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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第70話 ゲルマン人も患者である


捕虜治療所を作った時、ローマ兵から強い反発が起きた。

「なぜ敵へ天幕を使う!」

「俺たちは地面で寝ている!」

「こいつらが仲間を殺した!」

不満は当然だった。

ゲルマン人捕虜の下痢と発熱が増え、密集したままではローマ軍にも感染が広がる。

治療所は人道のためだけではない。

軍団を守る防疫でもある。

「捕虜を治すのは、感染を止めるためです」

俺は兵士たちへ説明した。

「殺せば感染しない」

誰かが言った。

周囲から、低い笑いが起きる。

冗談ではない者もいる。

「死体の処理が増えます」

俺は答えた。

「それに、降伏者を皆殺しにすれば、次の敵は最後まで降伏しなくなる」

軍事的理由。

「捕虜は情報源でもあります」

政治的理由。

「働ける者は、死体処理や道路修復に使えます」

経済的理由。

人命を救うという理由だけでは、軍団を納得させられない。

三つ用意しなければ、一つも通らない。

「外科医殿は、敵がかわいそうだから助けるのではないか」

一人の兵士が尋ねた。

「それもあります」

ざわめきが止まる。

「敵でも、傷つき、苦しみ、死ぬ人間です」

「仲間より先に治す?」

「重症度と、利用できる資源によります。戦闘中は味方を優先します」

「戦闘後は?」

「救命可能性が同じなら、到着順と緊急度です」

「敵と同じ扱いか」

「完全に同じではありません」

自軍兵士の戦力復帰。

軍団の信頼。

捕虜管理。

現実には差がある。

「ですが、治療しない理由が敵だから、だけにはしません」

兵士たちは納得していない。

完全な納得は無理だろう。

「不満のある者は、捕虜治療へ参加しなくて構いません」

「では誰がやる」

「志願者と医療班です」

強制すれば、患者への虐待が起きる。

治療を妨害する者を置くより、人数が少なくてもよい。

◇

捕虜区域へ入る。

臭いが強い。

下痢便。

汗。

血。

腐った布。

水場と便所の距離が近すぎる。

「便所を下流へ移します」

「柵の外です」

見張りが言った。

「柵を広げます」

「逃亡しやすくなる」

「便所へ行くたび護衛を付けるよりよい」

「工事が必要です」

「捕虜自身に掘らせます」

歩ける捕虜を作業班へ。

水場から離す。

排水方向を確認。

手洗い用の壺。

炊事場所を分ける。

「病人と健康者を分けろ!」

ゲルマン語の通訳を介し、指示する。

だが家族が離れようとしない。

妻が夫のそばにいる。

母親が子供を抱く。

「感染します」

「もう一緒にいた」

通訳が答えを伝える。

「それでも分けます」

「死ぬ時に一人にするのか」

言葉に詰まる。

隔離は感染を減らす。

同時に、死にかけた者から家族を奪う。

「面会時間を決めます」

「時間?」

「一日に二度。手を洗い、食器を分ける」

現代の隔離としては不十分。

だが完全に禁止すれば、隠れて接触する。

「子供は?」

「重症なら母親一人を付き添わせます」

例外。

制度は、例外が増えるほど複雑になる。

だが人間を単純化しすぎれば、守られない。

◇

治療師を名乗ったゲルマン人の老人がいた。

白い髭。

手に薬草の束。

彼は下痢患者へ、苦い煎じ薬を飲ませている。

「何の薬です」

通訳を介して尋ねる。

「腹の火を抑える草」

「材料は」

老人は教えようとしない。

部族の知識。

秘密。

「危険な草は入っていますか」

「ローマ人の薬より安全だ」

「量は」

「患者を見て決める」

記録がない。

標準化もない。

だが経験はある。

「何人に使いました」

「数えていない」

「死亡者は」

「死ぬ者は死ぬ」

ディオニュシオスが横で笑う。

「お前と同じくらい頑固だ」

「同じではありません」

「向こうもそう思っている」

老人の薬を禁止するべきか。

成分不明。

効果不明。

毒性不明。

一方、ローマ側にも有効な薬はほとんどない。

水分。

休息。

食事。

衛生。

「煎じ薬を飲ませた患者を記録します」

老人が怒る。

「草を盗む気か」

「効果と危険を確認します」

「神々から受けた知識だ」

「奪いません」

「書けば盗める」

記録すること自体が、知識の収奪になる。

ローマは敵の土地だけでなく、知識も集める。

アリアが同じことを言った。

私の部族の作法を、ローマ人の板に、と。

「材料名は書きません」

俺は譲歩した。

「患者の状態と結果だけです」

「誰のために」

「今の患者と、次の患者です」

老人は疑っている。

それでも、治療を続けることは認めた。

条件。

煎じ薬以外の毒物を使わない。

患者へ無理に飲ませない。

飲ませた人数を印で残す。

「印だけなら」

老人が同意した。

協働と呼べるほどの信頼はない。

互いに監視しながら使う。

それでも、完全に排除するよりよい。

◇

治療所の奥に、若いゲルマン戦士がいた。

腹部へ剣傷。

戦闘後に発見され、搬送された。

傷は縫合されている。

だが腹部が硬い。

高熱。

腹膜炎。

腸管損傷を見逃している可能性が高い。

