第2話 死因は感染症だ
前回、主人公は古代ローマの青年ルキウス・アエリウスとして目を覚ましました。
しかし、生き返ったからといって問題が解決したわけではありません。
家族、身分、言葉、常識。
周囲のすべてがローマ人である一方、主人公の中には現代日本人としての記憶が残っています。
第2話では、そんな彼が初めて「ルキウス」としての人生と向き合います。
どうぞお楽しみください。
自力で身体を起こせるようになったのは、三日目だった。
二十四歳の身体である。
だが、鏡代わりの磨かれた青銅板に映った顔は、病人そのものだった。
頬はこけ、唇は乾き、眼窩が落ちくぼんでいる。
脈拍は速い。
深呼吸をすると右胸が痛んだ。
数日間にわたる高熱。
咳。
右胸部痛。
意識障害。
おそらく肺炎である。
重症肺炎から菌血症を起こし、一度は循環が破綻したのだろう。
なぜ回復したのかは分からない。
若さか。
偶然か。
あるいは、高瀬真一とルキウスの意識が重なったこと自体が、回復の契機になったのか。
医学的な説明はつかなかった。
だが、自分の病気より気になることがあった。
部屋の隅には、俺が吐いた痰を拭いた布が、そのまま積まれていた。麻布は黄緑色に固まり、その上に小さな羽虫がたかっている。
看病していた使用人は、その布を触った手で水差しを持ち、母へ果物を渡していた。
誰も手を洗っていない。
この家は貧しくない。中庭には雨水を受ける水盤があり、台所には水甕がある。水がないのではない。手を洗うという行為に、意味があると誰も思っていないのだ。
「その布を燃やしてくれ」
俺が言うと、使用人の少女が目を丸くした。
十四、五だろうか。ルキウスの記憶では、去年の秋に父が買ってきた娘だった。名をシルウィアという。
「ですが、洗えばまだ使えます」
「なら煮ろ。水の中で十分に煮沸してから使え」
「しゃふつ?」
通じていない。
俺はルキウスの記憶から言葉を探した。ラテン語は口が勝手に喋る。だが、こちらの世界に存在しない概念には、当然、単語がない。
「大鍋で、湯が激しく泡立つまで熱する。その中へ布を入れろ」
少女は困った顔で母を見た。
アエミリアも不安そうだった。
「なぜ、そのようなことをするの」
「病が移るかもしれません」
部屋の空気が止まった。
古代人が感染の概念をまったく持っていないわけではない。
腐敗した水や悪い空気を避ける経験則はある。病人との接触を嫌う者もいる。実際、疫病が流行れば人は町を捨てて逃げる。
しかし、目に見えない微生物が手や布を介して病気を広げるという考えはない。
「病は神々が与えるものです」
少女が胸の護符を握った。青銅の小さな手の形をしている。悪意ある視線を跳ね返す護符だ。
「神々が布の中へ病を隠すのですか」
「神々の話はしていない」
思わず強く言ってしまった。
少女が怯えて一歩下がる。
高瀬の悪い癖だった。
相手が理解できないとき、説明ではなく正しさで押し切ろうとする。医局でも何度か指摘された。指摘した相手はたいてい辞めていった。
俺は息を吐いた。
「すまない。言い方が悪かった」
少女はますます驚いた。
主人が使用人へ謝ることが珍しいのだろう。この家では、謝罪は上から下へは流れない。
「目に見えないほど小さなものが、病人の痰や排泄物の中にいると考えてくれ。それが口へ入れば、別の人も病気になる」
母が俺の額へ手を当てた。乾いた、少し冷たい手だった。
「まだ熱があるのではない?」
「熱のせいではありません」
「高熱が続いてから、あなたは少し変わったわ」
胸が痛んだ。
母には分かるのだ。
この身体の中にいる者が、以前のルキウスと完全には同じでないことを。
「人は、死にかければ変わります」
それだけ答えた。
母は何も言わなかった。
しばらく俺の顔を見つめた後、使用人へ布を煮るよう命じた。息子が正気を失ったのかもしれないと思いながら、それでも命じた。母親とはそういうものだ、と思った。日本の母も、そうだった。
◇
その日の午後。
屋敷の中庭が騒がしくなった。
男たちの怒鳴り声。
馬のいななき。
金属製の装備がぶつかる音。
寝台から立ち上がると、視界が揺れた。
まだ動ける身体ではない。
それでも壁を支えに、廊下へ出た。
アエリウス家の屋敷は、属州の街道沿いに建つ、ローマ風と現地風の折衷だった。中庭を囲む列柱は石灰岩で、天井は木組み。壁には赤と黄土色の帯が引かれ、剥げかけている。裕福ではあるが、都のノビレスの邸宅とは比べものにならない。父が一代で築いた家だった。
中庭へ、四人の兵士が担架を運び込んでいた。
担架の上には、屈強な中年男が寝かされていた。
軍用の赤い外套。
筋肉質な腕。
胸には百人隊長を示す装具がある。
だが、その顔は高熱で赤黒く染まっていた。
「父上!」
俺の父、ガイウス・アエリウスが兵士たちと話していた。
五十代半ば。
太い首と鋭い目を持つ男で、商人というより将軍に見える。指には印章指輪。騎士階級の証である金の指輪だ。
