↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
64/83

第61話 退けない者たち

革袋は、返しそびれたままだった。

第十二軍団の若い兵士が押しつけてきたものである。

名前を聞かなかった。

聞ける空気ではなかった。

謝罪した翌朝。

俺の額には、石が当たった傷が残っている。

投げたのが誰かを探すなと、命じたのは自分である。

包帯を巻こうとしたフィロンを断った。

「傷が汚れます」

「浅い傷です」

「外科医が、そのようなことを言うのですか」

「洗いました」

「見た目の問題もあります」

「だから隠さないのです」

第十二軍団の兵士から受けた傷。

それを覆って幕僚の天幕へ戻れば、謝罪そのものまで隠すように感じた。

「罪人の印にするつもりか」

ディオニュシオスが言った。

「そこまでではありません」

「では、英雄の傷か」

「違います」

「なら治療しろ」

結局、蜂蜜を薄く塗った布を額へ貼られた。

完全に隠れてはいない。

中途半端だった。この老医師のやることは、いつも俺の逃げ道を半分だけ塞ぐ。

外へ出ると、第十二軍団の再編が始まっていた。

戦死者の位置を埋める。

負傷者を後送する。

武器を回収する。

百人隊ごとの残存人数を確認する。

朝の光の中で、軍旗の周りには、疲れ切った兵士たちが座り込んでいた。

昨日一日で、この軍団は敗北した軍団になったわけではない。戦列の一部が崩れただけである。

それでも、本人たちにとっては同じだった。

仲間が逃げた。

自分も逃げた。

前列を支えられなかった。

軍団の名誉を傷つけた。

ローマ軍において、それは死者の数より重い。俺は三年たっても、その重さの単位を持っていない。

「立て!」

百人隊長が怒鳴る。

「訓練を始める!」

兵士たちが、重い身体を起こす。

昨日の傷が塞がっていない者もいる。

「今日は休ませるべきです」

俺が言うと、百人隊長は鋭く睨んだ。

「休ませれば、恐怖を思い出す」

「疲労しています」

「疲労は寝れば取れる」

「心理的な混乱もあります」

「兵士の心を診るつもりか」

「少なくとも、昨日と同じことを繰り返さないために」

百人隊長は俺の額を見る。貼られた布と、その下の傷を。

「また数字を取るのか」

「今日は取りません」

「では何をする」

「昨日の動きを再現します」

俺は地面へ線を引いた。

槍の石突きで、乾いた土に、第一列。

第二列。

敵の突撃方向。

後退した第十二軍団。

前進しようとした第九軍団。

衝突した位置。

「兵士に、どの命令を聞いたか尋ねます」

「誰が逃げたか探す?」

「違います」

「処罰しないのか」

「故意に軍旗を捨てた者は、軍紀の判断です」

俺には決められない。決める権限がないことは、この場では利点だった。

「ですが、全員を臆病者として処罰しても、次の戦列は強くなりません」

「恐怖を罰しなければ、広がる」

「恐怖したことではなく、命令違反を判断してください」

感情と行動を分ける。

怖がること自体は止められない。

逃げる、軍旗を捨てる、仲間を押し倒す。

行動には責任がある。

「兵士を甘やかすな」

百人隊長は言った。

「甘やかしていません」

「なら、お前も列へ入れ」

「私が?」

「昨日の突撃を見たのだろう」

「丘からです」

「今日は前列で見ろ」

挑発だった。

だが、拒む理由はなかった。

「盾を貸してください」

周囲の兵士がざわめく。

「本当に入るのか」

クィントゥスが、いつの間にか後ろに立っていた。杖はもう使っていない。三年前、俺が初めて切開した脚である。

「訓練です」

「お前は剣を使えない」

「最低限は使えます」

ルキウスの身体には、青年騎士階級として受けた訓練の記憶がある。

高瀬真一としての俺には実戦経験がない。

二つの記憶はある。

だが身体が、恐怖の中で動く保証はない。

「俺の後ろに立て」

クィントゥスが言った。

「第一列へ入るのでは?」

「お前が前に立てば訓練にならん。事故になる」

否定できない。

◇

再現訓練が始まった。

一方をゲルマン軍役。

長い盾を重ね、一気に距離を詰める。

実際の突撃速度を知る兵士が先頭に立つ。昨日、その速度に潰された者たちである。

第十二軍団側は投槍を構える。

「放て!」

訓練用の軽い槍を投げる。

「剣へ!」

兵士が武器を持ち替える。

遅い。

盾を一度下げる者。

投槍を手放す場所へ迷う者。

剣が鞘へ引っかかる者。

演習場では気にならない、わずかな遅れである。だがそれが積み重なった一瞬に、昨日、二百人が死んだ。

敵役が接触する。

盾と盾がぶつかる。

衝撃。

俺はクィントゥスの後ろにいた。

それでも身体が後ろへ押される。足の裏が土を掻き、勝手に半歩下がった。自分の意思ではなかった。

これが訓練用の、殺意のない一列である。

実戦なら、敵は叫び、槍を突き、剣を振り下ろす。

「下がるな!」

百人隊長の声。

だが前列の兵士は、後ろに空間があると自然に一歩下がる。

二列目も押される。

三列目が支えられない。

「止めろ!」

俺が叫んだ。

百人隊長は不満そうだったが、訓練を止めた。

「原因は」

俺は兵士たちへ尋ねた。

誰も答えない。

盾の縁越しに、こちらを見ている目だけがある。

「失敗した者を探していません」

沈黙。

「剣を抜くのが遅い」

一人が言った。

言った瞬間、他の何人かが顔を上げた。言ってよかったのだ、と分かった顔だった。

「なぜ」

