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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第67話 ラインへ

ライン川は、想像していた以上に広かった。

流れは速い。

水面は朝霧に覆われ、対岸が遠く見える。

ソーヌ川は、どちらへ流れているか分からないほど緩かった。

この川は、見ているだけで身体が持っていかれる気がする。

橋はない。

渡し船も限られている。

アリオウィストゥスは、どうやって渡るつもりなのか。

「舟があります!」

偵察騎兵が指した。

岸辺に小舟。

漁船。

筏。

数は少ない。

全員は渡れない。

「王だけ先に渡る」

騎兵指揮官が言った。

「家族と側近を乗せれば、それで終わりです」

後続の戦士や家族は置き去りになる。

王が生き残れば、軍を再建できる。

彼らにとっては合理的。

置かれる者にとっては裏切りである。

「急げ!」

ローマ騎兵が速度を上げた。

敵の護衛が振り返る。

アリオウィストゥス側も、追撃隊へ気づいた。

舟へ人を乗せ始める。

「射程へ入ります!」

弓兵が弓を構える。

「王を射て!」

命令。

だが、岸辺には複数の人影が重なっている。

男。

女性。

子供。

誰が王か分からない。

「射れば家族にも当たります」

俺が言うと、騎兵指揮官は答えた。

「王を逃すよりよい」

軍事的には。

「目標を確認できていません」

「大柄な男だ」

「大柄な男は複数います」

「撃たなければ舟が出る!」

時間がない。

完全な確認を待てば、機会を失う。

「舟の前を狙ってください」

「人ではなく?」

「漕ぎ手と舟体を止めます」

「王を殺せない」

「渡河を遅らせられます」

弓兵が矢を放つ。

数本が水面へ。

一本が舟縁へ刺さる。

一本が漕ぎ手の肩へ当たる。

舟が岸から離れきれない。

敵護衛が盾を上げる。

「突撃!」

ローマ騎兵が岸辺へ向かった。

◇

ゲルマン護衛は、逃げずに戦った。

王と家族が舟へ乗る時間を稼ぐためである。

五十騎前後。

対するローマ側は、その数倍。

それでも彼らは退かない。

「死ぬつもりです」

フィロンが言った。

「王を守るためです」

「王は、彼らを置いていくのに?」

「それでも王なのでしょう」

忠誠。

恐怖。

家族への報酬。

部族の名誉。

理由は分からない。

一人ずつの動機を聞くこともできない。

騎兵同士が衝突する。

ローマ側は数で包囲しようとする。

ゲルマン騎兵は、岸辺の狭い場所を利用する。

水。

舟。

低木。

多勢のローマ騎兵が一度に入れない。

「地形を選んでいます」

俺は言った。

追い詰められても、戦い方を失っていない。

ローマ騎兵の一人が落馬。

敵の槍が胸へ入る。

「救護班!」

俺たちは少し後方へ救護所を作る。

戦闘が近すぎる。

「ここでは危険です」

「これ以上下がれば、搬送に時間がかかります」

「敵が突破したら」

「舟へ向かっています。こちらへは来ない可能性が高い」

可能性。

保証はない。

盾を並べ、簡易防壁を作る。

最初の患者。

胸部刺創。

呼吸停止に近い。

傷を塞ぐ。

気道。

反応が弱い。

「黒ですか」

フィロンが尋ねる。

「まだ赤です」

「他に大腿出血が来ています」

二人同時。

胸部患者の救命可能性は低い。

大腿出血は圧迫と結紮で助かる可能性が高い。

「胸部患者へ衛生兵を一人。大腿を先に診ます」

胸部患者を見捨てるわけではない。

だが、治療資源を移す。

戦場医療の選択。

以前ほど迷わず言えた自分が怖い。

◇

岸辺では、一艘目の舟が出た。

女性と少女が乗っている。

男の姿もある。

アリオウィストゥスか。

霧で見えない。

「王が乗った!」

誰かが叫ぶ。

「矢を!」

矢が飛ぶ。

舟上の人物が倒れる。

少女の叫び声。

「止めてください!」

俺が叫んでも、弓兵は射続ける。

舟を沈めれば、王を止められる。

同時に全員が溺れる。

「王が乗っているか確認できません!」

「乗っている可能性がある!」

指揮官の答え。

可能性のために家族を殺す。

「舟体を狙え!」

別の命令。

矢が板へ刺さる。

だが小舟は流れへ乗った。

岸から離れる。

二艘目。

アリオウィストゥスらしき大柄な男が、馬のまま水へ入った。

「舟ではない!」

馬へつかまり、泳いで渡ろうとしている。

流れは速い。

危険。

だが王は進む。

「追えるか」

ローマ騎兵指揮官が川を見る。

「馬を入れれば流されます」

現地案内人が言った。

「浅瀬は」

「下流です。半日以上」

「弓兵!」

距離が開く。

矢が飛ぶ。

一本が馬の近くへ落ちる。

男は水中へ沈み、再び浮かぶ。

対岸へ向かう。

アリオウィストゥス。

おそらく本人。

ローマ軍は岸辺まで追いついた。

だが川が境界となる。

「舟を出せ!」

「残っていません!」

「筏を作れ!」

「時間がかかります!」

王は、少しずつ対岸へ近づく。

捕らえられない。

殺せない。

四千歩の追撃。

一晩の森。

多くの死者。

それでも、最後は川一本で逃げられる。

「矢を止めるな!」

弓兵が射る。

男は対岸近くへ到達した。

馬から離れ、浅瀬を歩く。

そして霧の中へ消えた。

アリオウィストゥスは、ライン川を越えた。

◇

岸辺には、逃げ遅れた者たちが残った。

護衛の多くは死んだ。

武器を捨てた者は捕虜となる。

家族。

従者。

負傷者。

一艘の舟が川の中央で転覆していた。

人影が水面に浮かぶ。

「救助できますか」

フィロンが尋ねる。

「流れが速すぎます」

「縄をつければ」

「泳げる兵士を選びます」

ローヌ川で少女を救った時、俺は自分で水へ入った。

今回は入れない。

全体を見なければならない。

それだけではない。

怖かった。

ライン川の流れ。

深さ。

低い水温。

「泳げる者!」

兵士を募る。

三人。

縄を身体へ結ぶ。

岸から支える。

一人目が水へ入る。

流される。

縄が張る。

転覆地点までは届かない。

「無理です!」

「戻せ!」

水面の人影が一つずつ消える。

助けられない。

岸へ流れ着いた少女を、一人の兵士が引き上げた。

呼吸なし。

身体は冷たい。

胸骨圧迫。

呼吸。

水が口から出る。

反応なし。

「続けます」

フィロンが言った。

「はい」

何度も。

長く。

やがて少女が咳をした。

水を吐く。

小さな呼吸。

生きた。

全員ではない。

一人だけ。

◇

「王は逃げました」

騎兵指揮官が言う。

敗北を報告する声。

「軍は崩れています」

俺は答えた。

「同じではない」

「戦略的には、アリオウィストゥスを捕らえられませんでした」

「なら失敗だ」

確かに。

だが川岸には、武器を捨てた数百人がいる。

俺は川岸を歩いた。

引き上げられた遺体が並んでいる。

若い女が一人。

装飾品はない。

顔に土がついている。

年の頃は、十五、六。

誰も名を知らない。

ティロが木板を出し、こちらを見た。

「何と書きますか」


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