「再手術が必要です」

フィロンが言う。

「助かりますか」

「可能性は低い」

「ローマ兵の手術待ちは?」

「二人います」

一人は大腿部の感染。

もう一人は前腕の深部膿瘍。

緊急性はある。

だが腹膜炎の方が時間はない。

「ゲルマン人を先にします」

フィロンが俺を見る。

「よいのですか」

「緊急度が高い」

「兵士が知れば」

「説明します」

手術を始める。

傷を開く。

悪臭。

膿。

腸内容物。

小腸に小さな穿孔。

最初の診察で見逃された。

誰が縫合したのか。

「自分です」

フィロンが青ざめた。

「傷が浅いと思いました」

「今は責めません」

穿孔部を縫合。

腹腔を洗う。

排液。

患者の脈は弱い。

「助かるでしょうか」

「分かりません」

「自分が見逃しました」

「はい」

フィロンの手が震える。

第十二軍団を第一列へ推した夜の、俺と同じ手だった。

「手を止めないでください」

俺は言った。

「ですが」

「謝るのは後です」

ウェソンティオの決戦の日、彼が俺へ言った言葉を返す。

手術を終える。

患者は生きている。

今夜を越えられるかは分からない。

「記録します」

フィロンが言った。

「何を」

「最初の傷の深さ。腹痛。発熱。自分が浅いと判断したこと」

「よい」

「処分は」

「隠さなければ、まず検証します」

「敵兵だから軽くするのですか」

「違います」

「ローマ兵なら?」

「同じです」

本当に同じにできるか。

軍団から強い圧力があれば。

患者の家族がいれば。

階級が高ければ。

自信はない。

「少なくとも、同じ基準を目指します」

◇

翌朝。

ゲルマン戦士はまだ生きていた。

意識は弱い。

だが呼吸と脈はある。

老人治療師が彼のそばで何かを唱えている。

「祈りですか」

通訳へ聞く。

「祖先へ道を閉じるよう頼んでいる」

死者の国へ行かないように。

「効果は」

ディオニュシオスが尋ねる。

「測れません」

「止めるか」

「止めません」

医学的効果は分からない。

だが患者と仲間に意味がある。

それだけで、害がなければ許容できる。

「変わったな」

ディオニュシオスが言う。

「以前なら、迷信だと言った」

「今も医学的には証明できません」

「だが認める」

「人間は、身体だけで生きていません」

ディオニュシオスは満足そうに笑った。

「ようやく医師らしくなった」

同じ言葉を、カエサルにも言われた。

意味は違う。

◇

戦後報告で、カエサルは尋ねた。

「捕虜の病人は」

「下痢患者は増加が止まりつつあります。死亡者はまだ出ています」

「治療した戦士は」

「腹部手術後。予断を許しません」

「ローマ兵より先に手術したそうだな」

情報は早い。

「緊急度が高かったためです」

「不満が出ている」

「説明します」

「なぜ敵を救う」

また同じ問い。

「病気を放置すれば、軍団へ広がります」

「それだけか」

カエサルは、俺の本音を試している。

「いいえ」

「言え」

「戦いが終わった後まで、敵であることだけを理由に死なせる必要はありません」

「捕虜は、再び敵になるかもしれん」

「ローマ兵も、内戦になれば敵になるかもしれません」

天幕の空気が止まった。

未来を知る俺には、重い言葉だった。

ラビエヌス。

ポンペイウス。

カエサル。

同じローマ人同士で戦う日が来る。

「危険なことを言うな」

ラビエヌスが低く言った。

「可能性の話です」

カエサルは怒らなかった。

「なら、敵味方の区別は無意味か」

「戦闘中は必要です」

「戦闘後は?」

「法と安全保障の区別は必要です。医療では、狭くするべきです」

「全員を同じように治す?」

「資源が許す限り」

「許さない時は」

「自軍を優先する場合があります」

理想だけではない。

「矛盾しているな」

「はい」

カエサルが少し笑う。

「お前は、矛盾を認めるようになった」

以前なら、一つの正しい制度を作ろうとした。

公平。

効率。

救命。

軍事。

すべてを満たす答え。

今は、そのような答えがないと知り始めている。

「ゲルマン人も患者です」

俺は言った。

「だが、患者だから無害ではありません」

「分かっています」

「治した者が、次にお前を殺すかもしれん」

「それでも、今は治療します」

カエサルは俺を長く見た。

「それが医師か」

「少なくとも、私が目指す医師です」

「軍医幕僚としては?」

「捕虜を生かすことが、降伏を促し、情報を得て、感染を防ぎます」

「抜け目がないな」

「両方、本当です」

◇

天幕を出る。

捕虜治療所では、ローマ人医師とゲルマン人治療師が、一人の患者を挟んで互いに不信の目を向けている。

それでも、同じ患者を生かそうとしている。

敵味方という線は、戦場では必要だ。

だが傷口の中に、その線はない。

流れる血の色も。

腐敗する肉の臭いも。

発熱に苦しむ声も。

同じだった。

その夜、俺は七つの軍団から届いた医療報告を机へ並べた。

同じ「重傷」という言葉が、七通りの意味で使われていた。

敵と味方を分ける線より先に、直さなければならない線があった。


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