「寝ていろ、ルキウス」
父は俺を見るなり怒鳴った。
「お前まで死にたいのか」
「その人は?」
「クィントゥス・セルギウス。私の護送隊を何度も守ってくれた百人隊長だ」
「どうしたのです」
「脚の傷が腐った」
担架の男がうめいた。
右大腿部に布が巻かれていた。
布は膿と血で濡れ、甘ったるい腐敗臭を放っている。
中庭の日差しの下で、その臭いだけが冬のように停滞していた。
感染創。
俺は反射的に近づいた。
「触るな」
聞き慣れない男の声がした。
白髪交じりの髭を生やした、痩せたギリシャ人だった。
上質なトゥニカを着て、革の鞄を持っている。
屋敷へ出入りする医師、ディオニュシオス。
ルキウスの記憶にある。コス島で学んだと自称し、実際にヒッポクラテスの著作をいくつも諳んじる男だ。属州の田舎町では破格の教養人であり、本人もそれを知っている。
「悪い体液が脚へ集まっている」
ディオニュシオスは言った。
血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁。四つの体液の均衡が崩れると病が生じる――ヒッポクラテス以来、五百年近く受け継がれてきた理論である。
笑ってはいけない、と俺は自分に言い聞かせた。
観察の積み重ねから導かれた、当時としては最も体系的な医学だ。顕微鏡を持たない人間が到達できる限界のかたちである。
「今夜、焼いた鉄で傷を清める。それでも熱が下がらなければ、脚を切る」
「切断するのですか」
「命を救うためだ」
「傷を見せてください」
「お前は患者だ。医師ではない」
もっともな意見だった。
だが、担架の上の百人隊長は明らかに危険な状態にある。
呼吸数が多い。
皮膚は熱いが、手足の先は冷えている。
意識も混濁している。
敗血症。
場合によっては敗血症性ショックへ移行しつつある。
「いつ傷を負った」
俺は兵士へ聞いた。
「七日前です。訓練中、木片が刺さりました」
「木片は抜いたのか」
「抜いたはずです」
「はず?」
兵士は目を伏せた。
傷の中に異物が残っている可能性がある。
あるいは深部膿瘍。
今夜まで待てば死ぬかもしれない。
俺は担架の横へ膝をついた。
巻かれた布へ手を伸ばす。
ディオニュシオスが腕を掴んだ。指の力は、老人のものではなかった。
「何をする」
「診察です」
「誰が許した」
「患者の身体は、あなたの所有物ではない」
言ってから、この時代に患者の自己決定権などないことを思い出した。奴隷なら主人が、息子なら父が、兵士なら指揮官が決める。本人の意思は最後に聞かれる。
ディオニュシオスの目が険しくなる。
父も額を押さえた。
「高熱で頭までおかしくなったのか」
「父上」
俺は父を見た。
「この人は、今夜まで持たないかもしれません」
父の顔から怒りが消えた。
商人の目になった。
感情を押し殺し、損失と可能性を計算する目である。俺はこの目を知っていた。予算会議で赤字部門を切る時、自分もこの目をしていたはずだ。
「助けられるのか」
「分かりません」
正直に答えた。
「ですが、何もしなければ死ぬ可能性が高い」
「何をするつもりだ」
俺は膿で濡れた布を見た。
「傷を開きます」
周囲の全員が黙った。
「中にたまっている膿を出す」
ディオニュシオスが鼻で笑った。
「病人の身体へ、さらに刃を入れるというのか」
「そうです」
「お前は医師ではない」
「前の人生では医師でした」
そう言いかけて、飲み込んだ。
代わりに言った。
「助ける方法を知っています」
父はしばらく俺を見つめていた。
中庭の水盤に、雲が映って流れていく。
「クィントゥスは、私の友人だ」
低い声だった。
「死なせたら、お前を許さない」
「助かっても、しばらく歩けない可能性があります」
「死ぬよりはいい」
父はディオニュシオスを見た。
「やらせる」
「正気ですか」
「私の屋敷だ。私が決める」
ディオニュシオスは唇を噛んだ。
俺はもう一度、百人隊長の脚を見た。
手術器具。
麻酔。
抗菌薬。
吸引装置。
何もない。
あるのは、小刀。
火。
水。
ワイン。
布。
そして、俺の知識だけである。
前の人生で、俺はこの種の手術を何百回もした。
あの手術室には、器具が八十七種類あった。
今日は、五つだ。
第2話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は戦争や医療ではなく、主人公自身の内面を中心に描きました。
もし本当に別の時代へ転生したとしても、すぐに活躍することはできません。
まずは言葉を理解し、自分の立場を知り、家族との関係を築かなければならないからです。
主人公にとってルキウスの人生は借り物ではありません。
これからは彼自身が、その人生の続きを生きていくことになります。
次回はいよいよローマ社会の外へ出ます。
現代の医師が古代ローマの現実と初めて向き合うことになる回です。




