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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第73話 同じ名前、違う意味


共通記録の試行開始から三日。

集まった木板は、比較できなかった。

「なぜ、第七軍団の重傷者が六人で、第八軍団は八十人なのです」

俺が尋ねると、ティロは困った顔をした。

「第七軍団では、今日中に死ぬ可能性のある者だけを重傷としています」

「第八軍団は?」

「一人で歩けない者すべてです」

「第九軍団は」

「一か月以内に戦列へ戻れない者です」

同じ「重傷」。

意味が三つ。

死亡リスク。

歩行能力。

復帰期間。

比較できるはずがない。

「定義を決めます」

俺は言った。

「また会議ですか」

ティロが嫌そうな顔をする。

「小規模で行います」

医師三人。

衛生担当者三人。

書記三人。

それでも十分多い。

◇

最初の議題は「発熱」。

「身体が熱ければ発熱です」

第七軍団の治療師が言う。

「誰が触る」

俺が尋ねる。

「医師だ」

「医師ごとに感じ方が違います」

「経験で分かる」

「日中と夜でも身体の熱さは変わります」

正確に測る器具はない。

前の人生では、数字が一つ出るだけで済んだ。

三十八度。

それだけで、誰が測っても同じ意味になった。

ここでは、その一行を人間の手で作らなければならない。

「額だけでなく、胸、脈、悪寒、発汗も確認します」

「それでは発熱ではなく病状全体だ」

「だから記録項目を分けます」

熱感。

悪寒。

発汗。

脈。

意識。

「多すぎる」

ティロが言う。

「戦場で全部書けない」

その通り。

詳細にすれば精度は上がる。

運用できなくなる。

「発熱は、医療担当者が明らかな熱感を認めたもの」

妥協。

「本人が熱いと言った場合は?」

「医療担当者が確認できなければ、発熱疑い」

新しい分類が増える。

「疑いまで記録するのか」

「別欄です」

「さらに木板が必要です」

言葉を正確にするほど、記録は増える。

◇

次は「下痢」。

「水のような便」

「一日に何回」

「一回でも」

「食べすぎでも?」

「腹が緩ければ下痢だ」

「三回以上にします」

俺が提案すると反発が出た。

「二回でも血が混じれば重い」

「血便は別項目にします」

「回数を数えられない兵士がいる」

「自己申告です」

「嘘をつく」

「任務を休みたい者もいれば、休みたくなくて隠す者もいます」

また自己申告の問題。

白い石で学んだはずのこと。

完全な定義は作れない。

「一日三回以上の軟便、または一回以上の血便」

暫定基準。

「一日とは、日の出から?」

「前回の点呼から次の点呼まで」

軍団の生活に合わせる。

◇

「感染」という言葉は、さらに難しかった。

俺は感染症を、微生物によって起きるものとして理解している。

だが、この時代に細菌を見せることはできない。

他の医師は、腐敗、悪い空気、体液の乱れ、神々の影響などで説明する。

「傷が赤く腫れ、膿が出れば感染」

俺は言った。

「膿は、治癒の徴である場合もある」

ディオニュシオスが反論する。

古代医学では良性の膿という考えがある。

実際、膿が排出されて改善することもある。

「膿が出たことだけで、悪化とは言いません」

「では何を見る」

発赤。

腫脹。

痛み増加。

悪臭。

発熱。

壊死。

機能低下。

「五つ以上あります」

ティロが絶望した顔をする。

「一項目へまとめません」

俺は決めた。

「傷の状態を個別に記録します」

「感染者数は出せない」

「医師が総合判断した感染疑いも残します」

客観項目と主観判断。

両方。

「主観が入る」

「入ります」

「比較できない」

「個別項目でも比較します」

完全な客観性を諦める。

医師の判断も情報として扱う。

「お前は、数字を疑うようになったのでは」

ディオニュシオスが言う。

「疑うために、元の情報も残します」

感染あり、という一つの結論だけではなく、何を見て判断したか。

判断だけを残せば、後から誰も検証できない。

◇

会議は日没まで続いた。

死亡。

戦死。

治療中死亡。

後送中死亡。

行方不明。

「行方不明は死者に入れるか」

「入れません」

「川へ流された者は」

「遺体がなければ行方不明です」

「明らかに死んでいても?」

「確認不能として残します」

「戦果が少なく見える」

軍事報告上の問題。

「内部記録では分けます」

「公表は?」

「カエサル様が決めます」

ソーヌ川の後に決めたことである。

内部記録と公表記録。

目的が違う二つを、混ぜない。

◇

用語表が完成した。

完璧ではない。

発熱。

下痢。

血便。

大出血。

歩行不能。

意識障害。

創部発赤。

膿。

悪臭。

戦列離脱。

復帰。

死亡。

行方不明。

最低限の定義。

「これを全軍団へ配ります」

俺が言うと、ティロが尋ねた。

「文字を読めない衛生兵は?」

絵と記号を加える。

血滴。

歩く足。

横たわる人。

炎のような熱。

便を表す印。

「下痢の絵は、誰が描くのです」

全員が黙った。

「書記に任せます」

「嫌です」

初めて明確に拒否された。

最終的に、壺から流れる水の記号になった。

◇

一週間後。

記録は少し比較しやすくなった。

だが新しい問題が起きた。

現場が、定義へ患者を合わせ始めた。

「一日二回の下痢なので、患者へ入れていません」

衛生兵が言う。

その兵士は高熱があり、脱水している。

「回数だけで判断しないでください」

「基準は三回です」

「血便や全身状態も見ます」

「血便はありません」

「水を飲めず、立てません」

「では歩行不能です」

項目としては別。

だが病気は項目ごとに分かれていない。

「下痢患者としても扱ってください」

「基準違反です」

制度が、思考を止めている。

「基準は見逃さないための目安です」

「書いてありません」

書いていない。

現場は、書かれた通りに動いた。

「追加します」

基準に満たなくても、医療担当者が危険と判断した場合は対象とする。

「それでは、何でも例外になります」

ティロが言う。

「なります」

「標準化の意味がない」

「標準化は判断を消すためではありません」

「では何のためです」

「判断の出発点をそろえるためです」

同じ名前。

同じ意味。

だが、同じ人間ではない。

規則だけで患者を診れば、規則に当てはまらない患者が見えなくなる。

「言葉は、現実を整理します」

俺は言った。

「同時に、切り落とします」

定義から外れた症状。

数字にならない違和感。

例外。

標準化には必要な暴力がある。

だから現場判断を残さなければならない。

用語表の最後へ、俺は一文を加えた。

患者が定義に合わない時、患者を疑う前に定義を疑え。

ディオニュシオスはそれを読み、笑った。

「ようやく、まともな医師の言葉になった」

◇

用語表を全軍へ配った翌日。

最初の集計が戻ってきた。

全軍の患者数が、前日の一・七倍になっていた。

病人が増えたのではない。

昨日まで、数えられていなかった者たちである。


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