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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第66話 逃げる王

アリオウィストゥスは、東へ逃げた。

目指す先はライン川。

川を越えれば、ローマ軍が簡単には追えない地域へ入る。

彼が生きてライン東岸へ戻れば、再び部族を集める可能性がある。

敗北した王。

それでも、かつてガリア諸部族を破り、広い土地を支配した男である。

「必ず捕らえろ!」

追撃部隊へ命令が出た。

ローマ騎兵。

ガリア騎兵。

軽装歩兵。

走れる軍団兵。

疲労した重装歩兵は本隊へ残す。

「王を捕らえれば、戦争は終わりますか」

俺が尋ねると、ラビエヌスは馬上で答えた。

「少なくとも、同じ王とは二度戦わなくて済む」

アリオウィストゥス軍は崩れた。

だが、全滅したわけではない。

部族ごとに逃げている。

ハルデス族。

マルコマンニ族。

トリボキ族。

その他の集団。

王を失えば、各部族は自分たちの生存を優先する可能性が高い。

「殺すのですか」

「捕らえられるなら捕らえる」

「捕らえられなければ?」

「戦場だ」

答えは明確だった。

◇

追撃路には、荷車が捨てられていた。

壊れた車輪。

倒れた牛。

衣服。

穀物袋。

子供の木製玩具。

速く逃げるため、生活を切り捨てている。

ヘルウェティイ族の追撃時と同じ風景だった。

違う民族。

同じ荷車。

同じ順番で捨てられていく。

一年で二度、俺は同じものを数えている。

「負傷者がいます!」

街道脇に、ゲルマン人の男が倒れている。

大腿部へ深い剣傷。

まだ生きている。

「止まれません」

追撃部隊の指揮官が言った。

「王を逃がします」

「後続医療班へ印を残します」

俺は赤い布を木へ結んだ。

救護対象がいる印。

後続班が見つければ処置する。

見つける前に死ぬ可能性もある。

「連れていかないのですか」

フィロンが尋ねる。

「今、荷車へ乗せれば速度が落ちます」

「患者です」

「王を逃せば、さらに戦争が続くかもしれません」

フィロンの顔に納得はない。

ビブラクテの夜、俺は味方の重傷者を優先し、敵の女性を死なせた。

今回は一人の患者を置き、追撃を優先する。

「軍医幕僚としての判断ですか」

「はい」

「外科医としては?」

「残りたい」

「では、どちらが本当です」

どちらも本当だった。

「役割が違います」

「患者には関係ありません」

その通りだ。

街道脇に残される男にとって、俺が幕僚か外科医かなど意味がない。

「後続班へ必ず伝えます」

それ以上の言葉は出なかった。

赤い布は、しばらく風に揺れていた。

◇

逃走するゲルマン人は、次第にまとまりを失った。

戦士だけの集団は速い。

家族を守る者は遅い。

負傷者を運ぶ集団は、さらに遅い。

ローマ騎兵は追いついた集団を攻撃する。

「武器を捨てろ!」

ガリア語やゲルマン語で叫ぶ。

従う者。

戦う者。

逃げる者。

混乱。

戦士が槍を捨てても、ローマ騎兵がそのまま斬る場面もある。

戦闘の興奮。

復讐。

戦利品。

命令は完全には届かない。

「降伏者を殺すな!」

俺が叫ぶ。

聞こえる範囲の兵士が振り返る。

「外科医が命令するな!」

一人が怒鳴った。

「総督命令です!」

事実ではない。

明確な降伏者保護命令は出ていない。

だがローマ軍は捕虜を必要としている。

尋問。

奴隷。

交換。

軍事的にも、降伏者をすべて殺す意味は薄い。

「武器を捨てた者を集めろ!」

百人隊長が俺の声へ合わせて命じた。

結果的に命令となった。

嘘をついて、人が生きた。

後で問題になるかもしれない。

それでも、目の前の殺害は止まった。

◇

午後。

前方から報告が届く。

「王の一行を確認!」

アリオウィストゥスは、少数の騎兵とともに逃げている。

二人の妻と、娘たちも同行しているという。

家族を連れて逃げている。

「距離は」

「半日以内です」

「追いつけます」

騎兵指揮官が言った。

ただし馬が疲れている。

ローマ側も朝から走り続けていた。

「馬を交換します」

周辺で捕獲したゲルマン軍の馬を使う。

「乗り慣れていません」

俺が言う。

「止まっていれば逃げられる」

第十軍団の即席騎兵訓練を思い出す。

不慣れな馬。

落馬。

骨折。

「乗馬経験者だけを先行させてください」

「人数が減る」

「速度は上がります」

「王の護衛が多ければ?」

「後続が追いつくまで接触を避けます」

先行確認隊。

主追撃隊。

二段階に分ける。

「王を見つけて待てと言うのか」

「位置を失わないことが優先です」

追いついた少数が無理に攻撃すれば、返り討ちになる。

「よい」

指揮官が決めた。

経験ある騎兵が新しい馬へ乗り、先行する。

俺は本隊と進む。

外科医が王を捕らえる必要はない。

だが負傷者が出れば必要になる。

◇

日没前。

先行隊から戻った騎兵が報告した。

「王は川へ向かっています。護衛は五十騎ほど!」

「家族は?」

「荷車を捨て、馬へ乗せています」

ライン川まで、あと一日もない。

「夜間も追う」

指揮官が決めた。

「危険です」

俺は言った。

「道を知りません。馬も疲れています」

「夜が明ければ王は川を渡る」

「落馬者と迷子が増えます」

「王を逃がす損失と比べろ」

数値化はできない。

アリオウィストゥス一人の戦略的価値。

夜間追撃による死傷者。

比べろと言われて、俺は比べる単位を持っていなかった。

「松明を減らしてください」

「なぜ」

「敵から位置が見えます」

「こちらも道が見えない」

「先頭と部隊間だけにします。騎兵全員が持つ必要はありません」

「転倒が増える」

「速度を少し落とします」

追撃。

安全。

隠密。

三つを完全には両立できない。

「先頭に現地案内人を」

「信用できるか」

「ローマ軍へ協力するセクアニ族を使います」

「敵側へ誘導されたら?」

「二人を別々に置き、道の説明が一致するか確認します」

不信を前提にした仕組み。

それでも完全ではない。

◇

夜。

追撃隊は暗い森へ入った。

松明の光。

馬の息。

枝が鎧へ当たる音。

遠くで、時折叫び声がする。

敵か味方か分からない。

「恐ろしいです」

フィロンが言った。

「はい」

「士気を測りますか」

皮肉だった。

「今は必要ありません」

「なぜ」

「全員、怖いからです」

恐怖の有無ではない。

怖い中で、隊列を保てるか。

合図を理解しているか。

道を見失わないか。

「前の馬の尾を見失うな!」

命令が繰り返される。

長い夜だった。

◇

夜明け前。

森を抜けると、遠くに大きな川が見えた。

ライン川。

その岸辺へ、アリオウィストゥスの一行が向かっていた。

逃げる王。

追う軍。

その間には、まだ四千歩の距離があった。


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