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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第60話 数字が軍団を殺す日

新月前、最後の日。

ローマ軍は夜明けから戦列を組んだ。

第一列。

第十軍団。

第八軍団。

第十二軍団。

第二列。

第九軍団。

第十一軍団。

予備。

補助兵と一部大隊。

俺の提案をもとに変更された配置だった。

第九軍団を第二列へ下げた。

その代わり、前進陣地で夜間警戒が少なかった第十二軍団を第一列へ出した。

第十二軍団の疲労指標は低い。

軽傷者も少ない。

睡眠時間も長い。

白い石の結果も悪くない。

数字上は、第一列に適していた。

ただし。

第十二軍団は、前進陣地の戦闘経験が少ない。

敵騎兵の挑発に慣れていない。

アリオウィストゥス軍と至近距離で対峙した日数も短い。

そのことは分かっていた。

分かっていたが、俺の木板には、それを書く欄がなかった。

欄を作っていないものは、比較できない。

比較できないものは、いつのまにか存在しないことになる。

◇

「敵陣に動きがあります!」

偵察兵が叫んだ。

ゲルマン軍の門が開く。

最初に出てきたのは騎兵。

続いて軽装歩兵。

その後ろに、密集した戦士たち。

六つ以上の部族が、それぞれの隊列で進む。

長い盾。

槍。

大剣。

獣皮。

叫び声。

今日まで出てこなかった敵が、ついに全軍で出た。

「予言を破ったのか」

クィントゥスが言った。

「あるいは、ローマ軍の圧力を無視できなくなった」

女たちの叫び声が敵陣から響く。

戦うな、ではない。

今度は戦士を鼓舞しているように聞こえる。

「何と言っています」

通訳が耳を澄ます。

「戻る場所はない、と」

荷車陣が背後にある。

女性たちが、荷車を鎖や縄でつないでいる。

逃げ道を塞いでいる。

ヘルウェティイ族が家を焼いたのと、同じことをしている。

「予言が変わった?」

「分かりません」

だが、戦士たちは来る。

「投槍、構え!」

ローマ軍の命令。

距離が縮まる。

「放て!」

投槍の雨。

ゲルマン戦士の盾へ突き刺さる。

何人かが倒れる。

それでも勢いは止まらない。

彼らは投槍を投げ返すより、盾を重ねて一気に距離を詰めた。

「速い」

俺がつぶやいた瞬間。

両軍が衝突した。

◇

第十軍団は持ちこたえる。

第八軍団も、問題は第十二軍団だった。

ゲルマン戦士は投槍の雨を受けながら、ほとんど間を置かず接近した。

第十二軍団の前列は、剣へ持ち替える時間が遅れた。

盾が押し込まれる。

隊列が詰まる。

後方の兵士が前へ出ようとする。

前列が下がる。

「第十二軍団、押されています!」

伝令が叫ぶ。

「第二列を近づけろ!」

ラビエヌスの命令。

第九軍団が動く。

だが、第一列と第二列の間に十分な通路がない。

第十二軍団が予想より早く後退したため、交代の準備が整う前に接触する。

「下がれ!」

「前へ出ろ!」

命令が交錯する。

第十二軍団の兵士が後ろへ、第九軍団が前へ、二つの軍団がぶつかる。

隊列が崩れる。

「何が起きています」

俺は丘から戦況を見る。

「交代が早すぎる!」

ラビエヌスが怒鳴る。

「第十二が命令前に下がっている!」

疲労は少ない。

だが、至近距離で突進するゲルマン軍への経験が不足していた。

白い石では見えなかった。

睡眠時間でも見えなかった。

軽傷者数でも見えなかった。

恐怖は、衝突した瞬間に現れた。

第十二軍団の一部が走り始める。

「止めろ!」

百人隊長が兵士を殴る。

軍旗を守る者は踏みとどまる。

だが後方では、何が起きたか分からない兵士が、前列崩壊と判断する。

第九軍団にも動揺が広がる。

「予備を投入!」

カエサルが命じる。

「第九軍団を右へ展開!第十二の後退路を空けろ!」

命令は正しい。

しかし、現場へ届くまで時間がかかる。

その間に、ゲルマン戦士が崩れた箇所へ食い込む。

◇

「救護所へ負傷者が集中しています!」

伝令が俺を呼ぶ。

走る。

前方救護所には、すでに数十人。

盾で潰された者。

腹部刺創。

頭部外傷。

逃げる味方に踏まれた者。

敵の刃だけではない。

混乱した味方同士で負傷している。

「赤!」

「黄!」

「白は外へ!」

分類が追いつかない。

担架路にも兵士が流れ込んでいる。

俺が作った緊急搬送路を、後退する兵士が逃げ道として使っている。

「通路を空けろ!」

衛生兵が叫ぶ。

「前が崩れた!」

兵士が答える。

「戻れ!」

