは診療所ではない!」
父の怒鳴り声が中庭へ響いた。
「私は軍団へ物資を売っているのであって、病人を集めているのではない!」
「父上」
「何だ」
「このまま門前へ置いておくより、中へ入れた方がよいです」
「お前が呼んだのだろう」
「呼んでいません」
「なら追い返せ」
だが、目の前に患者がいる。
医師として、見なかったことにはできなかった。
問題は、治療する場所である。
俺は父が軍へ物資を納めるために使っていた倉庫の一角を借りた。
石積みの土台に木の壁を載せた、細長い建物だった。天井は高く、明かり取りは壁の上部に並んだ小さな窓だけ。麦の粉と麻袋と、微かな鼠の匂いがする。
藁を捨て、床を水で流し、寝台の間隔を空ける。
発熱患者と外傷患者を分ける。
処置前後には手を洗う。
使用した布は煮る。
水差しを共有しない。
飲み水と洗浄用の水を区別する。
俺が最初に始めたのは、治療ではなく動線の整理だった。
病院経営を学んだ時、何度も聞いた言葉がある。
仕組みが悪ければ、優秀な人間を入れても事故は起きる。
この倉庫は、まさに事故が起きる仕組みだった。
汚れた包帯の隣に食器が置かれている。
外傷患者と下痢患者が同じ寝台を使う。
処置をした手で、別の患者へ薬草を塗る。
誰も悪くない。誰も怠けていない。ただ、そうしてはいけない理由を誰も知らないだけだ。
俺は倉庫の入口に、大きな水壺を置かせた。
底には小さな穴を開け、栓を抜けば細い流水が出るようにした。
隣には灰を使った洗浄剤を置く。灰汁は油を落とす。石鹸のない世界で、それが手に入る最良のものだった。
「ここへ入る者は、必ず手を洗え」
兵士たちは水壺を見て笑った。
「浴場なら昨日行ったぞ」
「手なら、さっき川で洗った」
「俺たちは貴婦人じゃない」
「傷を触る前と、触った後に洗う」
俺が説明しても、誰も動かない。
「手が汚れていれば、病が他の患者へ移る」
一人の兵士が自分の手を見た。剣だこのできた、乾いた大きな手だった。
マルクス・ファビウス。第三百人隊の古参兵だと、後で知った。
「何もついていないぞ」
「目に見えないだけだ」
「見えない敵と戦えというのか」
笑いが起きた。
その言葉に、俺は少し考えた。
見えない病原体を理解させるのは難しい。
ならば、彼らが理解できる言葉へ置き換える必要がある。医学の言葉ではなく、彼らが毎日使っている言葉へ。
「敵の斥候が、姿を見せて歩くか」
兵士たちの笑いが止まった。
「姿が見えなくても、敵はいる。気づいた時には宿営地へ入り込んでいる」
「病が斥候だと言うのか」
「そうだ。汚れた手、汚れた水、汚れた布を使って侵入する」
沈黙が落ちた。
理解されたわけではない。だが、笑われなくなった。それだけで前進である。
そこへ、杖をつきながらクィントゥスが倉庫へ入ってきた。
まだ歩くなと言ったはずである。
「この若造の命令を聞け」
兵士たちが振り返った。
クィントゥスは自分の脚を叩いた。
「従わない者は、俺の脚へ入っていた木片を口へ押し込む」
笑い声が消えた。
最初の兵士が、しぶしぶ水壺の前へ立った。
「これでいいのか」
「指の間まで洗え」
「面倒だな」
「死ぬよりは短い」
一人が洗うと、次の者が続いた。
俺は理解した。この軍隊で人を動かすのは、正しさではなく、百人隊長の一言である。
◇
それでも徹底は難しかった。
水壺を無視して入ろうとする者。
洗ったふりだけをする者。
汚れた布を再使用する者。
使用済み器具をそのまま棚へ戻す者。
知識を伝えるだけでは、人の行動は変わらない。
俺はルールを四つにまとめ、木板へ刻ませた。
一、患者へ触れる前後に手を洗う。
二、傷は水で洗い、土と木片を取り除く。
三、使用した布と器具は煮る。
四、包帯は毎日確認し、汚れたまま放置しない。
