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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第1章 二つの死、二つの人生

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第8話 兵士一人の値段

良い方法を考えることと、


それを人に実行してもらうことは別の問題です。


主人公が相手にするのは病気だけではありません。


人間です。


規律の良い兵士。


面倒を嫌う兵士。


上司に都合の良い数字を報告したい者。


どれほど優れた制度でも、人が動かなければ意味はありません。


軍団改革最大の敵が姿を現します。


どうぞお楽しみください。

三個コホルスは、意図的に性格の異なる部隊が選ばれた。

第一の部隊は規律が厳しく、百人隊長の命令がよく行き届いている。

第二は平均的。

第三は問題だらけだった。

飲酒。

賭博。

無断外出。

訓練の欠席。

水場の規則を守らず、便所の位置を勝手に変える。

「カエサル様は、お前を試しているのではない」

クィントゥスが言った。

「失敗させようとしている」

「同じことでは?」

「少し違う」

杖の先で、彼は第三コホルスの区画を指した。

「試すなら、普通の部隊を三つ選ぶ。あの部隊を混ぜたのは、お前の方法が最悪の場所でも効くかを見るためだ」

「効かなければ?」

「効く場所でしか効かない方法は、軍では使えん」

俺は第三コホルスの宿営区画を見回した。

地面には食べ残しが散乱している。

炊事場のすぐ隣に、汚れた包帯が積まれている。

兵士の一人が水壺から直接水を飲み、口をつけた容器をそのまま戻した。

日が高くなるにつれ、蠅が増えた。

「まず、片づけからですね」

「医者の仕事ではないぞ」

「病気を作る原因を片づけるのも医療です」

「兵士に掃除を命じれば、反乱が起きる」

「あなたが命じてください」

「俺に押しつけるな」

クィントゥスは文句を言いながら、兵士たちを怒鳴りつけた。

俺は仕事を分解した。

水の担当。

便所の担当。

炊事場の担当。

病人の記録担当。

布と器具の煮沸担当。

一人へ多くを求めない。

誰が、いつ、何を行うかを明確にする。

現代の病院でも、「全員で注意する」という指示は、実質的に誰も責任を持たないことを意味する。俺はそれを、院内感染の報告書の中で何度も読んだ。

責任者を決める。

手順を簡単にする。

実施したことを確認する。

それだけで、組織は変わる。

問題は、兵士たちが従うかどうかだった。

「病人の尻を拭くために軍団へ入ったのではない」

衛生担当へ選ばれた兵士が不満を口にした。

「病人を減らす仕事だ」

「剣も持たずにか」

「剣を持つ兵士を増やす」

「それなら、お前がやれ」

もっともな反論である。

俺は彼へ木板を見せた。

「お前の隊では、先月十二人が腹の病で訓練を休んだ」

「だから何だ」

「十二人が抜けた分、お前たちの見張りと荷運びが増えた」

兵士の表情が変わった。

「病人が減れば、お前の夜番も減る可能性がある」

「本当か」

「百人隊長が勤務表を正しく変えれば」

兵士たちの視線が百人隊長へ向いた。

百人隊長は嫌そうな顔をした。

「病人が半分になれば、夜番を一回減らしてやる」

「先に言ってくれ!」

兵士たちが動き始めた。

人は理念だけでは動かない。

自分にとって何が変わるかを理解した時、初めて行動する。

報酬は金だけではない。

休息。

評価。

名誉。

負担の軽減。

仲間からの承認。

組織を動かすには、それぞれに合った動機が必要である。教科書には一行で書いてあった。実際にやってみると、一人ずつ違う鍵を探す作業だった。

三日目。

規律の良い第一コホルスでは、ほぼすべての手順が守られていた。

第二も、多少の不備はあるが改善している。

第三は、表面上だけ従っていた。

木板上では水場を分けている。

だが夜になると、兵士たちは近い場所から勝手に水をくんでいる。

便所の穴も埋められていない。

記録担当者は、腹痛を訴えた兵士を「軽症」として記録していなかった。

患者数を少なく見せ、規律が改善したと報告したかったのだ。

数字が嘘をついている。

いや。

数字そのものではない。

人間が、都合のよい数字を作っている。

俺は記録担当者を呼んだ。

セクストゥスという、二十歳前後の兵士だった。字が読める数少ない一人で、だからこの役を与えられた。

「なぜ書かなかった」

「少し腹が痛い程度で患者にしていたら、きりがない」

「基準は決めたはずです」

「歩ける者は病人ではない」

「誰がそう決めた」

「百人隊長だ」

百人隊長は否定した。

「私は報告を簡潔にしろと言っただけだ」

責任の押しつけ合いが始まった。

現代でも何度も見た光景だった。

現場は上司の指示だと言う。

上司は現場が勝手に解釈したと言う。

