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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第63話 右翼が崩れる

決戦の日。

朝霧が平原を覆っていた。

濃い霧ではない。腰から下だけが白く、人の上半身が霧の上に浮いて見える。両軍あわせて数万の男たちが、その白い層の上に頭だけを並べていた。

ローマ軍は三列に展開する。

右翼。

第十軍団を中心とする熟練部隊。

中央。

第八、第十二軍団の一部。

左翼。

第九軍団を含む攻撃部隊。

後方。

クラッススが率いる騎兵と予備。

第十二軍団から選抜された二個大隊も、その中にいた。

俺は主救護所を中央後方へ置いた。

前方救護所は左右に一つずつ。

搬送路は三本。

昨日の失敗を受け、一本を逃走路として使われないよう、途中へ誘導兵を置く。

「負傷者を止めるのですか」

搬送責任者が尋ねる。

「歩ける兵士は、救護所の外側へ回します」

「逃げてきた者は?」

「軍旗へ戻すか、再編区画へ」

「拒否したら」

「軍紀担当へ」

医療班が、逃走兵を処罰するのではない。

役割を分ける。治療する者が罰する者を兼ねれば、傷を負った兵士は治療所へ来なくなる。

「再編区画には武器と水を置きます」

「逃げた者へ水を?」

「再び戦列へ戻すためです」

罰するだけでは、戦力は戻らない。

「臆病者へ報酬だと反発されます」

「負傷していない者へ食料は出しません。水だけです」

「それでも」

「脱水した兵士を前へ戻しても、また倒れます」

現実的な対応。

感情的には受け入れにくい。この線引きは、たぶん誰も納得しない。俺自身も、半分しか納得していない。

「百人隊長へ説明済みです」

「兵士には?」

「再編区画の目的だけ伝えています」

逃げる場所だと誤解されないよう、軍旗から離れた者を再配置する場所と説明した。

◇

朝霧が薄れた。

ゲルマン軍が見える。

霧が引いたというより、剥がされたようだった。白い層が下がり、盾の列が下から順に現れてくる。

部族ごとに密集。

背後には荷車陣。

荷車の上に立つ女性たち。

白い腕を上げ、戦士たちへ叫んでいる。髪をほどき、身体を反らして、歌のような、叫びのようなものを繰り返す。

「今日は、予言の日ですか」

フィロンが尋ねる。

「彼らにとっては、そうなのでしょう」

「昨日は悪い日だった」

「今日は勝てると信じています」

「我々は?」

「勝てると信じたい日です」

角笛が鳴る。

低く、長く。

ローマ軍が前進した。

数万人の足が同時に土を踏む。その音は、耳ではなく腹に来た。

最初に動いたのは左翼。

第九軍団が敵右翼へ圧力をかける。

昨日の計画通り、正面突破ではなく横へ押す。

投槍。

盾。

剣。

敵右翼の隊列が少しずつ外側へ広がる。

「左翼は順調です!」

伝令が報告する。

中央も持ちこたえている。

右翼。

第十軍団は敵の激しい攻撃を受けていた。

「敵左翼が厚い!」

敵は昨日の弱点を逆に読んだのか。

ローマ右翼に最精鋭がいることを承知で、そこへ主力をぶつけている。あるいは、こちらの計算を計算されている。

「第十なら耐える」

ラビエヌスが言った。

実際、耐えている。

盾列は崩れない。

前列が疲れれば、第二列と交代する。

訓練された動き。あの交代の一つ一つが、平時の何百日の反復でできている。

「敵騎兵が右翼外側へ!」

新しい報告。

ゲルマン騎兵と軽装歩兵の混成部隊が、ローマ右翼を回り込もうとしている。騎兵の脇を若い歩兵が走る。馬のたてがみを掴んで併走する者もいた。あれで騎兵の速度についていく。

