プロローグ 英雄が死ぬ日
血は、温かかった。
指の隙間から、止めどなくあふれてくる。人の体温というものが、こんなに手のひらへ重く残るのだと、俺はこの日まで知らなかった。何千という手術で血に触れてきたはずなのに、である。
俺は両手で傷口を圧迫していた。だが、一つを塞げば、別の傷から血が流れ出した。
胸部。腹部。頸部。
刺創は多すぎた。
深すぎた。
そして何より、遅すぎた。
「布を持ってこい!」
俺は叫んだ。
「何でもいい! 衣を裂け! 早くしろ!」
誰も動かなかった。
元老院議員たちは壁際へ逃げ、白いトガの裾を踏みながら、互いを押しのけていた。ついさきほどまで、この男の一言に立ち上がり、この男の一言に座っていた者たちである。
床には短剣が落ちていた。
象牙の椅子は横倒しになり、その周囲には、血に濡れた足跡が無数に残っていた。三月の午前の光が高窓から斜めに差し込み、その足跡を一つずつ、丁寧に照らしている。
誰かが泣いていた。
誰かが神々の名を呼んでいた。
だが、この場に神はいなかった。
いるのは、血を失い続ける一人の男と、その死を止められない一人の医師だけだった。
「目を開けてください」
俺は男の頬を叩いた。
「まだ終わっていません。まだ助けられる」
返事はない。
橈骨動脈は触れない。
頸動脈も弱い。
皮膚は急速に冷たくなっている。
低血圧。
大量出血。
出血性ショック。
診断など、何の意味もなかった。
ここには輸血もなければ、血管鉗子もない。開胸器具も、麻酔も、手術室もない。
あるのは、俺の手だけだった。
三十年かけて、この時代でできることをすべてやった。水を分けた。手を洗わせた。傷を洗い、記録を取り、医師を育てた。何万人かは生き延びたはずだ。
それでも、たった一人が救えない。
「あなたが必要なのです」
気づけば、俺は懇願していた。
医師ではなく、一人の弱い人間として。
「あなたがいなければ、軍も、行政も、改革も、全部止まってしまう」
男のまぶたが、わずかに動いた。
「……ルキウス」
かすれた声だった。
「はい。ここにいます」
「泣くな」
「泣いてなど――」
そこで初めて、自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。
男は口元だけで笑った。
「医者のくせに……ひどい顔だ」
「話さないでください。出血が増えます」
「お前は、最後まで……命令ばかりだな」
「死なないでください」
それは、医師として最も口にしてはならない言葉だった。
救えるかどうかを判断するのが医師である。判断を捨てた瞬間、医師は患者の家族になる。
だが俺は、現実を受け入れられなかった。
何万人もの兵士を動かした男。
何十もの都市を降伏させた男。
海を渡り、川を越え、共和国そのものを屈服させた男。
世界を変えた英雄。
その男が、俺の腕の中で死のうとしている。
「あなたが必要なのです」
俺はもう一度言った。
「あなたがいなければ、ローマは動かない」
男はゆっくりと目を開いた。
光を失いつつある瞳が、まっすぐに俺を見た。ガリアの森でも、ルビコンの岸辺でも、ファルサルスの丘でも、この目に見つめられた人間は逆らえなかった。
「それが……間違いだ」
「何を――」
「私が必要なローマを、作るな」
俺の手が止まった。
男は血を吐きながら、それでも言葉を続けた。
「私がいなくても……動くローマを作れ」
「そんなことは、後で聞きます」
「ルキウス」
その声には、かつて軍団を動かした力が、わずかに残っていた。
「これは命令だ」
そして男は、最後に笑った。
ガイウス・ユリウス・カエサル。
ローマ最大の英雄。
俺が二つ目の人生を懸けて支えた男は、紀元前四十四年三月十五日、俺の腕の中で息を引き取った。
高窓の光が動き、床の血だまりの縁を撫でていった。外では、まだ何も知らない市場のざわめきが続いている。
あの日から、十四年前。
俺は一度、すでに死んでいた。
プロローグをお読みいただき、ありがとうございました。
ここから主人公は古代ローマという世界へ足を踏み入れることになります。
本作では史実をベースにしながらも、小説として読みやすいよう一部設定や会話表現を調整しています。
ローマ史に詳しくない方でも楽しめるように書いていきますので、気軽にお付き合いいただければ嬉しいです。
次回、第1話「熱病の青年」。
死にかけていたローマの青年と、現代を生きた医師。
二人の人生が交わることで、物語が動き始めます。




