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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第57話 戦わない敵

一日目。

ローマ軍は平原へ出た。

ゲルマン軍は出てこなかった。

二日目。

同じ。

三日目。

同じ。

毎朝、兵士は武装する。

盾。

剣。

投槍。

戦列を組み、敵を待つ。

陽が高くなっても、敵陣は動かない。

午後に入るとローマ軍は陣地へ戻る。

戦っていない。

だが、戦った日と同じだけ日が暮れる。

「馬鹿にされている」

兵士たちの間で声が上がり始めた。

「怖くて出られないのだ」

別の者は笑う。

「罠だ」

さらに別の者が言う。

「我々を疲れさせている」

どの説明も可能だった。

「実際、疲労は増えています」

ファビウスが報告した。

毎朝、戦闘準備。

長時間の待機。

重い装備。

直射日光。

緊張。

戦わなくても身体は消耗する。

「戦闘していないのに、負傷者が増えています」

足の水疱。

腰痛。

熱疲労。

装備を着たまま倒れる者。

「待機姿勢を変えます」

俺は提案した。

「第一列だけ完全武装。後方列は盾を地面へ置き、交代で休ませる」

ラビエヌスが反対した。

「敵が突然出れば間に合わん」

「完全武装へ戻るまで、どれくらいかかります」

「数分だ」

「敵陣からここまで、それ以上かかります」

「騎兵なら早い」

「見張りを増やします」

また、監視と即応性のバランス。

全員を常に最大警戒に置けば、戦う前に疲れる。

「二列ごとの交代にします」

第一、第二列が警戒。

第三列は休む。

時間で交代。

「兵士が寝るぞ」

「短時間なら構いません」

「戦場で寝かせるのか」

「戦場になる前です」

ラビエヌスは納得していない。

カエサルが言った。

「試せ」

◇

午後。

第三列の兵士が盾を置き、腰を下ろす。

最初は落ち着かない。

だが時間がたつと、明らかに疲労が減る。

「敵から弱く見えませんか」

百人隊長が尋ねる。

「見えるかもしれません」

「なら危険だ」

「敵が出てくれば、目的は達成されます」

カエサルが答えた。

休息そのものを挑発に使う。

「寝ているローマ兵を攻撃できると思わせる」

敵の視点。

俺は疲労軽減だけを考えていた。

カエサルは、同じ行動を敵の行動誘導にも使う。

一つの手で二つ取る癖は、この男の思考そのものらしかった。

それでもゲルマン軍は出なかった。

「徹底しています」

俺はつぶやいた。

「臆病ではない」

カエサルが言う。

「命令を守っている」

「誰の命令です」

「王か、女たちか」

◇

四日目。

敵は戦列へ出なかった。

代わりに、騎兵と軽装歩兵が補給路を攻撃した。

こちらが主力を平原へ出している間に、後方を狙う。

「戦わないのではありません」

俺は地図を見る。

「戦う場所を選んでいる」

主力決戦を避ける。

ローマ軍の食料を減らす。

疲労させる。

小規模戦闘で騎兵優位を利用する。

アリオウィストゥスは、極めて合理的に動いている。

「補給隊の被害は」

「荷車十一台。牛十七頭。戦死二十二。負傷四十余り」

小さくない。

「平原へ出る兵力を減らします」

ラビエヌスが提案する。

「敵は、それを待っている」

カエサルが答えた。

「我々が戦列を縮めれば、弱っていると見る」

「補給路が切られます」

「別の道を使う」

「遠回りです」

「護衛を増やせ」

「前線が減ります」

軍事資源は有限。

アリオウィストゥスは、こちらへ選択を迫っている。

前線か。

補給か。

休息か。

圧力か。

「敵の攻撃時間に偏りがあります」

俺は報告書を見た。

過去四回。

すべて午後。

ローマ軍が長時間平原で待機し、疲労した頃。

「偶然では」

ラビエヌスが言う。

「四回だけでは断定できません」

「なら言うな」

「ですが、仮説として使えます」

午前中は敵主力を警戒。

午後は補給路警備を強化。

「敵が時間を変えたら?」

「対応します」

「こちらの配置変更を見れば変える」

「だから固定しません」

日ごとに警備部隊を変える。

一部を隠す。

偵察騎兵を増やす。

「複雑すぎる」

ラビエヌスが言った。

「複雑な敵です」

