第3話 最初の手術
古代ローマに生きることを決意した主人公。
しかし、決意だけでは人は救えません。
この時代には抗生物質も消毒薬もなく、多くの人が感染症で命を落としていました。
そんな中、一人の重傷兵が運び込まれます。
現代なら比較的ありふれた処置。
しかし、それは2000年前のローマでは誰も行わない治療でした。
主人公が初めて医師としての力を試される第3話です。
どうぞお楽しみください。
「小刀を研げ。できるかぎり鋭く」
俺が言うと、使用人の少女が走った。
必要なものを、一つずつ集めさせる。
よく研いだ小刀。
縫い針。
麻糸。
清潔な布。
大量の水。
濃い葡萄酒。
蜂蜜。
火。
そして、男を押さえる兵士四人。
「水を沸かしてください」
俺が命じると、ディオニュシオスが露骨に顔をしかめた。
「傷へ熱湯を注ぐつもりか」
「器具と布を煮ます」
「葡萄酒で拭けば十分だ」
「十分ではありません」
「根拠は」
質問に、俺は答えられなかった。
細菌。
ウイルス。
感染経路。
顕微鏡。
どれも、この場では証明できない。
証明できないものを人に信じさせる方法を、俺は知らなかった。学会発表なら図表を出せばよい。ここには図表を読む文化がない。
「俺は、それで多くの患者が助かるのを見てきました」
「どこでだ」
「遠い場所です」
ディオニュシオスの疑いは深まった。
だが今は説得している時間がない。
◇
百人隊長クィントゥスは、中庭に面した客用の寝室へ運ばれていた。
窓を開け放ち、寝台を窓際へ寄せる。油灯では足りない。日のあるうちに終わらせなければならなかった。
太い腕を持つ男だったが、意識は半ば失われている。
「クィントゥス」
頬を叩くと、薄く目を開けた。
「お前が……ガイウスの病弱な息子か」
声はかすれていた。
「そうです」
「病人が病人を治すのか」
「今日は俺の方が少し元気です」
クィントゥスは喉の奥で笑った。
直後、痛みに顔を歪めた。
「脚を切るのか」
「できれば残します」
「できれば、か」
「絶対に助かるとは言えません」
「正直な若造だ」
クィントゥスは目を閉じた。
「やれ」
その一言に、迷いはなかった。二十年、戦場で人が死ぬのを見てきた男の諦め方だった。
麻酔薬はない。
薄めた葡萄酒を飲ませたが、痛みを消すほどの効果は期待できない。
兵士たちが肩、腕、腰、健側の脚を押さえた。
傷口の布を外す。
腐敗臭が一気に広がった。
一人の兵士が顔を背ける。
大腿外側に腫脹。
発赤。
皮膚は張り、中央部が暗紫色に変色している。
触れると波動を感じた。
指の下で、皮膚一枚を隔てた液体が揺れる。
大量の膿がたまっている。
「切ります」
小刀を握った。
手が震えた。
外科医として、何千回もメスを握った。
だが、これほど怖い手術は初めてだった。
照明は西日だけ。
無菌環境ではない。
解剖学的位置を誤れば、大腿動脈を損傷する可能性もある。
術後感染を制御する薬もない。
助手もいない。輸液もない。バイタルモニターの電子音もない。あるのは、押さえつけている四人の兵士の荒い呼吸だけだった。
それでも切らなければ、この男は死ぬ。
高瀬真一の知識が告げている。
ルキウス・アエリウスの身体が震えている。
「始めます」
皮膚へ刃を入れた。
クィントゥスの身体が跳ねた。
「ぐああああっ!」
兵士たちが必死に押さえる。
切開を少し深くする。
その瞬間。
黄白色の膿が勢いよく噴き出した。
寝台の敷布へ飛び、床へ垂れる。
悪臭が部屋を満たす。
ディオニュシオスと使用人が後退した。
「正気か……」
「身体へ刃を入れたぞ」
「殺す気だ」
周囲の声を無視した。
膿を排出する。
血液と壊死組織が混じっている。
指で確認すると、奥に硬いものが触れた。
異物鉗子などない。
煮沸した細い器具を慎重に入れ、硬いものを挟む。
引き抜いた。
指の第一関節ほどの長さの、黒ずんだ木片だった。
兵士の一人が息を呑んだ。
「刺さったままだったのか」
「これが感染源です」
傷の内部を、水と薄めた葡萄酒で何度も洗浄する。
クィントゥスは絶叫し、やがて力尽きたように気を失った。
その方がいい、と思った。
壊死した組織を可能な範囲で除去した。
完全には縫合しない。
膿が再び排出できるよう、布の一部を傷の中へ残す。
現代ならドレーンを置く。
ここでは布を使うしかなかった。
蜂蜜を薄く塗った布で周囲を覆い、包帯を巻く。
蜂蜜が創に効くことは、この時代の医師も経験的に知っている。ディオニュシオスの鞄にも入っていた。理由は知らなくても、効くものは残る。医学とはそういう積み重ねでできている。
「終わりです」
部屋は静まり返っていた。
誰も称賛しなかった。
奇跡だとも言わなかった。
人々の顔にあるのは恐怖だった。
医師でもない病弱な青年が、百人隊長の身体を刃物で切り開いたのである。
ディオニュシオスが低い声で言った。
「熱が下がらなければ、この男は死ぬ」
「分かっています」
「その時は、お前が殺したことになる」
「分かっています」
何度答えても、自信は生まれなかった。
◇
その夜。
クィントゥスの熱は下がらなかった。
むしろ一時的に上がった。
呼吸は荒く、何度も意味不明の言葉をつぶやいた。北の地名。誰かの名前。命令の断片。二十年分の戦場が、熱の中で順不同に再生されている。
