第65話 予備兵の価値
プブリウス・クラッススの馬は、胸に投槍を受けて倒れていた。
馬体の下から、若い指揮官の上半身だけが見える。
護衛兵たちが敵の投槍を盾で受けながら、馬を動かそうとしていた。
「脚が挟まれています!」
俺は馬から飛び降りた。
「敵は?」
「後退しています!ですが、まだ槍が飛んできます!」
盾を持った兵士が周囲を囲む。
即席の防壁。
盾の隙間から、乾いた土と、まだ生きている馬の荒い息が見える。腹が大きく上下し、そのたびに胸の傷から血が押し出されていた。
「馬を持ち上げろ!」
四人。
六人。
動かない。
倒れた軍馬は重く、力任せでは持ち上がらない。
「縄を持ってこい!」
鞍へ縄を結び、別の馬に引かせる。
馬体がわずかに動いた。
クラッススの右脚が現れる。
大腿部が不自然な方向へ曲がっていた。
「外科医殿」
クラッススが俺を見る。
意識はある。
顔色は悪いが、声は明瞭だった。
「話さないでください」
「戦況は」
「こちらが押しています」
「左翼は?」
「敵の右翼を崩しました」
「我々の右翼は?」
「第十二軍団が支えています」
クラッススが目を閉じた。
安堵したようにも見える。
「眠らないでください」
「皆、同じことを言う」
「外科医は、患者に眠られると困るのです」
馬体がさらに引かれる。
ようやく脚が抜けた。
右大腿骨開放骨折。
折れた骨が皮膚を破り、土と馬の血が傷へ入り込んでいる。
感染の危険が高い。
三年前、クィントゥスの脚に入っていたのは木片一つだった。それでも七日で死にかけた。今、この傷には土と馬の毛と布片が入っている。
足先は青白い。
脈も弱い。
「担架を!」
その時、護衛兵の一人が倒れた。
首から血が噴き出している。
盾の縁の上、ちょうど顎の下を抜かれていた。
「こちらも負傷!」
頸部の深い裂創。
動脈の枝が切れている。
急速に血を失っている。
クラッススは意識がある。
出血も圧迫されている。
護衛兵は、今止めなければ死ぬ。
「護衛兵を先に圧迫!」
衛生兵へ布を渡す。
「クラッスス様は?」
「今は安定しています!」
階級ではなく緊急度。
規程にはそう書いてある。俺が書いた。
だがクラッススを失えば、軍全体への影響は大きい。
患者としては平等。
組織における価値は同じではない。
その二つを、完全には切り離せない。切り離せると言い張れば、それは嘘になる。切り離せないと認めた上で、それでも緊急度を先に置く。俺にできるのは、そこまでだった。
クラッススは俺の迷いに気づいたらしい。
「そちらを先にしろ」
「話さないでください」
「正しい判断だ」
頸部の傷を圧迫する。
指の下で、脈打つ勢いが伝わってくる。
完全な頸動脈断裂ではない。
太い分枝からの出血。
結紮すれば止められる可能性がある。
「このまま主救護所へ運べ!」
担架が二つ並ぶ。
若い指揮官と、名も知られていない護衛兵。
どちらも赤分類。
どちらも生きている。
◇
主救護所へ戻ると、すぐにクラッススの脚を診た。
足先の冷たさ。
色。
脈。
感覚。
骨折による圧迫か、血管損傷か。
現代なら造影を撮る。ここでは、爪を押して色が戻る速さを見るしかない。
「骨を戻します」
「脚を切るのか」
「今は切りません」
「今は?」
「血流が戻らなければ、切断が必要になる可能性があります」
クラッススの顔から血の気が引いた。
戦場で予備の運用を決めた男が、初めて子供のような顔をした。
「死ぬのか」
「感染や大出血が起きれば」
「脚より先に命か」
「はい」
彼は天幕の天井を見る。
「なら早くしろ」
兵士たちが身体を押さえる。
麻酔はない。
葡萄酒を飲ませる。
牽引。
折れた骨を整復する。
クラッススの絶叫。
それでも彼は身体を押さえる兵士を蹴ろうとはしなかった。
骨の位置を戻す。
足先の色を確認する。
脈。
弱いが触れる。
「血流が少し戻りました」
「脚は残るか」
「まだ分かりません」
