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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第76話 退役兵の仕事


衛生兵制度が始まってから十日。

最初の報告は、予想より良かった。

前線から救護所へ到着するまでの時間は短くなった。

大出血による搬送中死亡も減った。

傷へ土や布を詰め込む者も少なくなった。

だが、別の問題が浮かび上がった。

「教官が足りません」

衛生兵訓練を担当するフィロンが言った。

「各軍団へ広げるなら、最低でも二十人は必要です」

「現在は?」

「私を含めて六人です」

医師は患者を診る。

衛生兵の教育もする。

記録も確認する。

戦闘が起きれば前線へ出る。

六人では足りない。

「訓練を終えた衛生兵から教官を選びます」

「学んだばかりの者に教えさせるのですか」

「全内容ではありません」

圧迫止血。

担架搬送。

水場管理。

一つの技術だけなら、正しくできる者が他人へ教えられる。

「医師がすべて教えなくてもよい」

俺は言った。

「間違った方法が広がります」

「医師が教えても間違いは起きます」

「だから監督が必要です」

「はい。教官を教える者が必要です」

教育者を育てる。

制度を広げるには、専門家本人より、専門家を再生産する仕組みが重要になる。

一人の名医を作るより、百人へ同じ一つを教えられる者を作る。

「誰を使います」

フィロンが尋ねた。

俺には候補がいた。

◇

軍団の後方には、戦列へ戻れない兵士たちがいた。

脚を失った者。

片腕が動かない者。

視力を失った者。

重い傷で長距離行軍に耐えられない者。

軍務を続けられないと判断されれば、退役となる。

故郷へ帰れる者もいる。

だが家族のない者。

土地のない者。

借金のある者。

身体を使う仕事しか知らない者。

彼らは、生き残った後に行き場を失う。

「退役証明を受け取ったら、どこへ行く」

俺は、右脚を膝下で失った兵士へ尋ねた。

名はルキウス・マリウス。

俺と同じ名を持つ、四十歳近い古参兵だった。

「ローマへ戻る」

「家族は?」

「いない」

「土地は」

「ない」

「仕事は?」

「だから困っている」

マリウスは木製の杖で地面を叩いた。

「外科医殿が脚を切った」

「切らなければ死んでいました」

「分かっている」

彼は怒ってはいない。

少なくとも、俺だけへは。

「生かした後のことまで考えていなかったのか」

「考え始めています」

「遅いな」

「はい」

反論できなかった。

街道でクィントゥスに問われてから、一年以上たっている。

切った後どうする。

まだ答えを持っていない。

「衛生兵の教官になりませんか」

マリウスは眉をひそめた。

「片脚で?」

「圧迫止血、傷の固定、搬送手順を知っています」

「俺は医師ではない」

「だからよいのです」

兵士の言葉で教えられる。

戦場の恐怖を知っている。

負傷者として運ばれた経験もある。

「若い兵士が、片脚の男から戦い方を学ぶか」

「戦い方ではなく、生きて帰る方法です」

マリウスは笑った。

「それなら、俺は失敗例だろう」

「生きています」

「脚はない」

「死んでいません」

「外科医は、ずいぶん低いところを成功と呼ぶ」

「最初の成功です」

生存。

その後に機能。

生活。

社会復帰。

順番がある。

「給与は」

「一般兵と同等を提案します」

「提案?」

「まだ決まっていません」

「では決まってから呼べ」

現実的だった。

◇

傷痍兵の職務転換案を、カエサルへ提出した。

対象は、

衛生兵教官。

記録補助。

倉庫管理。

病院警備。

炊事監督。

水場・便所管理。

新兵教育。

装備修理。

伝令集積所。

「戦えない者を、軍団へ残すのか」

カエサルが尋ねた。

「希望者だけです」

「軍団は扶養施設ではない」

「仕事をさせます」

「健康な兵より遅い」

「経験があります」

「給与は」

「役割に応じて」

「結局、金だ」

「無料では働きません」

「退役金を払って帰せばよい」

「帰った後、職がなければ乞食か犯罪者になります」

「ローマには多い」

「増やす必要はありません」

カエサルは案をめくる。

「軍団へ残れば、食料も天幕も必要だ」