組織は、自分に不利な情報を上へ上げたがらない。それは人間が怠惰だからではなく、上げると損をするからである。

「報告者を罰しないでください」

俺は百人隊長へ言った。

「虚偽報告だぞ」

「罰すれば、次から誰も悪い数字を報告しなくなります」

「では見逃せと?」

「報告の基準を明確にします。意図的な隠蔽と、判断の違いを分けるべきです」

「甘いな」

横からラビエヌスが言った。

いつから見ていたのか分からない。

「軍では、曖昧な命令が人を殺す」

「今回は私の基準が不十分でした」

「自分の責任だと言うのか」

「はい」

百人隊長とセクストゥスが驚いて俺を見た。

責任を負う者が曖昧なら、改善はできない。

俺が作った制度である。

最初の失敗は俺が引き受けるべきだ。

「では直せ」

ラビエヌスはそれだけ言った。

「罰は?」

「七日後の結果が罰になる」

その夜、俺は記録項目を変更した。

腹痛。

下痢。

血便。

発熱。

嘔吐。

歩行不能。

症状ごとに印を付ける。

「病人かどうか」を報告者に判断させない。

観察した事実だけを書かせる。

診断と記録を分ける。

セクストゥスへ新しい板を渡すと、彼は長く見つめてから言った。

「これなら、俺が間違えても、俺のせいにならない」

「間違えれば、あなたの責任です」

「だが、何を書くかで迷わない」

「そうです」

「……最初からこれをくれ」

正しい抗議だった。

さらに、患者数だけでなく水場別の発症者を集計した。

翌朝。

第三コホルスの一角に患者が集中していることが分かった。

全員が、夜間に同じ井戸を使っていた。

井戸を調べると、すぐ近くに古い排泄穴があった。

雨水が流れ込み、汚染されている可能性が高い。

俺は井戸を閉鎖させた。

兵士たちが抗議する。

「最も近い水場だぞ!」

「別の場所まで歩けば半刻かかる!」

「その半刻と、十日間の下痢。どちらがよい」

誰も答えなかった。

五日目。

第三コホルスの新規発症者が減り始めた。

ラビエヌスは、閉鎖された井戸を見つめた。

板を打ちつけられた井戸の縁に、蠅がまだ数匹たかっている。

「患者の場所を数えたから分かったのか」

「はい」

「病人を治したわけではない」

「病人を作る場所を止めました」

「それも医術か」

「私にとっては」

ラビエヌスはしばらく考えた。

「剣で敵を倒すのではなく、敵が来る道を塞ぐようなものか」

「その通りです」

「なら、お前は医者というより工兵だな」

「それは褒め言葉ですか」

「まだ決めていない」

ラビエヌスは歩き出した。

俺も後に続く。

「ルキウス」

彼が初めて名前で呼んだ。

「お前は、兵士一人の価値をいくらと考える」

「金額ですか」

「穀物、武器、訓練、給与。兵士を一人育てるには金がかかる」

「命に値段はつけられません」

「また甘い答えか」

「ですが、失う費用は計算できます」

「違いは何だ」

「人間の価値を金で決めるのではありません。人間を失った時、軍が何を失うかを示すのです」

ラビエヌスは足を止めた。

「その違いを、カエサルは理解するだろうか」

「理解すると思います」

「なぜだ」

俺は総督の天幕で見た男の目を思い出した。

一つの数字を聞けば、それが軍事、政治、金、時間にどうつながるかを瞬時に考える目。

「彼も、人間だけを見ているわけではないからです」

ラビエヌスの顔から表情が消えた。

不用意な発言だったと気づいた。

「カエサル様を批判するのか」

「違います」

「では何だ」

「人間も数字も、両方見ているという意味です」

ラビエヌスは俺を見つめた後、再び歩き出した。

その背中が、少し離れてから止まった。

「七日目に分かる」

「何がです」

「カエサルがお前のどこを見ているのかだ」


第8話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回の敵は感染症ではなく、人間でした。


現代の病院も企業も軍隊も、


「正しいことが分かっている」


だけでは改善しません。


人は面倒なことを避けます。


悪い情報を隠します。


自分に都合よく解釈します。


だからこそ、良い制度には


「実行できる仕組み」


が必要になります。


主人公が目指しているのは名医になることではなく、


誰が担当しても一定の成果が出せる仕組みを作ることです。


その考え方は、今後の物語を通して何度も重要な意味を持つことになります。


【ローマ豆知識⑥ 百人隊長とは何者か】


百人隊長ケントゥリオは、ローマ軍を支える中核的存在でした。


名前から百人を率いると思われがちですが、実際には状況によって人数は異なります。


将軍の命令を現場で実行し、兵士を管理し、戦場で先頭に立つ役割を担いました。


現代で言えば、中間管理職と最前線指揮官を兼ねたような存在です。


カエサル軍が強かった理由の一つは、この百人隊長層の質の高さにありました。

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