「死にたいのか!」

「負傷者を運べない!」

通路設計が、逆に退路を作った。

緊急時に担架が通るための道。

それは同時に、前線から後方へ最短で逃げられる道でもあった。

俺が二十八人の工兵を値切って手に入れた道である。

「柵を置け!」

「担架も通れなくなります!」

「兵士を左右へ分けろ!」

混乱の中で判断する。

搬送路を守る兵士を配置する。

だが兵力が足りない。

「外科医殿!」

クィントゥスが負傷者を抱えて来た。

「第十二の百人隊長です!」

胸部に深い傷。

呼吸困難。

赤。

「内部へ!」

クィントゥスの顔は怒りで歪んでいる。

「なぜ第十二を前へ出した」

手が止まる。

「今は治療が先です」

「お前が決めたのか!」

「カエサル様と幕僚団の決定です」

「お前が疲労の少ない軍団だと報告した!」

否定できない。

「はい」

「こいつらは、ゲルマン人を間近で見たことがなかった!」

「分かっていました」

「なら、なぜ!」

答えられない。

疲労。

睡眠。

軽傷。

士気。

数字上は適していた。

経験不足は、補えると考えた。

第一列に置けば、左右の軍団が支える。

第九軍団が第二列にいる。

崩れても交代できる。

計画上は。

「私の判断です」

俺は言った。

クィントゥスが拳を握る。

殴られると思った。

三年前、俺がこの男の脚を切り開いた時、彼は俺に「やれ」と言った。

「なら、こいつを助けろ」

それだけ言い、前線へ戻った。

◇

手術を始める。

開放性気胸。

傷を塞ぐ。

血を除く。

呼吸を確保する。

だが外から負傷者が増え続ける。

「赤が二十人を超えました!」

「手術待ちは?」

「七人!」

「ディオニュシオスは」

「腹部手術中!」

自分の判断で生まれた患者。

そう思った瞬間、手が震えた。

「ルキウス」

フィロンが言った。

「手元を見てください」

ウェソンティオへ先行隊を率いた若い医師である。

あの時、判断を誤るのが怖いと言った男が、今は俺の手を見ている。

「すみません」

「謝るのは後です」

俺が彼へ言った言葉が、そのまま返ってきた。

その通りだ。

傷を見る。

患者を見る。

出血。

呼吸。

今できる処置。

◇

戦況は、少しずつ変わり始めた。

第九軍団が側面へ展開。

退路が開く。

第十二軍団の残存部隊が再編される。

第十軍団から一部予備が回る。

ゲルマン軍の突出部を左右から挟む。

カエサルとラビエヌスが、崩壊を止めた。

完全な敗北にはならなかった。

だが損害は大きい。

夕方。

ゲルマン軍は陣地へ退いた。

決戦ではなかった。

ローマ軍の一部を崩し、こちらの弱点を確認して引いた。

戦場には死体が残った。

第十二軍団。

戦死百八十六。

重傷三百以上。

行方不明五十余り。

第九軍団も、混乱へ巻き込まれ多数の損害。

他軍団を合わせると、一日の損失はソーヌ川以来最大となった。

◇

「数字をまとめますか」

書記が尋ねた。

俺は答えられなかった。

数字を見るのが怖かった。

だが、見なければならない。

戦死。

負傷。

行方不明。

原因。

配置。

命令伝達。

退路。

搬送路。

一つずつ記録する。

「第十二軍団が崩れた原因は」

書記が尋ねる。

「複数あります」

経験不足。

敵の突撃速度。

武器持ち替えの遅れ。

第一列と第二列の間隔。

交代命令の遅れ。

搬送路の位置。

士気調査の誤り。

疲労指標への過度な依存。

「主因は?」

逃げたくなった。

一つの原因へ絞れば、説明しやすい。

敵が強かった。

百人隊長が命令を誤った。

第十二軍団が臆病だった。

だが、そのどれかだけではない。

「配置判断です」

俺は言った。

「私が、疲労の少ない第十二軍団を第一列へ推しました」

「カエサル様が決定しました」

「私の報告を使いました」

「すべて、ルキウス様の責任ですか」

「違います」

即答した。

責任を一人で背負うことも、原因を隠す。

「私の判断は大きな要因の一つです」

書記が木板へ刻む。

自分の失敗を記録する音。

「白い石が間違っていた?」

「石ではありません」

俺は答えた。

「石を答えだと思った私が間違いました」

兵士たちは嘘をついた。

だが、嘘をつかせたのは調査設計と軍団文化だった。

疲労は測れた。

だが経験、誇り、恐怖、隊列の信頼を十分に見なかった。

搬送路は負傷者を救った。

同時に逃走路になった。

制度は一方向にだけ働かない。

◇

「ルキウス」

カエサルが天幕へ入ってきた。

鎧には血と泥が付いている。

「損害は」

「暫定で戦死三百近く。重傷五百以上。増える可能性があります」

