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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第65話 予備兵の価値

プブリウス・クラッススの馬は、胸に投槍を受けて倒れていた。

馬体の下から、若い指揮官の上半身だけが見える。

護衛兵たちが敵の投槍を盾で受けながら、馬を動かそうとしていた。

「脚が挟まれています!」

俺は馬から飛び降りた。

「敵は?」

「後退しています!ですが、まだ槍が飛んできます!」

盾を持った兵士が周囲を囲む。

即席の防壁。

盾の隙間から、乾いた土と、まだ生きている馬の荒い息が見える。腹が大きく上下し、そのたびに胸の傷から血が押し出されていた。

「馬を持ち上げろ!」

四人。

六人。

動かない。

倒れた軍馬は重く、力任せでは持ち上がらない。

「縄を持ってこい!」

鞍へ縄を結び、別の馬に引かせる。

馬体がわずかに動いた。

クラッススの右脚が現れる。

大腿部が不自然な方向へ曲がっていた。

「外科医殿」

クラッススが俺を見る。

意識はある。

顔色は悪いが、声は明瞭だった。

「話さないでください」

「戦況は」

「こちらが押しています」

「左翼は?」

「敵の右翼を崩しました」

「我々の右翼は?」

「第十二軍団が支えています」

クラッススが目を閉じた。

安堵したようにも見える。

「眠らないでください」

「皆、同じことを言う」

「外科医は、患者に眠られると困るのです」

馬体がさらに引かれる。

ようやく脚が抜けた。

右大腿骨開放骨折。

折れた骨が皮膚を破り、土と馬の血が傷へ入り込んでいる。

感染の危険が高い。

三年前、クィントゥスの脚に入っていたのは木片一つだった。それでも七日で死にかけた。今、この傷には土と馬の毛と布片が入っている。

足先は青白い。

脈も弱い。

「担架を!」

その時、護衛兵の一人が倒れた。

首から血が噴き出している。

盾の縁の上、ちょうど顎の下を抜かれていた。

「こちらも負傷!」

頸部の深い裂創。

動脈の枝が切れている。

急速に血を失っている。

クラッススは意識がある。

出血も圧迫されている。

護衛兵は、今止めなければ死ぬ。

「護衛兵を先に圧迫!」

衛生兵へ布を渡す。

「クラッスス様は?」

「今は安定しています!」

階級ではなく緊急度。

規程にはそう書いてある。俺が書いた。

だがクラッススを失えば、軍全体への影響は大きい。

患者としては平等。

組織における価値は同じではない。

その二つを、完全には切り離せない。切り離せると言い張れば、それは嘘になる。切り離せないと認めた上で、それでも緊急度を先に置く。俺にできるのは、そこまでだった。

クラッススは俺の迷いに気づいたらしい。

「そちらを先にしろ」

「話さないでください」

「正しい判断だ」

頸部の傷を圧迫する。

指の下で、脈打つ勢いが伝わってくる。

完全な頸動脈断裂ではない。

太い分枝からの出血。

結紮すれば止められる可能性がある。

「このまま主救護所へ運べ!」

担架が二つ並ぶ。

若い指揮官と、名も知られていない護衛兵。

どちらも赤分類。

どちらも生きている。

◇

主救護所へ戻ると、すぐにクラッススの脚を診た。

足先の冷たさ。

色。

脈。

感覚。

骨折による圧迫か、血管損傷か。

現代なら造影を撮る。ここでは、爪を押して色が戻る速さを見るしかない。

「骨を戻します」

「脚を切るのか」

「今は切りません」

「今は?」

「血流が戻らなければ、切断が必要になる可能性があります」

クラッススの顔から血の気が引いた。

戦場で予備の運用を決めた男が、初めて子供のような顔をした。

「死ぬのか」

「感染や大出血が起きれば」

「脚より先に命か」

「はい」

彼は天幕の天井を見る。

「なら早くしろ」

兵士たちが身体を押さえる。

麻酔はない。

葡萄酒を飲ませる。

牽引。

折れた骨を整復する。

クラッススの絶叫。

それでも彼は身体を押さえる兵士を蹴ろうとはしなかった。

骨の位置を戻す。