「複雑な命令は、現場で間違える」

重要な指摘。

作戦が精巧でも、兵士が理解できなければ機能しない。

「警備強化の合図を一つにします」

午後の特定時刻。

角笛。

補給路部隊は陣形変更。

主力から予備を一部戻す。

「毎日同じなら、敵に読まれる」

「時刻を三つから選びます」

「誰が決める」

「当日の指揮官」

「指揮官ごとに変わる」

「選択肢は三つだけです」

完全な自由ではなく、限定的な裁量。

制度と現場判断の中間。

「試せ」

またカエサルが言った。

◇

五日目。

敵は出ない。

午後。

補給路警備を早めに強化した。

ゲルマン騎兵は現れなかった。

「読まれましたか」

書記が尋ねる。

「あるいは、今日は来る予定がなかっただけです」

「効果が分かりません」

「そういうこともあります」

対策をした日に何も起きない。

対策が効いたのか。

偶然か。

敵が別の理由で来なかったのか。

測れない。

だが、何も起きなかったことを成功として報告すれば、過大評価につながる。

「補給路攻撃なし。理由不明、と記録してください」

「対策成功ではなく?」

「理由不明です」

◇

六日目。

ゲルマン軍の一部が、陣地前へ出た。

ローマ軍に歓声が上がる。

ついに決戦か。

だが出てきたのは、騎兵と軽装兵のみ。

接近。

投槍。

撤退。

ローマ側が追おうとすると、さらに後方の部隊が姿を見せる。

誘っている。

「追うな!」

命令が飛ぶ。

兵士たちは不満を募らせる。

敵は目の前にいる。

戦える。

だが追撃は禁止。

「いつまで待つ!」

「ゲルマン人は臆病者だ!」

叫びが増える。

恐怖が、今度は過信へ変わり始めた。

敵が出ない。

逃げる。

なら弱い。

数日前まで、この兵士たちは遺言を書いていた。

「危険です」

俺はラビエヌスへ言った。

「兵士が敵を軽視しています」

「恐れさせるよりよい」

「振れ幅が大きすぎます」

「戦いたくないと言っていた軍団が、今は戦いたがっている」

「その感情を利用するのですか」

「兵士は戦うためにいる」

また結果。

だが、過信した部隊は命令を無視して追撃する可能性がある。

「追撃禁止の理由を説明してください」

「敵の罠だからだ」

「全兵士へ」

「百人隊長から伝える」

「どこまで伝わるか確認します」

「また調べるのか」

「命令理解です」

士気調査ではない。

兵士が何を理解しているか。

各百人隊から数人へ尋ねる。

「なぜ追撃しないのですか」

答えは割れた。

敵の伏兵。

カエサルが怖がっている。

騎兵不足。

明日の決戦まで待つ。

占いの日を待っている。

「正しい理由が共有されていません」

俺は報告した。

「百人隊長へは伝えた」

ラビエヌスが言う。

「兵士まで届いていません」

「命令は従えばよい」

「理由を知らなければ、敵が逃げた時に破る可能性があります」

軍隊では、詳細な理由を全員へ説明できない場合もある。

だが、最低限の意図を共有しなければ、現場判断が逆方向へ進む。

「敵は、追撃するローマ兵を罠へ誘っている」

短い説明を全軍へ伝える。

「退く敵を追うな。軍旗から離れるな」

具体的な行動も加える。

「これなら分かる」

クィントゥスが言った。

「最初からそう言え」

「百人隊長へは言いました」

「兵士は百人隊長の頭の中を読めん」

情報伝達も、書いたから終わりではない。

届いたか。

理解されたか。

行動へ変わったか。

そこまで確認して初めて伝達となる。

◇

七日目。

ローマ軍は再び戦列を組んだ。

敵は出なかった。

その夜、理由を調べていたガリア人商人が戻ってきた。

「ゲルマン人の女たちは、新月の前に戦えば敗れると告げています」

「全軍が従うのですか」

俺が尋ねる。

「王も、無視できないそうです」

「迷信だ」

ラビエヌスが言った。

「軍が従うなら、現実です」

俺は答えた。

「なら、その前に戦わせる」

カエサルが言った。

敵が戦いたくない日。

それは、こちらにとって最も戦わせたい日である。

天幕を出て、俺は在庫表を開いた。

新月まで、三日。

全軍の穀物、九日。

敵が待てる日数と、こちらが待てる日数の差は、六日しかなかった。


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