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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第64話 若きクラッスス

プブリウス・クラッススは、右翼の危機を見ていた。

それでも、騎兵予備の主力を左翼へ送った。

後に本人から聞いた。天幕の寝台の上で、脚を副木で固定されたまま、彼はよく喋った。喋っていないと痛みを考えてしまうのだと、後で分かった。

「右翼へ全部入れれば、持ちこたえられたでしょう」

「では、なぜ」

「持ちこたえるだけでは勝てない」

若者は簡単に答えた。

「左翼の敵が崩れかけていた」

「報告がありましたか」

「見えた」

「どこが」

「荷車の上の女たちが、右へ向かって叫び始めた」

俺には見えていなかった。

いや、見えてはいた。だが、見えたものが何を意味するかを、俺は知らなかった。

「敵右翼へ?」

「違う。中央へ助けを求めていた」

敵の言葉を理解したわけではない。

身体の向き。

手。

荷車陣の動き。

戦列の圧力。

「敵右翼は、隣の部族と離れ始めていた」

クラッススは言った。

「そこへ騎兵を回せば、逃げ道を狭められる」

「右翼が崩れたら、全軍が包囲されます」

「だから第十二を送った」

「昨日崩れた軍団です」

「昨日崩れたから、今日も崩れるとは限らない」

「根拠は」

「彼らが走る姿を見た」

戦場へ向かう姿。

「逃げている兵士は、足が後ろへ向く。彼らは敵を見て走っていた」

観察である。

数字ではない。

だが、彼が見ていたのは印象ではなかった。足の向き。それは観察可能で、他人にも説明できる。俺が三年かけて作ろうとしてきたものと、実は同じ種類のものだった。

「それだけで任せたのですか」

「百人隊長が軍旗を前へ持っていた」

軍旗。

部隊の中心。

兵士が信頼してついていく印。

「それに」

クラッススは少し笑った。

「あなたが昨日、彼らと訓練したのでしょう」

俺の報告を信じた。

いや、俺の報告ではない。俺が額に石をぶつけられて、それでも列へ入ったという話が、どこかから伝わっていたのだ。

「訓練を終えた二個大隊だけです」

「だから二個大隊を送った」

全軍ではない。

範囲を限定した評価。

「もし崩れていたら」

「私の判断ミスです」

「簡単に言いますね」

「簡単ではない」

笑みが消えた。

「だから、今も手が震えている」

彼の右手。

わずかに震えていた。

戦場では落ち着いて見えた。

恐怖がなかったわけではない。

判断した後に、身体が反応している。前の人生で、俺の手も、大きな手術の翌朝によく震えた。手術中は一度も震えなかった。

◇

左翼。

第九軍団は敵右翼を横へ押し広げていた。

その外側へ、クラッススの騎兵が回り込む。

ゲルマン側の騎兵は、ローマ右翼攻撃へ多く回っている。

敵右翼外側は薄い。

「騎兵が来た!」

ゲルマン戦士たちが向きを変える。

正面の第九軍団。

側面のローマ騎兵。

二方向へ対応しようとすると、盾列が崩れる。

一人が二つの方向を向くことはできない。密集隊形の弱点は、いつもそこにある。

「押せ!」

第九軍団の百人隊長が叫ぶ。

彼らは前日、第二列へ下げられたことを屈辱と感じていた。

下げたのは俺である。

今日は攻撃の中心。

怒りと誇りが、前進する力へ変わっている。俺への怒りも、たぶんその中に混ざっている。

敵右翼が後退した。

だが背後には荷車陣。

女性。

子供。

家畜。

逃げ場が狭い。

「中央へ移ろうとしています!」

敵右翼の戦士が、隣の部族の後ろへ回り込む。

部族間の境界が崩れる。

命令系統が混ざる。

「予備を隙間へ!」

クラッススが騎兵の一部を下馬させた。

馬上のまま密集戦へ入れば危険。

下馬した兵士が、敵右翼と中央の間へ走る。

「騎兵を歩兵として?」

俺は遠くから見ていた。

第十軍団を馬へ乗せた時とは逆である。

騎兵を下馬させる。

役割を固定しない。

その場で必要な形へ変える。

制度は形を決めるためにある。だが、形を守ることが目的になった瞬間に、制度は人を殺す。この若者は、そのことを教わらずに知っていた。

「若いのに、よく見ています」

ラビエヌスが言った。

褒める声ではない。

評価する声。

「総督閣下の命令を待たずに動きました」

「予備指揮官には、その権限がある」

「失敗すれば?」

「処分される」

明確だった。

権限と責任。

この軍団で最も整っている制度は、たぶんこれである。誰かが決め、決めた者が負う。俺が医療で作ろうとしているものは、まだそこまで届いていない。

◇

右翼では、第十二軍団の二個大隊がまだ耐えていた。

第十軍団は再編を終え、前へ出る。

敵騎兵がローマ後方へ回り込もうとした時、第十二軍団の一部が向きを変えた。

正面。

側面。

二方向。

再び崩れる危険がある。

「盾列を分けるな!」

クィントゥスが前線で叫んでいる。

彼は第十二軍団の百人隊長たちとともにいた。

本来の所属を越え、昨日の訓練を指揮した責任で残っている。三年前に俺が脚を切開した男は、切らずに残ったその脚で、今、他人の軍団の前線に立っている。

「外側の敵は軽装兵に任せろ!」

だがローマ側軽装兵は少ない。

敵騎兵が投槍を投げる。

第十二軍団の後列に死傷者。