大量の水で傷を洗う。
土。
布片。
馬毛。
異物を取り除く。
壊死した組織を切除する。
傷は完全には閉じない。
排液できるようにしておく。
副木で固定する。
「熱が出れば」
「感染です」
「出なければ?」
「安心するには早いです」
「外科医は、いつ安心する」
「患者が自分の足で帰った時です」
クラッススは弱く笑った。
「では、随分先だ」
◇
処置が終わる前に、彼が尋ねた。
「予備を早く出しすぎたと思うか」
「今、その話をするのですか」
「忘れる前に聞けと言ったのは、あなたでしょう」
確かに言った。
判断時に何を見たか。
何を選ばなかったか。
結果が出た後では、人間は記憶を書き換える。勝てば「あの時こう読んだ」と言い、負ければ「あの時こう聞いていた」と言う。どちらも本人は嘘のつもりがない。
「左翼へ騎兵を送ったことで、敵の右翼を崩せました」
「我々の右翼は危険になった」
「第十二軍団が支えました」
「支えなければ?」
「全軍が崩れた可能性があります」
「なら賭けだ」
「はい」
クラッススは目を閉じた。
「幕僚は賭けを嫌うか」
「制御できない賭けは嫌います」
「戦場で、制御できるものがあるか」
「選択肢を増やすことはできます」
「予備兵か」
「予備兵。退路。搬送路。交代部隊。食料。情報」
一つの計画が外れても、別の行動を取れるようにする。
「予備は、使わないために残すのではない」
クラッススが言った。
「使う時を選ぶために残す」
「早く使えば、次の選択肢を失います」
「遅く使えば、今の選択肢を失う」
「正解は?」
「ない」
即答だった。
「結果が良ければ決断力。悪ければ無謀と呼ばれる」
それでも、判断の質は検討できる。
見えた情報。
時間。
利用可能な部隊。
敵の動き。
他の選択肢。
結果と判断を切り離して評価する。医療で最も難しいのがそれだった。助かった患者の担当医は、常に正しかったことにされる。
「今回の判断は正しかったと思いますか」
彼が尋ねる。
「成功した危険な判断です」
「長い」
「医師の説明は長くなります」
「一言で言え」
「良い判断だった可能性が高い」
クラッススが笑い、痛みで顔を歪めた。
◇
外では戦闘が続いていた。
敵右翼は崩れ、中央部族の側面が露出する。
第九軍団が前進。
下馬したローマ騎兵が部族間の隙間へ入る。
ローマ右翼では、第十軍団と第十二軍団が押し返していた。
アリオウィストゥス軍の戦列が、部族ごとの形を保てなくなる。
指揮命令が混ざる。
誰がどこへ退くのか分からない。
そして背後には荷車陣がある。
女性。
子供。
家畜。
逃げ道を塞ぐ生活そのもの、彼らは家族を後ろへ置くことで戦士を強くした。その同じ選択が、今、逃げる場所を消している。
ゲルマン軍は総崩れになった。
「追撃命令!」
ローマ軍の角笛が響く。
逃げる敵を再編させない。
王を逃がさない。
戦争を今日で終わらせる。
そのための追撃。
「医療班を出しますか」
フィロンが尋ねた。
「戦線が通過した場所からです」
「今すぐ行けば救える者がいます」
「今すぐ行けば、医療班が敵と味方の間に挟まれます」
以前と同じ選択。
早く出れば救える。
早く出れば、救う側を失う。
「盾付き救護班を外周へ」
「敵兵も?」
「武器を捨て、救命可能なら」
完全には救えない。
だが届く範囲には行く。
◇
夕刻。
主要な戦場はローマ軍が制圧した。
平原には、投げ捨てられた盾と、倒れたまま動かない荷車が散らばっている。夕日が低く差し、影が異様に長かった。
敵の死者。
捕虜。
荷車。
家畜。
武器。
戦果報告が集まり始める。
「予備投入が勝敗を決めました」
ラビエヌスがカエサルへ報告した。
「クラッススは」
「右大腿骨開放骨折です。現在は血流がありますが、感染の危険が高い」
「指揮へ戻れるか」
「当分は無理です」
「脚は」
「数日を見なければ分かりません」