文字を読めない者のために、簡単な絵も添えた。手。水。鍋。布。それだけの線画である。
それでも守られない。
「手を洗わない者は、夕食の葡萄酒を減らす」
俺が宣言すると、兵士たちが一斉に抗議した。
「横暴だ!」
「ローマ市民の権利を何だと思っている!」
「水より葡萄酒の方が安全だぞ!」
「だから全部取り上げるとは言っていない。減らすだけだ」
「余計に悪い!」
怒号が倉庫を揺らした。
最後の一人の言い分は、実は正しい。この時代、生水より薄めた葡萄酒の方が安全な場合は多い。だから彼らは葡萄酒を手放さない。経験則としては合理的なのだ。
ディオニュシオスは腕を組み、面白そうに見ていた。
「医学を広めるより、兵士から酒を奪う方が難しいようだな」
「病院経営も似たようなものです」
「病院経営?」
「忘れてください」
治療法を作ることと、組織へ定着させることは違う。
正しいことを命令するだけでは、人は動かない。
守りやすい仕組み。
守ったことを確認する仕組み。
守ることで得をする仕組み。
MBAで学んだ組織論が、古代ローマの倉庫で現実の意味を持ち始めた。教室では退屈な図でしかなかったものが、ここでは人が死ぬか生きるかの話になっている。
◇
その日の夕方。
新たな患者が運び込まれた。
三人の兵士だった。
全員が腹を押さえ、激しく震えている。
一人は担架の上で便を漏らしていた。
赤黒い液体便。
血液と粘液が混じっている。
甘い腐敗臭とは違う、鉄と腐敗の混じった臭い。
赤痢。
嫌な予感がした。
「同じ部隊か」
「はい」
「他にも腹を壊している者は」
兵士は目を逸らした。
「十人ほど」
「十人?」
「正確には……もっといるかもしれません」
一人の外傷患者どころではない。
感染が部隊全体へ広がり始めている。
「どこで水を飲んだ」
「宿営地の横を流れる川です」
「便所はどこにある」
「同じ川の少し上です」
俺は言葉を失った。
飲料水の上流に便所。
赤痢患者の排泄物が、川へ流れ込んでいる。
その水を、下流で兵士が飲んでいる。
十九世紀のロンドンで、ジョン・スノウがコレラの発生地図を作り、井戸のポンプの柄を外させるまで、人類はこの単純な因果に気づかなかった。今は紀元前五十八年である。気づいていなくて当然だった。
だが、俺は気づいている。
手洗いだけでは足りない。
水。
炊事。
洗濯。
便所。
病人の配置。
宿営地全体を変える必要がある。
「クィントゥス」
俺は百人隊長を見た。
「軍の宿営地へ案内してください」
「何をする」
「敵の侵入路を塞ぎます」
「ガリア人が来たのか」
「もっと厄介な敵です」
俺は血の混じった便を見た。
剣では倒せない。
盾でも防げない。
隊列も組まなければ、鬨の声も上げない。
だが、正しく組織を動かせば、止められる。
「病気です」
第4話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回のテーマは「知識と信頼」でした。
現代では正しいと分かっていることでも、それを知らない人へ伝えることは簡単ではありません。
むしろ新しい知識は、多くの場合、
「怪しい」
「危険だ」
「今までのやり方で十分だ」
と警戒されます。
医療の歴史も同じでした。
後世に偉大な業績として評価される発見であっても、最初は周囲から疑われたり否定されたりすることが少なくありません。
主人公も今はまだ無名の若者です。
一人の命を救ったとはいえ、多くの人にとっては「少し変わった商人の息子」にすぎません。
それでも、小さな成功は確実に周囲へ影響を与え始めています。
次回、第5話。
主人公は剣や薬ではなく、「衛生」という考え方で軍団が抱える大きな問題へ挑みます。