足先の色を確認する。

脈。

弱いが触れる。

「血流が少し戻りました」

「脚は残るか」

「まだ分かりません」

大量の水で傷を洗う。

土。

布片。

馬毛。

異物を取り除く。

壊死した組織を切除する。

傷は完全には閉じない。

排液できるようにしておく。

副木で固定する。

「熱が出れば」

「感染です」

「出なければ?」

「安心するには早いです」

「外科医は、いつ安心する」

「患者が自分の足で帰った時です」

クラッススは弱く笑った。

「では、随分先だ」

◇

処置が終わる前に、彼が尋ねた。

「予備を早く出しすぎたと思うか」

「今、その話をするのですか」

「忘れる前に聞けと言ったのは、あなたでしょう」

確かに言った。

判断時に何を見たか。

何を選ばなかったか。

結果が出た後では、人間は記憶を書き換える。勝てば「あの時こう読んだ」と言い、負ければ「あの時こう聞いていた」と言う。どちらも本人は嘘のつもりがない。

「左翼へ騎兵を送ったことで、敵の右翼を崩せました」

「我々の右翼は危険になった」

「第十二軍団が支えました」

「支えなければ?」

「全軍が崩れた可能性があります」

「なら賭けだ」

「はい」

クラッススは目を閉じた。

「幕僚は賭けを嫌うか」

「制御できない賭けは嫌います」

「戦場で、制御できるものがあるか」

「選択肢を増やすことはできます」

「予備兵か」

「予備兵。退路。搬送路。交代部隊。食料。情報」

一つの計画が外れても、別の行動を取れるようにする。

「予備は、使わないために残すのではない」

クラッススが言った。

「使う時を選ぶために残す」

「早く使えば、次の選択肢を失います」

「遅く使えば、今の選択肢を失う」

「正解は?」

「ない」

即答だった。

「結果が良ければ決断力。悪ければ無謀と呼ばれる」

それでも、判断の質は検討できる。

見えた情報。

時間。

利用可能な部隊。

敵の動き。

他の選択肢。

結果と判断を切り離して評価する。医療で最も難しいのがそれだった。助かった患者の担当医は、常に正しかったことにされる。

「今回の判断は正しかったと思いますか」

彼が尋ねる。

「成功した危険な判断です」

「長い」

「医師の説明は長くなります」

「一言で言え」

「良い判断だった可能性が高い」

クラッススが笑い、痛みで顔を歪めた。

◇

外では戦闘が続いていた。

敵右翼は崩れ、中央部族の側面が露出する。

第九軍団が前進。

下馬したローマ騎兵が部族間の隙間へ入る。

ローマ右翼では、第十軍団と第十二軍団が押し返していた。

アリオウィストゥス軍の戦列が、部族ごとの形を保てなくなる。

指揮命令が混ざる。

誰がどこへ退くのか分からない。

そして背後には荷車陣がある。

女性。

子供。

家畜。

逃げ道を塞ぐ生活そのもの、彼らは家族を後ろへ置くことで戦士を強くした。その同じ選択が、今、逃げる場所を消している。

ゲルマン軍は総崩れになった。

「追撃命令!」

ローマ軍の角笛が響く。

逃げる敵を再編させない。

王を逃がさない。

戦争を今日で終わらせる。

そのための追撃。

「医療班を出しますか」

フィロンが尋ねた。

「戦線が通過した場所からです」

「今すぐ行けば救える者がいます」

「今すぐ行けば、医療班が敵と味方の間に挟まれます」

以前と同じ選択。

早く出れば救える。

早く出れば、救う側を失う。

「盾付き救護班を外周へ」

「敵兵も?」

「武器を捨て、救命可能なら」

完全には救えない。

だが届く範囲には行く。

◇

夕刻。

主要な戦場はローマ軍が制圧した。

平原には、投げ捨てられた盾と、倒れたまま動かない荷車が散らばっている。夕日が低く差し、影が異様に長かった。

敵の死者。

捕虜。

荷車。

家畜。

武器。

戦果報告が集まり始める。

「予備投入が勝敗を決めました」

ラビエヌスがカエサルへ報告した。

「クラッススは」

「右大腿骨開放骨折です。現在は血流がありますが、感染の危険が高い」

「指揮へ戻れるか」

「当分は無理です」

「脚は」

「数日を見なければ分かりません」

