第1話 目覚めたら紀元前五十八年だった
人は二度、生きることができるのだろうか。
一度目の人生で救えなかったものを、
二度目の人生で取り戻すことはできるのだろうか。
現代日本で生きた一人の医師は、ある事故をきっかけに古代ローマで目を覚ます。
そこは英雄たちが歴史を作る時代。
だが、その陰では名も残らない多くの人々が病と飢えで命を落としていた。
これは、未来の知識を持つ一人の医師が、
「人を救う」
という原点を胸に、古代ローマの歴史へ挑む物語である。
どうぞ第1話をお楽しみください。
最初に感じたのは、痛みだった。
頭が割れる。
喉が焼けている。
全身の関節が軋み、呼吸をするたびに胸の奥が刺された。
目を開こうとしても、まぶたが動かない。まるで、内側から糊で塞がれているようだった。
誰かが泣いている。
女の声だった。
「ルキウス……お願い……」
知らない名前だった。
いや。
知っている。
その瞬間、頭の中へ、まったく別の記憶が流れ込んできた。
石造りの家。
中庭の噴水。
オリーブ油の匂い。
夕食の席で怒鳴る父。
笑いながら葡萄を投げてくる姉。
熱を出した幼い自分の額へ、濡れた布を当ててくれた母。
違う。
これは俺の記憶ではない。
俺は高瀬真一だ。
四十六歳。
外傷・整形外科医。
大学病院で救急医療に携わり、病院経営を学ぶためにMBAを取得した。医療データを使った予後予測の研究もしていた。
最後に覚えているのは、学会から戻る途中だった。
激しい頭痛。
視界が歪み、足元が崩れた。
救急医である自分には、何が起きたのか分かっていた。
くも膜下出血。
それも、おそらく致命的なものだ。
助からない。
そう判断したところで、記憶は途切れていた。
では、ここはどこだ。
耳元で、また女が泣いた。
「神々よ……どうか息子をお返しください」
神々。
息子。
ルキウス。
暗闇の中で、誰かが俺を見ていた。
◇
白い空間だった。
病室でも、手術室でもない。
空も床も境界がなく、乳白色の光だけが広がっている。足の裏に感触がない。自分が立っているのか浮いているのかも分からなかった。
そこに、一人の青年が立っていた。
二十代半ば。
黒い巻き毛。
細身で、血の気のない顔をしていた。
着ているのは白いトゥニカだった。膝上までの、袖の短い一枚布。腰帯もない。寝間着のまま連れてこられた人間の格好だった。
「お前は誰だ」
青年が尋ねた。
聞いたことのない言葉だった。
だが、意味は分かった。
ラテン語。
なぜ理解できる。
俺が戸惑っていると、青年は苦笑した。
「私にも分からない。気づいたら、ここにいた」
「君は……ルキウスか」
青年の目が見開かれた。
「なぜ私の名を知っている」
答えようとした瞬間、記憶が再び押し寄せた。
青年の人生だった。
ルキウス・アエリウス。
二十四歳。
ローマ騎士階級。
父は属州への物資供給や税の請負に関わる事業家。
本人は法律、会計、ギリシャ語、演説を学び、行政官か軍団幕僚になることを望んでいた。
そして、今。
紀元前五十八年。
ガリア総督となったカエサルが北方遠征を始めようとしている。
胸が凍りついた。
「紀元前五十八年……」
俺のつぶやきに、ルキウスが首を傾げた。
「何を言っている」
分かってしまった。
俺は過去にいる。
ローマ共和政末期。
ガリア戦争開戦の年。
この先に何が起きるのか、俺は知っている。
ヘルウェティイ族の移住。
アリオウィストゥスとの戦い。
ベルガエ戦争。
ブリタンニア遠征。
ウェルキンゲトリクス。
アレシア。
ルビコン。
ポンペイウスとの内戦。
そして――
三月十五日。
「カエサルが殺される」
俺がつぶやくと、ルキウスは不快そうに眉を寄せた。
「不吉なことを言うな。カエサル様はこれからローマを変える方だ」
その言い方には、信仰に近い響きがあった。属州で育った騎士階級の若者にとって、閥族派の元老院議員たちは遠い他人だが、平民派の英雄は自分たちの側の人間なのだ。
「君は、カエサルに仕えたかったのか」
ルキウスは少し恥ずかしそうに笑った。
「一度でいいから、お会いしたかった」
その身体が、透けていた。
指先から光の粒になり、少しずつ崩れ始めている。
「待て」
俺は思わず一歩を踏み出した。
「何が起きている」
ルキウスは自分の手を見た。
驚きはなかった。
「私は死ぬのだろう」
「決めつけるな」
「五日も熱が続いた。医師も神官も、もう助からないと言った」
「熱の原因は何だ。咳は。腹痛は。発疹はあるか」
