第68話 二人の妻
捕虜の中に、アリオウィストゥスの家族がいた。
正確には、家族だった者たちである。
彼には二人の妻がいたとされる。
一人はスエビ族の女性。
もう一人は、ノリクム王ウォッキオの姉妹。
政治的な婚姻。
部族と王国を結ぶ関係。
報告では、一人は追撃中に死亡。
もう一人はライン川付近で捕らえられた可能性がある。
二人の娘のうち、一人も死亡。
もう一人は捕虜になった。
情報が混乱している。
「誰が誰だか分かりません」
ティロが言った。
捕虜となった女性たちは、名を話そうとしない。
身分を隠している。
王族と分かれば、重要な人質になる。
同時に、危険な扱いを受ける可能性もある。
「衣服や装飾品は」
「逃走中に失われています」
「周囲の捕虜の態度は」
「一人の女性へ敬意を示しています」
若くはない。
三十代後半から四十代ほど。
負傷している。
左肩へ矢傷。
隣には十代半ばほどの少女がいる。
母娘かもしれない。
◇
「治療します」
俺が近づくと、女性は後ろへ下がった。
通訳を介して話す。
「傷を診ます」
「触れるな」
強い声。
「矢が残っています」
「分かっている」
「このままでは感染します」
「ローマ人に助けられる必要はない」
「捕虜の治療は行います」
「王を殺そうとした者が?」
「王は逃げました」
女性の顔が動く。
安堵。
怒り。
あるいは失望。
「本当に?」
「ラインを越えました」
「見たのか」
「対岸へ着くところを」
女性は目を閉じた。
少女が彼女の手を握る。
「夫ですか」
俺が尋ねると、女性は答えない。
「名前を知る必要があります」
「治療に?」
「記録と、今後の扱いに」
「人質としての価値を決めるため?」
鋭い。
「それもあります」
嘘はつけない。
「なら名乗らない」
「治療は名乗らなくても行います」
「なぜ」
何度も聞かれた問い。
「患者だからです」
女性は笑った。
弱く、冷たい笑い。
「ローマ人は、人を殺した後で患者と呼ぶのか」
返す言葉がない。
「矢を抜かなければ、腕を失う可能性があります」
「夫は戻る」
「その時、動かない腕で会いたいですか」
少女が何かを言った。
母親らしき女性を説得している。
やがて女性が座る。
「触れろ」
◇
傷を確認する。
矢は肩甲骨近くへ刺さっている。
大血管は外れている。
だが深い。
矢尻の形が分からない。
無理に引けば組織を裂く。
「後ろから押し出します」
「切るのか」
「少し」
「麻酔は」
「葡萄酒しかありません」
「ゲルマン人は、酒がなくても耐える」
「飲んでください」
少女が母へ杯を渡した。
処置を始める。
傷口を広げる。
矢尻を確認。
返しがある。
引き抜けない。
先端側へ小さく切開し、押し出す。
女性は叫ばなかった。
額から大量の汗。
少女の手を強く握る。
握られた少女の指が、白くなっていた。
「終わりました」
傷を洗う。
完全には閉じない。
布を当てる。
「毎日交換します」
「毎日、ローマ人が来る?」
「医療班が」
「逃げられないよう確認するため?」
「傷のためです」
「両方だろう」
否定できない。
◇
その日の午後。
女性の身元が確認された。
捕虜の一人が、彼女へ跪いたためである。
アリオウィストゥスの妻。
ノリクム王家と関係する女性だった。
少女は娘。
「重要な人質です」
ラビエヌスが言った。
「厳重に管理しろ」
「患者として、治療所近くへ置きます」
「逃亡防止を優先する」
「鎖は使わないでください」
「なぜ」
「肩の傷が悪化します」
「脚へ付ける」
「感染と転倒の危険があります」
「逃げればどうする」
「見張りを増やします」
「兵が必要だ」
人質管理と医療が衝突する。
「女性二人です」
「王族二人だ」
