第8話 兵士一人の値段
良い方法を考えることと、
それを人に実行してもらうことは別の問題です。
主人公が相手にするのは病気だけではありません。
人間です。
規律の良い兵士。
面倒を嫌う兵士。
上司に都合の良い数字を報告したい者。
どれほど優れた制度でも、人が動かなければ意味はありません。
軍団改革最大の敵が姿を現します。
どうぞお楽しみください。
三個コホルスは、意図的に性格の異なる部隊が選ばれた。
第一の部隊は規律が厳しく、百人隊長の命令がよく行き届いている。
第二は平均的。
第三は問題だらけだった。
飲酒。
賭博。
無断外出。
訓練の欠席。
水場の規則を守らず、便所の位置を勝手に変える。
「カエサル様は、お前を試しているのではない」
クィントゥスが言った。
「失敗させようとしている」
「同じことでは?」
「少し違う」
杖の先で、彼は第三コホルスの区画を指した。
「試すなら、普通の部隊を三つ選ぶ。あの部隊を混ぜたのは、お前の方法が最悪の場所でも効くかを見るためだ」
「効かなければ?」
「効く場所でしか効かない方法は、軍では使えん」
俺は第三コホルスの宿営区画を見回した。
地面には食べ残しが散乱している。
炊事場のすぐ隣に、汚れた包帯が積まれている。
兵士の一人が水壺から直接水を飲み、口をつけた容器をそのまま戻した。
日が高くなるにつれ、蠅が増えた。
「まず、片づけからですね」
「医者の仕事ではないぞ」
「病気を作る原因を片づけるのも医療です」
「兵士に掃除を命じれば、反乱が起きる」
「あなたが命じてください」
「俺に押しつけるな」
クィントゥスは文句を言いながら、兵士たちを怒鳴りつけた。
◇
俺は仕事を分解した。
水の担当。
便所の担当。
炊事場の担当。
病人の記録担当。
布と器具の煮沸担当。
一人へ多くを求めない。
誰が、いつ、何を行うかを明確にする。
現代の病院でも、「全員で注意する」という指示は、実質的に誰も責任を持たないことを意味する。俺はそれを、院内感染の報告書の中で何度も読んだ。
責任者を決める。
手順を簡単にする。
実施したことを確認する。
それだけで、組織は変わる。
問題は、兵士たちが従うかどうかだった。
「病人の尻を拭くために軍団へ入ったのではない」
衛生担当へ選ばれた兵士が不満を口にした。
「病人を減らす仕事だ」
「剣も持たずにか」
「剣を持つ兵士を増やす」
「それなら、お前がやれ」
もっともな反論である。
俺は彼へ木板を見せた。
「お前の隊では、先月十二人が腹の病で訓練を休んだ」
「だから何だ」
「十二人が抜けた分、お前たちの見張りと荷運びが増えた」
兵士の表情が変わった。
「病人が減れば、お前の夜番も減る可能性がある」
「本当か」
「百人隊長が勤務表を正しく変えれば」
兵士たちの視線が百人隊長へ向いた。
百人隊長は嫌そうな顔をした。
「病人が半分になれば、夜番を一回減らしてやる」
「先に言ってくれ!」
兵士たちが動き始めた。
人は理念だけでは動かない。
自分にとって何が変わるかを理解した時、初めて行動する。
報酬は金だけではない。
休息。
評価。
名誉。
負担の軽減。
仲間からの承認。
組織を動かすには、それぞれに合った動機が必要である。教科書には一行で書いてあった。実際にやってみると、一人ずつ違う鍵を探す作業だった。
◇
三日目。
規律の良い第一コホルスでは、ほぼすべての手順が守られていた。
第二も、多少の不備はあるが改善している。
第三は、表面上だけ従っていた。
木板上では水場を分けている。
だが夜になると、兵士たちは近い場所から勝手に水をくんでいる。
便所の穴も埋められていない。
記録担当者は、腹痛を訴えた兵士を「軽症」として記録していなかった。
患者数を少なく見せ、規律が改善したと報告したかったのだ。
数字が嘘をついている。
いや。
数字そのものではない。
人間が、都合のよい数字を作っている。
俺は記録担当者を呼んだ。
セクストゥスという、二十歳前後の兵士だった。字が読める数少ない一人で、だからこの役を与えられた。
「なぜ書かなかった」
「少し腹が痛い程度で患者にしていたら、きりがない」
「基準は決めたはずです」
「歩ける者は病人ではない」
「誰がそう決めた」
「百人隊長だ」
百人隊長は否定した。
「私は報告を簡潔にしろと言っただけだ」
責任の押しつけ合いが始まった。
現代でも何度も見た光景だった。
現場は上司の指示だと言う。
上司は現場が勝手に解釈したと言う。
組織は、自分に不利な情報を上へ上げたがらない。それは人間が怠惰だからではなく、上げると損をするからである。
「報告者を罰しないでください」