「新兵教育や医療改善で回収できます」

「計算したか」

「概算です」

傷痍兵一人を軍団へ残す費用。

新兵の訓練短縮。

衛生兵教育。

物資損失減少。

書記不足の解消。

直接比較できないものも多い。

「数字が弱いな」

「測った例がないからです」

「なら試せ」

カエサルは木板を返した。

「百人まで」

「少ないです」

「最初から千人置く気か」

「少なくとも二百人」

「百五十」

「二百」

「百五十」

譲らない。

「百七十五」

「百五十だ」

「承知しました」

今回は負けた。

「期間は三か月」

「短いです」

「結果が出なければ打ち切る」

「何を結果とします」

「働いた量だ」

「役割ごとに違います」

「なら、お前が決めろ」

また難題だけを渡される。

◇

傷痍兵の募集を始めた。

希望者は多くなかった。

「軍団に残りたくない」

片腕を失った兵士が言う。

「十分戦った」

「故郷へ仕事はありますか」

「兄の農地を手伝う」

「片腕で?」

「できることをする」

誰もが軍団へ残りたいわけではない。

制度があるから利用すべきだと考えるのは、作る側の傲慢である。

「分かりました」

引き止めなかった。

別の兵士は、両脚が動くのに希望した。

「あなたは戦列へ戻れる可能性があります」

「戻りたくない」

「なぜ」

「怖い」

正直だった。

傷は治っている。

だが戦闘へ戻れない。

身体ではなく心の負傷。

「職務転換制度は、前線を避けるためのものではありません」

俺は言った。

兵士の顔が歪む。

「脚を失えば認められるのか」

「そういう意味では」

「傷が見えないと駄目か」

答えられなかった。

恐怖。

悪夢。

物音への過剰反応。

現代なら心的外傷として扱う。

この時代では臆病とされる。

「夜、眠れますか」

「眠れば、敵が来る」

「食事は」

「吐くことがある」

「突然、戦場を思い出す?」

兵士が頷く。

「医療評価へ回します」

「頭がおかしいと言うのか」

「負傷している可能性があります」

「傷はない」

「見えない傷もあります」

ウェソンティオへ来る前、俺は軍団全体の恐怖を白い石で測ろうとした。

数万人を三色に分けた。

今は、一人の兵士の前に座っている。

石は使わない。

「すぐ職務転換を認めるとは言えません」

俺は言った。

「ですが、戦列へ戻す前に診ます」

彼は泣かなかった。

ただ力が抜けたように座り込んだ。

制度の対象を、身体障害だけに限定できない。

また範囲が広がる。

「百五十人では足りませんね」

ティロが言った。

「はい」

「カエサル様へ増員を?」

「まだです」

「なぜ」

「最初の百五十人を動かせなければ、増やしても失敗します」

まず小さく始める。

◇

マリウスは、給与が正式に決まると教官を引き受けた。

最初の授業。

彼は衛生兵候補たちの前へ立ち、自分の木製義足を外した。

「見ろ」

切断端。

瘢痕。

筋肉。

兵士たちが息をのむ。

「俺は、敵の斧で脚を潰された」

マリウスは言った。

「仲間が傷へ泥を詰めた」

俺は初めて聞いた。

「外科医殿が泥を洗い、脚を切った」

「痛かったですか」

若い兵士が尋ねる。

「お前の脚で試すか」

笑い。

「泥を詰めるな。布で押せ。骨が見えても戻そうとするな。医師へ運べ」

単純。

具体的。

兵士の言葉。

「担架の持ち方が悪いと、どこが痛むかも教えてやる」

患者としての経験が、教育へ変わる。

俺が教えるより、伝わっている。

「よい教官です」

フィロンが言った。

「はい」

「医師ではないのに」

「医師でないから教えられることがあります」

◇

その日の夕方。

マリウスが俺の天幕へ来た。

義足を外し、杖で立っている。

「一つ頼みがある」

「何でしょう」

「次に脚を切る時」

彼は少し言葉を探した。

「切った後の話を、先にしてやれ」

「順番が逆になります」

「逆でいい」

「命が先です」

「分かっている」

マリウスは杖を持ち直した。

「だが俺は、目が覚めた時に、脚がないことだけを知らされた」

「……はい」

「何ができるかは、誰も言わなかった」

一年半かかって、その日が来た。


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