ルキウスが目を丸くした。
「このような時まで質問するのか」
「医者だからだ」
俺は彼の肩を掴もうとした。
だが手は身体をすり抜けた。
「まだ方法があるかもしれない。症状を教えろ」
「君は変な男だな」
ルキウスは笑った。
「死んだ後まで、他人を治そうとするのか」
「死ぬな」
「高瀬」
初めて、彼が俺の名を呼んだ。
おそらく、俺の記憶も彼へ流れ込んでいるのだ。東京。病院。夜の救急外来。彼がそれを見て、どう感じたのかは分からない。
「私は諦めたのではない」
「なら生きろ」
「違う」
ルキウスは静かに首を振った。
「私は、もう終わる」
また身体が薄くなった。
胸まで光に溶け始めている。
「だから、君が生きるのだ」
「何を言っている」
「私の身体には、まだ息がある」
ルキウスは俺の胸を指した。
「そして、君には知識がある」
「君の人生を奪うことになる」
「奪うのではない」
ルキウスは少し考え、言葉を選んだ。弁論術を習った人間の間の取り方だった。
「預けるのだ」
白い空間に亀裂が走った。
遠くから、女の泣き声が響く。
「カエサルに会いたかった」
ルキウスは言った。
「ローマを変えたかった」
さらに身体が崩れていく。
「父とも、最後まで言い争ったままだ」
笑おうとしたが、声が震えていた。
「好きな人に、気持ちも伝えられなかった」
やり残したことばかりだ。
その言葉が胸に刺さった。
俺も同じだった。
医師として成功した。
研究成果も出した。
MBAも取った。
部下も増えた。
預金も肩書も手に入れた。
だが、最後に誰かへ伝えたい言葉があったかと問われれば、何も思い浮かばなかった。
患者の死亡率。
病床稼働率。
手術件数。
論文数。
数字ばかりを追ってきた。
命を救うことは知っていた。
だが、自分がどう生きるかを考えたことはなかった。
「頼む」
ルキウスの顔も、もう半分が光になっていた。
「私の人生も生きてくれ」
「ルキウス」
「母上を泣かせないでくれ」
世界が砕けた。
◇
身体が激しく痙攣した。
肺へ空気が流れ込み、喉から獣のような声が漏れた。
目を開く。
粗い木組みの天井。
油灯の炎。
薬草と汗の匂い。
その下に、羊毛の毛布のけば立った匂いと、乾いた尿の匂いが混じっている。何日も寝床から出ていない人間の部屋の匂いだ。
女が俺の手を握っていた。
黒髪に白いものが混じった、四十代ほどの女性だった。目の下が落ち窪み、唇が乾き切っている。この人も、何日も寝ていない。
「ルキウス……!」
その声を聞いた瞬間、記憶があふれ出した。
幼い日の市場。
母の手。
葡萄酒に水を混ぜる横顔。
冬の夜に抱き締められた温かさ。
俺の目から涙が流れた。
高瀬真一の涙なのか。
ルキウス・アエリウスの涙なのか。
分からない。
女性――母アエミリアが、震える指で俺の頬へ触れた。
「戻ってきたのね」
窓の外は、まだ暗かった。遠くで犬が吠え、どこかの家で臼を挽く音がしている。
俺はまだ、自分が誰なのか分からなかった。
ただ、一つだけ理解していた。
俺は生きなければならない。
二人分の人生を。
だから、頷いた。
頷いてから、気づいた。
これが、最初の嘘だった。
第1話をお読みいただき、ありがとうございました。
本作の舞台は紀元前58年の古代ローマです。
現代から見ると遠い昔ですが、道路網や水道、法律、軍事制度など、後のヨーロッパ社会の基礎となる仕組みがすでに存在していました。
一方で医療の世界では、
・細菌の存在は知られていない
・抗生物質はない
・麻酔も極めて不十分
という時代です。
現代なら助かる病気や怪我で、多くの人々が命を落としていました。
そんな世界へ放り込まれた主人公が、どのように生きていくのか。
そして、後に世界史へ名を刻むカエサルとどのように関わっていくのか。
少しずつ描いていければと思います。
次回、第2話。
熱病から目覚めた主人公は、自分が生きることになった「ルキウス・アエリウス」の人生と向き合うことになります。
【ローマ豆知識① ローマに皇帝はいない】
紀元前58年のローマには、まだ皇帝はいません。
現代人が「古代ローマ」と聞くと皇帝を思い浮かべることが多いですが、この時代はまだ共和政ローマです。
国王も皇帝も存在せず、元老院や執政官と呼ばれる選挙で選ばれた政治家たちが国を運営していました。
本作で今後登場するユリウス・カエサルも、あくまで有力な政治家・将軍の一人です。
しかし、この男の存在が後にローマの歴史を大きく変えることになります。