「武器もありません」
「王族は、自分で戦わなくても戦争を起こせる」
政治的価値。
本人の身体能力とは無関係。
「天幕を二重の柵で囲みます」
「護衛は」
「常時八人」
「十二人」
「十人」
「よい」
交渉。
人の自由を制限する人数を、野菜の価格のように決めている。
工兵を値切ったのと、同じ口調で。
「娘は母親と同じ天幕へ」
「別にした方が逃亡を防げる」
「治療上、母親の精神状態にも必要です」
「精神状態?」
「引き離せば食事を拒む可能性があります」
「拒めば無理に食わせろ」
「弱らせれば人質価値も下がります」
人道ではなく、価値で説得する。
自分の言葉が嫌になる。
「同室でよい」
ラビエヌスが認めた。
◇
夜。
女性が発熱した。
傷の感染には早い。
戦闘。
逃走。
川辺。
疲労。
別の感染症かもしれない。
脈は速い。
身体は熱い。
「傷が原因ですか」
少女が尋ねた。
初めてローマ語で話した。
少し訛りはあるが理解できる。
「まだ分かりません」
「死ぬ?」
「今すぐではありません」
「本当?」
「嘘は言いません」
少女は俺を見る。
「父を殺そうとした?」
「ローマ軍は捕らえようとしました」
「矢を射た」
「はい」
「母と姉にも当たった」
姉。
舟で倒れた者か。
「姉は?」
答えに詰まる。
川岸に、装飾品のない若い女の遺体があった。
十五、六。
ティロがまだ、何も書けずにいる欄。
「確認します」
「死んだ?」
「まだ確定していません」
「顔に書いてある」
少女の目に涙が浮かぶ。
「あなたは医師でしょう」
「はい」
「なぜ姉を助けなかった」
「その場にいませんでした」
「ローマ人が矢を射た」
「はい」
「あなたもローマ人」
「はい」
個人の責任。
集団の責任。
俺は矢を射てと命じていない。
止めようとした。
だがローマ軍の一員として追撃を支えた。
「父が逃げたから?」
少女が尋ねる。
「戦争を続ける可能性があったからです」
「父が死ねば、戦争は終わる?」
「可能性はあります」
「姉が死んでも?」
言葉がない。
「姉は王ではない」
「はい」
「なぜ射た」
「舟に王が乗っていると考えたからです」
「間違った」
「はい」
軍事上の不確実性。
時間制約。
判断。
その結果、一人の少女が死んだ。
「間違った人は罰せられる?」
誰を罰する。
弓兵。
命令した指揮官。
王を追うと決めたカエサル。
医療より追撃を優先した俺。
「おそらく、罰せられません」
正直に答えた。
少女は母親のそばへ座った。
「ローマの法は、ローマ人だけを守るのね」
反論できなかった。
◇
治療を続ける。
水。
身体を冷やす。
傷を再確認。
膿はまだない。
母親が目を開けた。
「娘は」
少女の手を探す。
「ここにいます」
「もう一人は」
俺は黙った。
女性は理解した。
声を上げなかった。
ただ目を閉じたまま、娘の手を握る。
二人の妻。
二人の娘。
政治的な婚姻。
人質としての価値。
だが今、目の前にいるのは夫と娘を失ったかもしれない一人の女性だった。
外では、ローマ兵が勝利を祝っている。
アリオウィストゥスを追い払い、ゲルマン軍を破った。
歴史には、そのように記される。
だが彼の家族の名前は、ほとんど残らない。
◇
「名前を教えていただけますか」
女性は長く黙った。
「書いて、どうする」
「今日の記録に残します」
「明日には燃やされる」
「燃えなければ、残ります」
やがて彼女は、自分の名と娘の名を話した。
もう一つ、聞かなくても分かる名を、最後に付け加えた。
俺は一文字ずつ記録した。
三人分。
歴史のためではない。
死者と捕虜を「王の妻」「王の娘」だけで終わらせないために。
川岸でティロが空けたままにしていた欄が、その夜、埋まった。