「投槍を捨てる場所がない」

「前の兵士に当たる」

「盾を持ったままでは抜きにくい」

別の兵士が続ける。

「敵が近すぎる」

「投槍をもっと早く投げれば?」

「当たらない」

「一斉投射を待つ命令だった」

現場の問題が見えてきた。

投槍の効果を最大にするため、敵を近づける。

だが接近が速い敵に対しては、武器持ち替え時間が足りない。

制度は正しい。相手が違うだけである。俺が三年、飽きるほど見てきた形の失敗だった。

「第一投射と第二投射を分けます」

俺は提案した。

「半数が早い距離で投げ、残りが近距離で投げる」

百人隊長が首を振る。

「投槍の密度が下がる」

「敵の速度を少しでも落とします」

「ローマ軍の標準と違う」

「敵が違います」

「命令が複雑になる」

その通りだった。

戦場で複雑な命令は、複雑なまま伝わらない。単純な命令が半分だけ伝わる方が、まだましである。

「前列だけ早く投げます」

後列は従来通り。

一つの簡単な変更。

「前列は投げたら、すぐ剣を抜く。後列が近距離で投げる」

「後列の槍が前列へ当たる」

「前列は盾を低くしない。投射角を上げる」

「訓練が必要だ」

「だから今行います」

再び配置。

今度は前列が早めに投げる。

敵役の一部が盾で受け、速度が落ちる。

前列は剣へ持ち替える。

後列が投げる。

完全ではない。

だが最初より時間がある。

敵役が接触。

盾列が受け止める。

「押すな!」

クィントゥスが叫ぶ。

「耐えろ!剣を振るより盾を離すな!」

俺は気づいた。

第十二軍団の兵士たちは、敵を倒そうとして盾列を崩していた。

個人で剣を振るために腕を開く。

そこへ敵の圧力が入る。

勇敢さが、そのまま穴になっている。

「最初は耐える!」

「横の兵士を信じろ!」

盾と盾を重ねる。

一人の強さではない。

隣が逃げないという信頼。

それが隊列を作る。

三度目の訓練。

四度目。

兵士たちの動きが少しずつそろう。

土埃が上がり、日が高くなり、誰かの水袋が空になる。それでも誰も止めろと言わなかった。

「昨日も、これをしていれば」

一人がつぶやいた。

聞こえた。

「その通りです」

俺は答えた。

「私が、必要性を理解していませんでした」

百人隊長が俺を見る。

「また自分の責任にするのか」

「私だけの責任ではありません」

「では誰だ」

「特定の一人ではありません」

敵の戦い方を共有できなかった。

配置変更の訓練をしなかった。

第一列と第二列の交代を実地で確認しなかった。

疲労指標を重く見た。

「原因を分けます」

「責任を分ける?」

「違います」

原因と責任は同じではない。

原因を複数に分けても、判断した者の責任は消えない。原因を数えるのは、次を減らすためだ。責任を負うのは、今を終わらせるためだ。

「次は、交代訓練です」

第九軍団の一部も呼ぶ。

第十二が後退する。

第九が前進する。

二つの流れがぶつからないよう、左右へ道を分ける。

「後退は中央ではなく、百人隊ごとに右へ」

「第九は左から入る」

地面へ目印を置く。

石を並べ、槍を刺し、目で見える形にする。言葉だけではなく、身体で覚える。

最初は混乱。

二度目は改善。

三度目には、完全ではないが交代できた。

「数字は取らないのか」

クィントゥスが尋ねた。

「時間は測ります」

「結局、測る」

「改善したか確認するためです」

「昨日と何が違う」

「時間だけで、戦えるかを決めません」

交代時間。

衝突人数。

命令の聞き違い。

記録はする。

だが、兵士の表情。

列の揺れ。

声。

隣を信じているか。

それも見る。白い石を並べただけで部隊の可否を決めた昨日の自分を、俺はまだ許していない。

◇

夕方。

第十二軍団の兵士たちは、疲れて地面へ座り込んだ。

だが昨日とは違う疲れだった。

恐怖を抱えたまま待つ疲れではない。

何をすればよいかを知るための疲れ。

「明日、戦わせるのか」

百人隊長が尋ねた。

「私には決められません」

「意見は」

俺は兵士たちを見る。

まだ一日の訓練。

傷。

喪失。

怒り。

「第一列には早いです」

百人隊長の顔が曇る。

「だが、予備としては必要です」

「慰めか」

「違います」

「予備は、戦わない兵だ」

クィントゥスが割って入る。

「馬鹿を言うな」

百人隊長を見る。

「予備がなければ、昨日のように崩れた場所を止められん」

「第十軍団が止めた」

「第十だけで、いつまでも戦えると思うか」

兵士たちが静かになる。

「前に立つ者だけが勇敢ではない」

クィントゥスは言った。

「崩れた仲間の前へ、命令一つで入る者も勇敢だ」

俺はその言葉を記録しなかった。

木板を出そうとして、やめた。

書けば、いつか誰かの役に立つ。だが今この場で必要なのは、書き留める人間ではなく、聞いている人間だった。

◇

その夜、俺は新しい木板を削らせた。

縦に、部隊名。

横に、昨日まで書く欄のなかったものを並べる。

敵と至近距離で対峙した日数。

交代訓練の回数。

前列を経験した兵士の割合。

百人隊長の在任期間。

四つ。

四つとも、昨日までは存在しなかった。

存在しなかったから、比較されなかった。

比較されなかったから、二百人が死んだ。

ついでに、士気の木片も配り方を変えさせた。

全員へ三色を一組ずつ渡し、使わない二つを別の壺へ捨てさせる。

これだけのことに、半年かかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。