カエサルは一瞬だけ目を閉じた。
才能ある若い将校を失う可能性。
友人であり債権者でもある男の、息子を失う可能性。
二つの感情があったのかもしれない。この男の場合、それが二つとも計算のうちである可能性も否定できなかった。
「第十二軍団は」
「選抜した二個大隊が、第十軍団右翼を支えました」
「損害は」
「戦死七十余り。重傷百人以上」
再び多くが死んだ。
だが今回は、逃げなかった。
そのことに意味があると兵士たちは言うだろう。俺は、七十という数字の下に名前を書く欄を作った。書くのは明日になる。
「名誉を回復したな」
ラビエヌスが言う。
名誉。
その言葉で救われる兵士もいる。
死者が戻るわけではない。
◇
「ルキウス」
カエサルが俺を見る。
「今日の教訓は」
「予備は、余った兵ではありません」
「続けろ」
「計画が崩れた時、次の選択肢を作る兵です」
「他には」
「予備を動かす者には、現場を見る位置と、事前の権限が必要です」
クラッススは命令を待たなかった。
待つ必要がない権限を、あらかじめ与えられていた。権限は、危機が起きてから配ると間に合わない。
「さらに」
俺は言った。
「予備として待つ兵士にも、自分たちが必要とされているという理解が必要です」
第十二軍団は、後方へ置かれたことを屈辱と感じていた。
だが予備として、最も危険な場所へ投入された。
「士気を測るのか」
「測るのではありません。役割を伝えます」
「記録は?」
「します」
カエサルが笑った。
「結局、書くのだな」
「答えではなく、次の判断材料として」
「よい」
◇
カエサルは北東を見た。
「アリオウィストゥスを追う」
「兵士は疲れています」
「敵はもっと疲れている」
「負傷者は」
「お前たちが診ろ」
いつもの答えである。
だが今回は、反発しなかった。
今追わなければ、アリオウィストゥスは再び部族を集めるかもしれない。
追えば、逃げる家族も巻き込まれる。
どちらにも死者が出る。どちらを選んでも、明日、俺の天幕に運ばれてくる人間の数はさほど変わらない。
「追撃部隊へ医師二人、衛生兵三十、担架班六十、荷車四台を付けます」
「三台だ」
「四台です」
「なぜ」
「予備です」
カエサルが一瞬黙る。
「よい。四台だ」
一台の差である。
だが、その一台が、想定していなかった患者を運ぶことになる。
戦場では、予備兵が次の選択肢を作る。
医療では、空いた寝台、残した布、休ませた医師、使わなかった荷車が、次の命を救う。
効率だけを求め、すべてを今使えば、想定外へ対応できない。
余裕。
冗長性。
予備。
以前の俺なら、無駄と考えたかもしれない。
MBAでも医療経営でも、稼働率を高めることは正義とされる。空き病床は損失であり、遊んでいる人員は改善対象である。
だが稼働率百パーセントの病院は、急患を受け入れられない。
すべての兵を前線へ置く軍は、崩れた場所を救えない。
余裕とは、無駄の別名ではない。
想定外が起きる確率に対して、あらかじめ払っておく代金である。
◇
その夜。
俺は軍医規程の余白へ一文を書いた。
予備とは、使われていない資源ではない。未来の選択肢である。
書き終えて、油灯を近づけた。
隣の天幕からは、まだ処置の音が続いている。今日の負傷者は、まだ半分も診終わっていない。
◇
夜半、フィロンが呼びに来た。
クラッススの額へ手を当てる。
熱い。
創部を確認する。
発赤が、朝より広がっていた。
予備を残した男が、予備の利かない場所で熱を出している。
「洗浄をもう一度」
「もう三度しました」
「四度目です」
天幕を出て、水を取りに走った。
空が高かった。
紀元前五十八年が、終わろうとしている。
この一年で、ヘルウェティイ族が動き、降り、戻された。
ゲルマンの王が来て、ラインの向こうへ帰った。
俺は軍医から幕僚になり、二百人を死なせた。
三月十五日まで、まだ十四度の三月がある。
一度も減っていない。




