第71話 勝った後の感染症
アリオウィストゥス軍との戦いが終わってから七日。
戦死者の埋葬は、まだ終わっていなかった。
平原には掘り返された土の臭いが漂い、焼却しきれなかった荷車と家畜の死骸が残っている。
ローマ軍は勝った。
ゲルマン軍はライン川の向こうへ追い払われた。
だが、軍団内の患者数は減るどころか増えていた。
「昨日の新規発熱患者は百四十七人です」
ティロが木板を読み上げる。
「下痢患者は二百三十二人。創傷感染の疑いが八十九人」
「軍団別に」
俺は言った。
「第七軍団、発熱十八、下痢二十一。第八軍団、発熱三十二、下痢六十四。第九軍団――」
数字が続く。
第八軍団と第十二軍団で下痢が多い。
前進陣地へ長くいた部隊。
敵の荷車陣近くへ宿営した部隊。
共通点がある。
「水場は」
ファビウスが地図を広げた。
「第八軍団は小川の中流。第十二軍団は、その少し下流です」
「上流は?」
「捕虜区域です」
天幕内が静かになった。
捕虜区域でも下痢患者が出ている。
便所を下流へ移したはずだった。
「排水方向を確認しましたか」
「地面の傾きでは、川から離れる方向でした」
「雨が降った日は」
「二日前です」
雨水が捕虜区域の汚物を小川へ流した可能性。
あるいは、死体処理班が上流で道具を洗ったかもしれない。
俺は捕虜区域の位置を自分で決めた。
排水は見た。
雨の日のことは、見ていなかった。
「水の使用を止めます」
「全量ですか」
「飲料と調理です。洗浄には煮沸後のみ」
「代わりの水場が遠い」
「井戸を掘ります」
工兵隊のバルブスが首を振った。
「地面が硬い。すぐには出ない」
「では上流から荷車で運ぶ」
「一日何台必要だ」
軍団兵。
患者。
捕虜。
家畜。
飲料だけでも膨大な量になる。
「全員分は無理です」
補給担当者が言った。
「優先順位を決めます」
患者。
炊事。
医療。
次に兵士。
最後に家畜。
「馬の水を減らせば騎兵が動けない」
騎兵指揮官が反発する。
「下痢で兵士が動けなくなっても同じです」
「馬は水を選べない」
「兵士も、今のままでは選べません」
また資源配分。
病人を救う水。
戦力を維持する水。
家畜を生かす水。
すべて必要だった。
「小川の水を濾過して煮沸します」
俺は言った。
「布で泥を取り、煮沸する。飲料水はそれで補う」
「薪が必要です」
「焼けた荷車を使います」
「塗料や油が付いている」
「炊事用とは分けて燃やします」
完全ではない。
だが何もしないよりよい。
◇
水場の使用停止を命じると、兵士たちから不満が出た。
「透明な水だ!」
「今まで飲んでいた!」
「外科医殿は、また見えない汚れと言うのか!」
三年前、属州の宿営地で聞いたのと同じ言葉だった。
言う人間だけが入れ替わっている。
「下痢患者が下流部隊へ集中しています」
俺は説明した。
「上流には捕虜区域があります」
「ゲルマン人が毒を入れたのか」
誰かが言った。
ざわめきが広がる。
「毒とは限りません」
「では何だ」
「便や汚物が雨で流れた可能性があります」
「捕虜が我々を病気にした!」
兵士たちの怒りが捕虜区域へ向かう。
危険だった。
「捕虜も同じ病気になっています!」
俺は声を上げた。
「彼らが意図的に毒を入れた証拠はありません」
「証拠がなければ無実か」
「処罰する理由にはなりません」
「仲間が死んでも?」
発熱患者のうち、すでに数人が死亡している。
怒りには根拠がある。
だが原因と責任を混ぜれば、虐殺が起きる。
「水場管理の失敗は、ローマ軍側にもあります」
俺は言った。
「捕虜区域の位置を決め、排水を確認したのは我々です」
自分たちの責任を認めると、怒号が少し弱まった。
「誰が失敗した」
「私です」
一瞬、場が静まった。
「また責任を分けるのかと言うつもりでしたか」
「……言うつもりだった」
「今回は分けません。位置を決めたのは私です」
分けるべき時と、そうでない時がある。
その区別を、俺はようやく覚えつつあった。
◇
調査の結果、原因は一つではなかった。
捕虜区域からの雨水。
死体処理班による道具の洗浄。
上流に作られた臨時便所。
さらに第八軍団では、煮沸した水を汚れた壺へ戻していた。
「煮沸した意味がありません」
俺が言うと、炊事担当者は反発した。
「壺は水を入れる物だ」
「以前の汚れが残っています」
「空にした」
「洗いましたか」
「水で」
「その水が汚染されている可能性があります」
終わりがない。
水を煮る。
容器を洗う。
手を洗う。
柄杓を分ける。
蓋をする。
一つ抜ければ、また汚れる。
鎖のどこか一つが切れれば、鎖ではなくなる。
「手順を木板へ書きます」
俺が言うと、クィントゥスがうんざりした顔をした。
「水を飲むだけで、何個の規則が必要だ」
「病気にならずに飲むためです」
「昔から兵士は水を飲んできた」
「昔から下痢で死んできました」
反論はなかった。
◇
患者数は三日後から減り始めた。
水場変更。
便所移設。
煮沸。
容器管理。
どれが最も効いたかは分からない。
すべてが効いた可能性もある。
「新規下痢患者は、前日の半分です」
ティロが報告する。
「成功ですか」
「まだです」
いつもの答え。
「何日なら成功です」
「少なくとも一週間、増加が戻らなければ」
「その頃には軍団は移動します」
「では移動後も追います」
「誰が」
各軍団の衛生担当者。
だが、記録方法が統一されていない。
ある軍団は一日に三回以上の下痢を患者とする。
別の軍団は、血便だけを記録。
軽症者を含む部隊。
任務離脱者だけを含む部隊。
同じ「下痢患者」という言葉が、違う意味で使われている。
「比較できません」
俺は木板を見た。
第八軍団の患者数が多いのは、本当に病気が多いからか。
記録が細かいからか。
第十二軍団の数字が少ない日は、改善したからか。
書記が忙しく、記録できなかっただけか。
「軍団ごとに、やり方が違いすぎます」
ティロが言った。
医療も。
衛生も。
記録も。
負傷者搬送も。
各軍団が、それぞれの経験と指揮官の判断で行っている。
柔軟性はある。
だが比較と連携ができない。
「標準化します」
俺は言った。
クィントゥスが笑う。
「また新しい戦争を始めるのか」
「誰とです」
「七つの軍団だ」
敵より頑固な相手かもしれない。
◇
その夜。
俺は二つの数字を並べた。
決戦での戦死、三百十四。
勝った後の病死、六十一。
一つ目は、敵が殺した。
二つ目は、こちらが殺した。




