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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第58話 女たちの予言

ゲルマン人の女たちは、戦いの日を決める。

最初、その話を聞いたローマ兵たちは笑った。

「女の言葉で戦えないのか」

「ゲルマン人も大したことはない」

だが、話を詳しく聞くほど単純ではなかった。

彼女たちは、月の満ち欠けを見る。

川の流れ。

鳥の動き。

捕虜の血。

戦士たちの夢。

それらから、戦うべき日を告げる。

「宗教儀式です」

ディオニュシオスが言った。

「医学とは関係ありません」

「軍事には関係します」

俺は答えた。

彼女たちの言葉を、戦士が信じる。

戦う前に敗北を予言されれば、士気が下がる。

勝利を告げられれば、死を恐れなくなる。

「ローマにも占いはある」

クィントゥスが言った。

「鶏が餌を食うかで戦いを決めた将軍もいる」

ローマ軍も、宗教儀式を無視して動くわけではない。

鳥占い。

供犠。

神々の徴。

指揮官が利用することもある。

「違いは程度です」

俺は言った。

「アリオウィストゥスが、本当に予言へ拘束されているか」

「拘束ではない」

ディオニュシオスが答える。

「王が無視して敗れれば、予言を破ったからだと言われる」

政治的拘束。

予言を信じていなくても、兵士が信じているなら従わざるを得ない。

「逆に、予言へ従えば」

「敗れても、王の責任が軽くなる」

決定の責任を神意へ移せる。

現代でも似た構造はある。

専門家の予測。

委員会。

過去の統計。

それらへ従えば、失敗時に個人責任を減らせる。

俺の木板も、いつか誰かの言い訳に使われるのかもしれない。

数字がそう言っていた、と。

◇

「女たちは、誰です」

俺は商人へ尋ねた。

「王の親族。部族の長老。神意を読む者たちです」

「一人ではない?」

「複数です」

「意見が割れた場合は」

「詳しくは分かりません」

そこが重要だった。

予言が合議で決まるなら、内部の政治がある。

王へ近い者。

各部族の代表。

戦いたい集団。

待ちたい集団。

「女たちへ接触できますか」

商人の顔が引きつる。

「無理です」

「交易を通じて」

「殺されます」

「では、周囲の者から情報を」

「誰が、どのような理由で戦いを遅らせたいかを調べてください」

ラビエヌスが俺を見る。

「予言を政治として分析するのか」

「結果として軍の行動を決めています」

「神々を侮辱すると、兵士が反発する」

「否定するつもりはありません」

信仰が真実かどうかではない。

人間の行動へどう影響するか。

「予言を利用するつもりか」

カエサルが尋ねる。

「可能なら」

「どうやって」

「敵が戦いたくない日を公にします」

「何の意味がある」

「その日に我々が挑戦すれば、出ても出なくてもアリオウィストゥスは難しい立場になります」

出なければ、臆病と見られる。

出れば、予言へ逆らう。

ただし、外部のローマ人が予言を広めれば、逆効果もある。

「ローマ人が女たちを恐れていると思われます」

ラビエヌスが言う。

「だから、直接宣伝しません」

「では」

「捕虜を返します」

捕らえたゲルマン人へ、ローマ軍が新月前に戦列を組むと伝える。

彼らが戻れば、自然に噂が広がる。

「捕虜が戻る保証は」

「交換名目にします」

「相手が受け入れるか」

「軽傷者です。返して困る戦力ではありません」

捕虜を情報伝達へ使う。

医療で治療した者を。

胸に抵抗がある。

「患者を宣伝へ使うのですか」

自分で提案しておきながら言う。

カエサルが答えた。

「治療して返すこと自体が、すでに宣伝だ」

ローヌ川の少女。

あの時も、救命は政治的に利用された。

俺は少女を救い、この男はその救命を使った。

今度は、俺が使う側から提案している。

「言いたくないことを言わせる必要はない」

俺は条件を付けた。

「聞かれたら、見たことを話すだけにします」

「十分だ」

カエサルは許可した。

◇

返還する捕虜は十二人。

全員が歩ける。

傷の処置を受け、食事も与えられている。

一人の若い戦士が俺へ尋ねた。

「なぜ返す」

通訳を介して答える。

「捕虜交換です」

「ローマ人は、何を求める」

「見たことを、そのまま話せばよい」

「何を見た」

「治療所。食料。二つの宿営地。戦列」

若者は俺を見る。

「新月前に戦うのか」

すでに知っている。

噂は早い。

「カエサル様は、毎日戦いを求めています」

「女たちは、まだ日ではないと言った」

「あなたも信じますか」

「信じる」

即答だった。

「なぜ」

「母が、同じ言葉を聞いた」

母。

女たちは、遠い宗教指導者だけではない。

戦士の母、妻、姉妹も予言を共有している。

「戦えば負けると思いますか」

「日が悪ければ」

「ローマ軍が弱くても?」

「日が悪ければ」

論理では崩せない。

「戦わなければ、食料が減ります」

「王が考える」

「補給路を攻撃している」

「それも戦いだ」

彼らにとって、予言が禁じるのは大決戦なのかもしれない。

小規模な騎兵戦は許される。

「女たちは、どのように日を決めるのです」

若者は口を閉ざした。

「話せない?」

「話す必要がない」

「複数の女が決める?」

「神々が決める」

仕組みを聞いても、信仰の答えが返る。

「傷は痛みますか」

質問を変えた。

「少し」

「帰ったら、布を毎日替えてください」

「なぜ敵を治す」

「患者だからです」

若者は何度も聞いた言葉に、納得していない顔をした。

「お前は、我々が戦わないようにしたいのか」

「できれば」

「なら王を殺せ」

「それで戦いが終わりますか」

若者は黙った。

アリオウィストゥス一人を失えば、部族連合が崩れる可能性はある。

だが復讐戦が始まるかもしれない。

「帰ってください」

捕虜たちは引き渡された。

彼らの背中を見ながら、自分の行為の境界を考える。

治療。

捕虜交換。

情報戦。

どこからが医療で、どこからが戦争なのか。

もう分けられない。

◇

翌日。

ローマ軍は新月前にもかかわらず、敵陣前へ戦列を組んだ。

カエサルは使者を送り、決戦を求めた。

アリオウィストゥスは拒否した。

「女の言葉を恐れている!」

ローマ兵が叫ぶ。

ゲルマン陣地から怒号が返る。

「効いています」

書記が言った。

「何に」

「敵の怒りに」

怒りは高まっている。

だが、戦列は出てこない。

「王は統制しています」

俺は答えた。

挑発へ乗らない。

強い。

「さらに近づきますか」

ラビエヌスが尋ねる。

カエサルは頷いた。

ローマ軍は、敵陣へ向けて少しずつ前進した。

投槍の届く距離ではない。

だが圧力は増す。

ゲルマン戦士が柵の内側で盾を打ち鳴らす。

そして、その音の上から、女性たちの声が届いた。

高く、長い。

何百人分かは分からない。

風に乗って、途切れずに続く。

「何を言っているのでしょう」

俺が尋ねる。

通訳できるガリア人が耳を澄ます。

「待て、と」

「戦うな?」

「血を流す日ではない、と」

カエサルが笑った。

「なら、明日も来る」

俺は敵陣の荷車の列を見た。

あの声の中に、昨日返した十二人の母親がいるのだろうか。

いるとして、彼女は息子が戻ったことを、どう説明されただろうか。

誰に聞けばよいのか、分からなかった。


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