俺は百人隊長へ言った。
「虚偽報告だぞ」
「罰すれば、次から誰も悪い数字を報告しなくなります」
「では見逃せと?」
「報告の基準を明確にします。意図的な隠蔽と、判断の違いを分けるべきです」
「甘いな」
横からラビエヌスが言った。
いつから見ていたのか分からない。
「軍では、曖昧な命令が人を殺す」
「今回は私の基準が不十分でした」
「自分の責任だと言うのか」
「はい」
百人隊長とセクストゥスが驚いて俺を見た。
責任を負う者が曖昧なら、改善はできない。
俺が作った制度である。
最初の失敗は俺が引き受けるべきだ。
「では直せ」
ラビエヌスはそれだけ言った。
「罰は?」
「七日後の結果が罰になる」
◇
その夜、俺は記録項目を変更した。
腹痛。
下痢。
血便。
発熱。
嘔吐。
歩行不能。
症状ごとに印を付ける。
「病人かどうか」を報告者に判断させない。
観察した事実だけを書かせる。
診断と記録を分ける。
セクストゥスへ新しい板を渡すと、彼は長く見つめてから言った。
「これなら、俺が間違えても、俺のせいにならない」
「間違えれば、あなたの責任です」
「だが、何を書くかで迷わない」
「そうです」
「……最初からこれをくれ」
正しい抗議だった。
さらに、患者数だけでなく水場別の発症者を集計した。
翌朝。
第三コホルスの一角に患者が集中していることが分かった。
全員が、夜間に同じ井戸を使っていた。
井戸を調べると、すぐ近くに古い排泄穴があった。
雨水が流れ込み、汚染されている可能性が高い。
俺は井戸を閉鎖させた。
兵士たちが抗議する。
「最も近い水場だぞ!」
「別の場所まで歩けば半刻かかる!」
「その半刻と、十日間の下痢。どちらがよい」
誰も答えなかった。
◇
五日目。
第三コホルスの新規発症者が減り始めた。
ラビエヌスは、閉鎖された井戸を見つめた。
板を打ちつけられた井戸の縁に、蠅がまだ数匹たかっている。
「患者の場所を数えたから分かったのか」
「はい」
「病人を治したわけではない」
「病人を作る場所を止めました」
「それも医術か」
「私にとっては」
ラビエヌスはしばらく考えた。
「剣で敵を倒すのではなく、敵が来る道を塞ぐようなものか」
「その通りです」
「なら、お前は医者というより工兵だな」
「それは褒め言葉ですか」
「まだ決めていない」
ラビエヌスは歩き出した。
俺も後に続く。
「ルキウス」
彼が初めて名前で呼んだ。
「お前は、兵士一人の価値をいくらと考える」
「金額ですか」
「穀物、武器、訓練、給与。兵士を一人育てるには金がかかる」
「命に値段はつけられません」
「また甘い答えか」
「ですが、失う費用は計算できます」
「違いは何だ」
「人間の価値を金で決めるのではありません。人間を失った時、軍が何を失うかを示すのです」
ラビエヌスは足を止めた。
「その違いを、カエサルは理解するだろうか」
「理解すると思います」
「なぜだ」
俺は総督の天幕で見た男の目を思い出した。
一つの数字を聞けば、それが軍事、政治、金、時間にどうつながるかを瞬時に考える目。
「彼も、人間だけを見ているわけではないからです」
ラビエヌスの顔から表情が消えた。
不用意な発言だったと気づいた。
「カエサル様を批判するのか」
「違います」
「では何だ」
「人間も数字も、両方見ているという意味です」
ラビエヌスは俺を見つめた後、再び歩き出した。
その背中が、少し離れてから止まった。
「七日目に分かる」
「何がです」
「カエサルがお前のどこを見ているのかだ」
第8話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回の敵は感染症ではなく、人間でした。
現代の病院も企業も軍隊も、
「正しいことが分かっている」
だけでは改善しません。
人は面倒なことを避けます。
悪い情報を隠します。
自分に都合よく解釈します。
だからこそ、良い制度には
「実行できる仕組み」
が必要になります。
主人公が目指しているのは名医になることではなく、
誰が担当しても一定の成果が出せる仕組みを作ることです。
その考え方は、今後の物語を通して何度も重要な意味を持つことになります。
【ローマ豆知識⑥ 百人隊長とは何者か】
百人隊長は、ローマ軍を支える中核的存在でした。
名前から百人を率いると思われがちですが、実際には状況によって人数は異なります。
将軍の命令を現場で実行し、兵士を管理し、戦場で先頭に立つ役割を担いました。
現代で言えば、中間管理職と最前線指揮官を兼ねたような存在です。
カエサル軍が強かった理由の一つは、この百人隊長層の質の高さにありました。