俺は寝台の脇で脈を取り続けた。
百二十を超えている。
水を飲ませても吐いた。
尿量も少ない。
敗血症は続いている。
抗菌薬さえあれば。
輸液があれば。
酸素投与ができれば。
だが、ここには何もない。
油灯の芯が短くなり、部屋が暗くなった。継ぎ足す油の匂いが鼻を突く。
「失敗したのか」
夜が深くなるほど、その考えが強くなった。
現代医学の知識があっても、現代医療は再現できない。
知識とは、それを支える設備と薬と人員があって初めて力になる。俺はその土台をすべて失ったまま、記憶だけを持って放り出されたのだ。
俺はただ、男の身体を切り裂いただけではないのか。
◇
夜明け前、クィントゥスの呼吸が静かになった。
俺は慌てて顔を近づけた。
胸は動いている。
脈を触る。
昨日より遅い。
額へ手を置いた。
熱い。
だが、焼けるような熱ではない。
「水を……」
声がした。
クィントゥスが目を開けていた。
「水をくれ」
俺は慎重に水を飲ませた。
吐かない。
窓の外が白み始めていた。属州の朝は、日本の朝より乾いている。鳥の声が違う。
朝になると、彼は薄い粥を要求した。
昼には、寝台の上で上半身を起こした。
夕方。
見張りの兵士が突然叫んだ。
「おい! 何をしている!」
クィントゥスが立ち上がろうとしていた。
「歩くな!」
俺は駆け寄った。
「傷が開く!」
「うるさい」
「絶対安静です」
「何だ、それは」
「とにかく寝ていろ!」
クィントゥスは兵士の肩を借りて立ち上がった。
右脚をかばいながら、一歩。
さらに一歩。
部屋の中にいた全員が、声を失った。
昨日まで死ぬと考えられていた男が、歩いている。
クィントゥスは三歩目で顔を歪め、寝台へ戻った。
そして俺を見た。
「地獄から引っ張り出された気分だ」
「まだ入り口から離れただけです。傷は毎日洗います」
「また、あれをやるのか」
「必要です」
クィントゥスは嫌そうな顔をした後、大声で笑った。
「分かった。命令に従おう、若い医者殿」
医者。
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
前の人生で何度も呼ばれた言葉だ。何度も呼ばれすぎて、いつからか意味を感じなくなっていた言葉だ。
周囲から、ざわめきが起きた。
「本当に治したぞ」
「腹を切らずに、脚も残した」
「神官より役に立つじゃないか」
ディオニュシオスだけは、険しい顔を崩さなかった。
だが彼の視線は、俺ではなく、膿の中から取り出した木片へ向けられていた。
「悪い体液を出したから、助かったのか」
彼がつぶやいた。
「異物と膿を除いたからです」
「同じことだ」
「似ていますが、違います」
「なら、その違いを説明しろ」
初めて、彼は俺の話を聞こうとしていた。
体液説を信じているから愚かなのではない。彼は説明を求めている。説明を求める人間は、いつか説明を受け入れる。
◇
俺はクィントゥスの包帯を見た。
一人を救った。
だが、偶然ではないと証明するには、一人では足りない。
熱が下がったのは切開のおかげか。それとも、たまたま彼の免疫が勝ったのか。俺には区別がつかない。区別がつかない以上、次の患者に同じことをしてよい根拠はない。
知識を信じてもらうためには、結果が必要である。
結果を示すためには、記録が必要である。
医師・高瀬真一だけではなく、MBAとデータ分析を学んだ自分の思考が動き始めていた。
一人の患者を治すだけでは、何も変わらない。
同じ方法で、次の患者も救う。
誰が治療しても、同じ結果を出せるようにする。
そこまで考えたところで、背後で足音が止まった。
ディオニュシオスだった。
「先ほどの話だ」
「はい」
「膿を出したことと、悪い体液を抜いたこと。その違いを、もう一度言え」
俺は口を開いた。
言葉が、一つも出てこなかった。
第3話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回、主人公が行ったのは「排膿」と呼ばれる処置です。
膿が溜まった場所を切開し、内部に溜まった膿を排出する治療で、現代でも感染症治療の基本の一つです。
もちろん実際の医療現場では、抗菌薬や麻酔、画像検査など様々な手段が併用されます。
ですが、
「膿があるなら出す」
という原則自体は、古代でも現代でも大きく変わりません。
この話で主人公は初めて誰かの命を救いました。
しかし同時に、古代ローマの人々から見れば「身体を切る危険な若者」にも映っています。
救ったことで信頼されるのか。
それとも恐れられるのか。
その答えは次回以降、少しずつ描かれていきます。
次回、第4話。
一人の百人隊長を救ったことが、やがて主人公を歴史の中心へ近づけていきます。
【ローマ豆知識② 古代ローマの医療】
古代ローマにも医師は存在しました。
特に軍医は比較的高い知識と経験を持ち、骨折の固定や傷の縫合、小規模な外科手術も行っていました。
しかし当時は細菌の存在が知られておらず、
・感染症
・敗血症
・術後感染
が大きな問題でした。
現代なら助かる怪我でも命を落とすことが珍しくありません。
本作で主人公が行った排膿は、現代でも重要な治療の一つです。
「膿があるなら出す」
この原則は2000年以上経った現在でも変わっていません。