「騎兵を出せ!」

ラビエヌスの命令。

ローマ側の騎兵が迎える。

だが騎兵戦では、敵が優位。

押される。

「クラッスス殿へ報告を!」

伝令が走る。

俺は丘の中腹から戦況を見る。

右翼の第十軍団正面。

敵歩兵。

外側。

敵騎兵。

さらに後ろ。

軽装兵。

二方向から圧力。

第十軍団は耐えている。

だが右端の大隊が少しずつ内側へ曲がっている。

側面を守るため、戦列が弧になる。

「危険です」

俺は言った。

「何が」

クィントゥスが尋ねる。

「右端が曲がっています」

「包囲を防いでいる」

「さらに曲がれば、中央との間が開きます」

戦列は一本の線ではない。

曲がれば長さが変わる。

右端が外側へ引かれ、中央部との接続が薄くなる。同じ人数でも、形が変われば密度が変わる。丘の上からだと、それが手に取るように見えた。見えるが、動かせない。

「伝令!」

ラビエヌスへ知らせる。

だが彼も見ている。

「第十軍団の予備を右へ!」

命令が出る。

第十軍団自身の第三列が動く。

それで支えられるか。

敵騎兵がさらに回り込む。

ローマ騎兵が退く。

「味方騎兵が下がっています!」

嫌な記憶が戻った。

ドゥムノリクス配下の騎兵が敗走した日。

騎兵の後退が、歩兵へ伝染する。

戦場では、事実より、事実に見えるものが伝わる。下がる騎兵は、負けているという情報そのものだった。

右翼後方の補助兵がざわつく。

「騎兵を再編区画へ!」

「救護所へ来るな!」

誘導兵が叫ぶ。

敵騎兵の投槍が、前方救護所近くへ飛んできた。

土に刺さり、柄が震えている。

「治療所を移動します!」

フィロンが言う。

「まだです」

「届いています!」

「患者を動かせば処置が止まります」

「敵騎兵が来れば全員殺されます」

撤収判断。

早すぎれば救命が止まる。

遅ければ治療所そのものを失う。

「手術中の患者は?」

「三人!」

「移動可能者から主救護所へ!」

「重症者は」

「処置を続ける!」

「ルキウス様は?」

「ここに残ります」

言ってから、自分の口を疑った。

また現場へ入ろうとしている。

俺の役割は全体を見ることだ。

だが前方救護所が崩れれば、右翼の医療が失われる。

「フィロン、搬送を指揮してください」

「手術は」

「ディオニュシオスを呼びます」

「主救護所が薄くなります」

どこかを厚くすれば、別の場所が薄くなる。

三年やって、この算術だけは一度も解けたことがない。

「私は右翼救護所へ行きます」

クィントゥスが腕を掴んだ。

太い指が、外套ごと腕を締めつける。

「お前は丘に残れ」

「患者が」

「医師はいる」

「外科手術が必要です」

「全体を見る者は、お前だけだ」

一人でやるな、と言われ続けてきた問題である。

俺にしかできない手術。

俺にしか見られない全体。

どちらを選ぶ。

その時、右翼から軍旗が一つ下がった。

「第十軍団右端、後退!」

伝令が叫ぶ。

完全崩壊ではない。

だが軍旗が後ろへ動いた。

兵士たちは、それを見て自分たちが押されていると知る。

軍旗は目印ではない。部隊にとって、自分たちがどうなっているかを教える唯一の情報源である。

「予備を!」

俺は叫んだ。

誰に対してか分からない。

クラッススは、すでに動いているはずか。

報告は届いたか。

敵右翼を押している左翼へ予備を入れれば、勝機がある。

だがローマ右翼が崩れれば全軍が危険。

「クラッススはどこだ!」

ラビエヌスが叫ぶ。

後方を見る。

騎兵の間に、若い指揮官の姿がある。

彼も右翼を見ている。

だが動かない。

「何を待っている!」

クィントゥスが吐き捨てる。

俺は、クラッススの観察項目を思い出した。

軍旗の後退。

第二列の投入。

敵の隙間。

騎兵の迂回。

指揮官からの要請。

すでに複数が起きている。

それでも、どこへ予備を出すかは別問題である。項目は、行動を決めない。行動を決めるのは人間だ。

右翼を支えるか。

左翼の突破を完成させるか。

「伝令が来ます!」

クラッススからだった。

「第十二軍団の二個大隊を右翼へ。騎兵予備は左翼外側へ回す!」

予備を分ける。

危険な判断。

一か所へ集中するより弱くなる。

だが、両方へ対応しようとしている。

「第十二が右翼?」

俺が聞き返す。

昨日崩れた部隊。

再訓練した二個大隊。

最も厳しい場所へ入れる。

「命令です!」

第十二軍団の兵士たちが走り出す。

彼らの顔に恐怖がないわけではない。

昨日、同じ敵に押し崩された。

今日、熟練の第十軍団すら押されている場所へ向かう。

「持つでしょうか」

フィロンが言った。

「分かりません」

白い石は使っていない。

疲労数値だけでも決めていない。

百人隊長が選び、訓練を行い、本人たちが名誉回復を求めた。

俺が昨日、数字だけで外した部隊が、今日、数字以外のもので選ばれて走っている。

それでも、戦場へ入るまで分からない。

第十二軍団の二個大隊が、第十軍団右端の後ろへ到着する。

後退する兵士とぶつからないよう、昨日練習した通り右側から入る。

一隊が盾列を作る。

もう一隊が投槍を構える。

「前列、早く投げろ!」

命令。

投槍が、通常より遠い距離で放たれる。

敵の速度が少し落ちる。

後列が近距離で投げる。

剣へ持ち替える時間が生まれる。

昨日の訓練が、そのまま形になっていた。土の上に槍の石突きで引いた線が、今、人間の列になっている。

第十二軍団が敵を受け止めた。

「止まった!」

誰かが叫んだ。

完全ではない。

数歩押される。

一人が倒れる。

だが隣が盾を重ねる。

「下がるな!」

「横を見ろ!」

「一人で戦うな!」

百人隊長の声。

彼らは耐えた。

その間に、第十軍団が戦列を整える。

右翼は崩壊を免れた。

だが敵騎兵は、さらに外側を回っている。

クラッススの騎兵予備は、左翼へ向かった。

右翼にはいない。

「敵騎兵が後方へ入ります!」

主救護所。

荷車。

補給。

危険。

「丘を下がります!」

医療班が動揺する。

「まだです!」

俺は叫ぶ。

その時。

左翼から、大きな歓声が上がった。

第九軍団が敵右翼を横へ押し切った。

敵中央との間に、隙間が開いている。

クラッススの騎兵予備が、その外側へ回り込んだ。

若い指揮官は右翼を支えるだけではなく、左翼で勝負を決めようとしていた。

右翼は、退けない。

左翼は、止まれない。

戦場全体が二つに裂けようとしていた。


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