カエサルは一瞬だけ目を閉じた。

才能ある若い将校を失う可能性。

友人であり債権者でもある男の、息子を失う可能性。

二つの感情があったのかもしれない。この男の場合、それが二つとも計算のうちである可能性も否定できなかった。

「第十二軍団は」

「選抜した二個大隊が、第十軍団右翼を支えました」

「損害は」

「戦死七十余り。重傷百人以上」

再び多くが死んだ。

だが今回は、逃げなかった。

そのことに意味があると兵士たちは言うだろう。俺は、七十という数字の下に名前を書く欄を作った。書くのは明日になる。

「名誉を回復したな」

ラビエヌスが言う。

名誉。

その言葉で救われる兵士もいる。

死者が戻るわけではない。

◇

「ルキウス」

カエサルが俺を見る。

「今日の教訓は」

「予備は、余った兵ではありません」

「続けろ」

「計画が崩れた時、次の選択肢を作る兵です」

「他には」

「予備を動かす者には、現場を見る位置と、事前の権限が必要です」

クラッススは命令を待たなかった。

待つ必要がない権限を、あらかじめ与えられていた。権限は、危機が起きてから配ると間に合わない。

「さらに」

俺は言った。

「予備として待つ兵士にも、自分たちが必要とされているという理解が必要です」

第十二軍団は、後方へ置かれたことを屈辱と感じていた。

だが予備として、最も危険な場所へ投入された。

「士気を測るのか」

「測るのではありません。役割を伝えます」

「記録は?」

「します」

カエサルが笑った。

「結局、書くのだな」

「答えではなく、次の判断材料として」

「よい」

◇

カエサルは北東を見た。

「アリオウィストゥスを追う」

「兵士は疲れています」

「敵はもっと疲れている」

「負傷者は」

「お前たちが診ろ」

いつもの答えである。

だが今回は、反発しなかった。

今追わなければ、アリオウィストゥスは再び部族を集めるかもしれない。

追えば、逃げる家族も巻き込まれる。

どちらにも死者が出る。どちらを選んでも、明日、俺の天幕に運ばれてくる人間の数はさほど変わらない。

「追撃部隊へ医師二人、衛生兵三十、担架班六十、荷車四台を付けます」

「三台だ」

「四台です」

「なぜ」

「予備です」

カエサルが一瞬黙る。

「よい。四台だ」

一台の差である。

だが、その一台が、想定していなかった患者を運ぶことになる。

戦場では、予備兵が次の選択肢を作る。

医療では、空いた寝台、残した布、休ませた医師、使わなかった荷車が、次の命を救う。

効率だけを求め、すべてを今使えば、想定外へ対応できない。

余裕。

冗長性。

予備。

以前の俺なら、無駄と考えたかもしれない。

MBAでも医療経営でも、稼働率を高めることは正義とされる。空き病床は損失であり、遊んでいる人員は改善対象である。

だが稼働率百パーセントの病院は、急患を受け入れられない。

すべての兵を前線へ置く軍は、崩れた場所を救えない。

余裕とは、無駄の別名ではない。

想定外が起きる確率に対して、あらかじめ払っておく代金である。

◇

その夜。

俺は軍医規程の余白へ一文を書いた。

予備とは、使われていない資源ではない。未来の選択肢である。

書き終えて、油灯を近づけた。

隣の天幕からは、まだ処置の音が続いている。今日の負傷者は、まだ半分も診終わっていない。

◇

夜半、フィロンが呼びに来た。

クラッススの額へ手を当てる。

熱い。

創部を確認する。

発赤が、朝より広がっていた。

予備を残した男が、予備の利かない場所で熱を出している。

「洗浄をもう一度」

「もう三度しました」

「四度目です」

天幕を出て、水を取りに走った。

空が高かった。

紀元前五十八年が、終わろうとしている。

この一年で、ヘルウェティイ族が動き、降り、戻された。

ゲルマンの王が来て、ラインの向こうへ帰った。

俺は軍医から幕僚になり、二百人を死なせた。

三月十五日まで、まだ十四度の三月がある。

一度も減っていない。


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