「原因は」

「私の配置提案が誤っていました」

「それだけか」

「いいえ」

「なら、すべて言え」

俺は説明した。

第十二軍団の経験不足。

第九軍団との交代設計。

通路。

命令伝達。

敵の突撃。

白い石の調査。

疲労指標。

カエサルは黙って聞いた。

「処分を受けます」

俺が言うと、彼は眉をひそめた。

「何のためだ」

「判断ミスで兵士を死なせました」

「私も配置を認めた」

「私の情報が――」

「情報を使って決めたのは私だ」

「ですが」

「お前を処刑すれば、死者が戻るか」

「戻りません」

「次の判断が良くなるか」

「私以外が判断すれば」

「逃げるな」

声が低くなった。

「自分が間違えたから、責任を捨てるのか」

胸を突かれた。

辞める。

処分される。

それは責任を取るように見えて、次の修正から逃げることでもある。

「明日までに改善案を出せ」

「明日?」

「アリオウィストゥスは、今日の成功で次も攻める」

時間はない。

「できません」

初めて口にした。

「一日では、原因を十分に――」

「十分でなくてよい」

「また間違える可能性があります」

「ある」

「兵士が死にます」

「何もしなくても死ぬ」

カエサルは俺を見る。

「今日、お前の数字は軍団を殺した」

否定できない。

「だが、お前の制度が負傷者を運び、何百人も生かしている」

救護所。

担架。

止血。

搬送路。

それも事実。

一つの仕組みが、殺しも救いもした。

「どちらだけを見るな」

カエサルは言った。

「失敗した数字を捨てるな。使い方を変えろ」

俺は木板を見た。

白。

黄。

赤。

もう、士気そのものを示す色には見えなかった。

兵士が何を答えたいか。

何を恐れているか。

何を隠すか。

組織が何を要求しているか。

それらを映す、歪んだ鏡だった。

「次は、数字だけで配置を決めません」

「当然だ」

「実戦経験、指揮官評価、部隊内の信頼、交代訓練を加えます」

「一日でできる範囲にしろ」

「はい」

「それと」

カエサルは天幕を出る前に振り返った。

「第十二軍団へ行け」

「何を話すのです」

「自分で考えろ」

◇

夜。

第十二軍団の残存兵が集まる場所へ向かった。

怒り。

悲しみ。

侮蔑。

負傷した仲間の声。

白い石を入れた兵士たち。

その多くが、戦場で恐怖した。

それは嘘だったのか。

違う。

人は、戦う前の自分を完全には知らない。

俺も同じだった。

自分の数字が人を救うと思っていた。

人を殺す可能性も知っているつもりだった。

だが、本当に死者の顔を見るまで理解していなかった。

百人隊長が俺を見る。

「何をしに来た」

「説明と謝罪です」

「謝れば戻るのか」

「戻りません」

「なら帰れ」

「帰りません」

石が飛んできた。

額へ当たる。

血が流れる。

護衛が前へ出ようとする。

俺は止めた。

「私の配置提案が、今日の損害を増やしました」

兵士たちが静まる。

「疲労が少ないという数字を重く見ました。皆さんが、敵との接近戦に慣れていないことを軽く見ました」

「俺たちが弱いと言うのか!」

「違います」

「逃げた者がいる!」

「います」

「なら弱い!」

「恐怖したことと、弱いことは同じではありません」

怒号。

罵声。

それでも続ける。

「私は、皆さんを人としてではなく、部隊の数字として見ました」

完全には正しくない。

だが彼らへ伝えるべき本質だった。

「次の戦いでは、皆さんを前へ出さないのか」

一人が聞いた。

「今の状態では出しません」

「臆病者として後ろへ置く?」

「再編と訓練が必要だからです」

「第十軍団なら戦わせる?」

「経験が違います」

また怒りが広がる。

公平ではない。

だが同じ扱いが公平とは限らない。

「戦えるようになれば、戻します」

「誰が決める」

「私だけでは決めません」

百人隊長。

兵士代表。

ラビエヌス。

医療担当。

複数の視点で判断する。

「また仕組みか」

誰かが吐き捨てた。

「はい」

「仕組みで死んだ」

「だから、仕組みを変えます」

沈黙。

許されたわけではない。

信頼が戻ったわけでもない。

それでも、石はもう飛んでこなかった。

俺はその場に立ち続けた。

額の血が顎まで垂れ、乾き始めた頃。

一人の兵士が前へ出てきた。

若い。

顔は覚えていない。

彼は水の入った革袋を突き出した。

「洗え」

それだけ言って、列へ戻っていった。


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