「救護班を近づけます」

搬送責任者が言った。

「まだ騎兵がいます」

「放置すれば出血死します」

「盾付き班だけ出します」

四人の護衛。

二人の担架兵。

一組六人。

患者一人を運ぶために六人。

効率は悪い。

だが騎兵下では必要。

「何組」

「五組」

「三組にしてください」

「足りません」

「一度に出せば目立ちます」

敵騎兵は、動く小集団を狙う。

「時間差で出します」

一組。

少し後に二組目。

さらに三組目。

搬送路も一度に混雑させない。

「患者の優先順位は」

「大出血。歩けない者。意識障害」

軽傷者は自力で後退。

「敵兵もいます」

「戦線が動いている間は、近づける範囲だけです」

すべてを救えない。

言葉が以前より自然に出る。

慣れたのか。

諦めたのか。

分からない。分からないことを、俺は毎回そのままにしている。答えを出した日が、たぶん危ない日だ。

◇

左翼で敵右翼が崩れた。

最初は一部。

次に隣の部族。

一つの部族が後退すると、中央の戦士は側面をさらされる。

アリオウィストゥス側の指揮官が立て直そうとする。

荷車陣から女性たちが叫ぶ。

逃げる戦士の前へ立つ者もいる。

胸をはだけ、両手を広げて立ちふさがる。ここを通れば、お前が最初に殺すのは私だという姿勢だった。

「戻れ!」

言葉は分からなくても意味は分かる。

戦士が引き返す。

再びローマ軍へ向かう。

退けない。

家族がいる。

恥がある。

王の命令がある。

「敵が再突撃します!」

第九軍団の前列へ、追い詰められた戦士たちがぶつかる。

逃げ道のない敵は強い。

昨日、俺が第十二軍団について考えたことと、まったく同じ理屈である。ただ、こちら側から見ると、それは恐怖の対象でしかなかった。

「左翼へ追加予備を!」

クラッススは、今度は騎兵をさらに下馬させた。

だが予備の残りは少ない。

右翼へ送った第十二軍団。

左翼へ送った騎兵。

もう大きな手駒はない。

「早すぎたのでは」

俺はつぶやいた。

「何が」

ラビエヌスが聞く。

「予備投入です」

「今、左翼が崩れれば敵が立ち直る」

「しかし次の危機へ出せません」

「だから、今の危機を終わらせる」

予備は将来のために温存する。

だが温存しすぎれば、現在の好機を失う。

「正解は後からしか分からん」

ラビエヌスは言った。

「お前が第十二を配置した時と同じだ」

胸が痛む。

「違いは?」

俺は尋ねた。

「クラッススは、自分で見ている」

厳しい答えだった。

俺は数字と報告を見た。

現場も見たつもりだった。

だが丘の上から、部隊の経験を十分に理解せず配置した。

クラッススは前線近くで、軍旗、敵の動き、兵士の向きを見た。

「近くで見れば、必ず正しいのですか」

「違う」

「なら」

「間違った時、何を見落としたかが分かる」

俺は黙った。

これは、俺が三年言い続けてきたことの、別の言い方だった。記録は正しくなるためではなく、間違いを検証できるようにするためにある。ラビエヌスはその同じことを、木板を一枚も使わずに言った。

自分の目で見た情報。

報告だけでは、後から原因を他者へ移しやすい。

クラッススは判断の根拠を説明できる。

女たちの向き。

敵部族の隙間。

第十二軍団の走り方。

軍旗。

「記録してください」

俺は書記へ言った。

「何を」

「クラッスス殿の判断根拠です」

「戦闘中です」

「終わってからでは忘れます」

「本人が生きて戻れば聞けます」

その言葉に、胸が冷えた。

若い指揮官は前線近くにいる。

敵の投槍が届く距離。

「伝令を出しますか」

「何と」

「後ろへ下がれと」

権限はない。

そして下がれば、現場を見る利点が失われる。

「護衛を増やしてください」

結局、いつもの答えになった。

◇

戦況は左翼から変わった。

敵右翼が荷車陣へ押し込まれる。

中央部族が側面攻撃を受ける。

連鎖的に戦列が曲がる。

アリオウィストゥス軍は、部族ごとの並びを保てなくなった。

誰の命令へ従うか。

どこへ退くか。

分からなくなる。

七つの部族を一つの戦列に並べた王の工夫が、そのまま崩壊の速度になった。

「中央が崩れます!」

ローマ軍の歓声。

第九軍団が前進。

クラッススの下馬騎兵が隙間へ入る。

敵中央が二つに割れた。

右翼で戦っていたゲルマン部隊も、後方の混乱へ気づく。

攻撃が弱まる。

第十軍団が押し返す。

第十二軍団の二個大隊も前へ出た。

昨日逃げた場所を越える。

「進みすぎるな!」

クィントゥスが叫ぶ。

名誉を取り戻そうと追いすぎれば、隊列が崩れる。

「軍旗から離れるな!」

昨日の説明が生きている。

戦場は、少しずつローマ側へ傾いた。

その時。

クラッススの馬が倒れた。

遠くから見えた。

砂埃の中で、馬体が横向きに崩れる。若い指揮官の姿が、その下へ消える。

「クラッスス殿!」

伝令が叫ぶ。

予備を動かした者。

戦況を変えた者。

彼自身が、敵の投槍を受けた可能性があった。

俺は馬へ飛び乗った。

今度は、全体を見るべきかなど考えなかった。

考える時間がなかった、というのは嘘だ。考えなかった。

彼の判断が戦場を救った。

次は、俺が彼を救う番だった。


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