第56話 六百歩先の陣地
アリオウィストゥスは、ローマ軍の前へ出てこなかった。
こちらが戦列を組めば、敵も陣地から出る。
だが一定の距離を保ったまま、攻撃には移らない。
ローマ軍が退けば、ゲルマン騎兵が補給路へ近づく。
追えば引く。
止まれば回り込む。
「戦う気がないのでしょうか」
俺が尋ねると、ラビエヌスは首を振った。
「戦わずに勝つ気だ」
地図の上で、アリオウィストゥス軍はローマ軍とウェソンティオの間へ食い込んでいる。
完全な遮断ではない。
だが、輸送隊を出すたびに護衛が必要になる。
荷車の速度は落ちる。
兵士が割かれる。
食料の到着は遅れる。
一日ごとに、ローマ軍の備蓄が減っていく。
剣を一度も交えずに、こちらの数字だけが減る。
「敵の食料は?」
カエサルが尋ねた。
「周辺の村から得ています」
偵察担当者が答えた。
「略奪か、供給かは不明です」
「家族は同行している?」
俺が聞く。
「大規模な荷車陣があります。女性と子供も多いようです」
ヘルウェティイ族と似ている。
だが違いもある。
アリオウィストゥス軍は、民族全体が移動しているわけではない。
すでにガリアへ定住した部族。
新たに到着した戦士。
家族を伴う集団。
複数の状態が混在している。
「彼らも長くは動けません」
俺は言った。
「家族がいれば、食料消費は大きい」
「だからこちらの補給を先に断つ」
カエサルが答えた。
「自分たちが尽きる前に、我々を動かす」
持久戦。
どちらの食料が先に尽きるか。
だがローマ軍にはもう一つ問題がある。
戦わない日が続くほど、兵士の恐怖が戻ってくる。
敵が陣地から出ない。
何か罠があるのではないか。
占いを待っている。
増援が来る。
ローマ軍を森へ誘うつもりだ。
噂は、空白を嫌う。
事実がない場所へ、恐怖が入り込む。
◇
「こちらから陣地を近づける」
カエサルが言った。
「どこまでです」
ラビエヌスが尋ねる。
「敵陣から六百歩」
天幕内が静まった。
六百ローマ歩。
遠すぎて圧力にならず、近すぎれば攻撃される。
そして、夜になれば向こうの焚き火が数えられる距離である。
あえて危険な位置へ第二宿営地を作る。
「敵の目の前で築城するのですか」
俺は尋ねた。
「そうだ」
「工事中が最も無防備です」
「だから軍を二つに分ける」
主力の一部が戦列を組み、敵を牽制する。
残りが陣地を築く。
完成後は、二つの宿営地で敵の行動を制限する。
「新陣地へ置く兵力は」
「二個軍団と補助兵」
「医療班も分ける必要があります」
「最低限でよい」
「敵陣から六百歩です」
「だから最低限だ。大きな治療所を置けば撤収できない」
確かに、前進陣地は攻撃を受ける可能性が高い。
大規模な設備を作れば、守る対象が増える。
「前方救護所と後方治療所に分けます」
前進陣地では、止血。
気道確保。
骨折固定。
重症度分類。
短時間の救命処置。
手術と長期管理は主宿営地へ後送する。
「搬送路を二本作ります」
「一本でよい」
工兵隊のバルブスが言った。
「二本では、工事量が増える」
「一本を敵騎兵に塞がれたら、負傷者を運べません」
「兵も物資も一本で足りる」
「通常時は」
「予備路を作る余裕はない」
資源の奪い合い。
防御柵。
堀。
天幕。
食料倉庫。
水路。
便所。
すべてを短時間で作らなければならない。
「完全な道でなくて構いません」
俺は地図を指した。
「担架が通れる幅だけ、草と石を除いてください」
「車輪は通れない」
「緊急用です」
バルブスは考えた。
「工兵二十人を出す」
「四十人」
「二十五」
「三十」
「二十八」
「承知しました」
ラビエヌスが呆れた顔をする。
「お前たちは、市場で野菜を買っているのか」
「人手は有限です」
バルブスが答えた。
「外科医殿が、すぐ増やそうとするので」
「負傷者も増える可能性があります」
「増やすな」
それができれば苦労はない。
◇
翌朝。
ローマ軍は敵陣へ向けて進んだ。
前方に戦列。
その後ろに工兵と築城担当者。
さらに資材を積んだ荷車。
敵陣からは、ゲルマン戦士がこちらを見ている。
叫び声。
盾を打ち鳴らす音。
だが、出てこない。
「攻撃しないのか」
クィントゥスが不審そうに言った。
「工事を始めた瞬間に来るかもしれません」
「なら、始めなければよい」
「それでは陣地ができません」
「冗談だ」
分かりにくい。
指定地点へ到着。
俺は敵陣までの距離を、自分の足で数えてみたくなった。
やめた。
数えれば、六百歩の意味が分かるわけではない。
兵士たちは即座に作業へ入った。
測量。
堀。
土塁。
杭。
軍団の築城速度は驚異的だった。
だが、敵は動かない。
一刻。
二刻。
三刻。
ゲルマン騎兵が近づき、投槍を投げる。
ローマ側の軽装兵が追い払う。
本格攻撃ではない。
「工事を止めさせたいだけです」
ラビエヌスが言う。
「少しずつ疲れさせる」
攻撃のたびに、作業員が盾を取る。
再開する。
また警報。
中断。
工事効率が落ちる。
「警報基準を変えます」
俺は言った。
「小規模な騎兵接近では、全員の作業を止めない」
「危険だ」
百人隊長が反対する。
「護衛担当だけが対応します」
「敵がそのまま突入したら」
「角笛を二段階に分けます」
短く一度。
警戒。
長く一度。
全員武装。
今は、敵が見えるたび同じ警報を鳴らしている。
兵士はそのたび作業を中断する。
「間違えたら?」
「見張り責任者を複数にします」
「合図が遅れる」
「すべての誤警報で止まるよりよい」
試行する。
短い角笛。
護衛だけが動く。
工兵は作業を続ける。
敵騎兵は近づき、投槍を投げ、退いた。
大きな被害なし。
作業速度が上がる。
「使えます」
バルブスが言った。
「ただし、敵が学習します」
俺は答えた。
同じ小規模接近を繰り返し、こちらが警戒を弱めたところで本隊が突入する。
「見張り人数を減らさないでください」
「警報は減らすが監視は増やす?」
「そうです」
「面倒だ」
「敵も考えます」
◇
午後。
敵騎兵の接近が突然増えた。
北。
東。
南東。
複数方向。
「陽動です」
俺が言った直後。
東側から、大きな角笛が鳴った。
長く一度。
全員武装。
工兵が道具を捨て、盾を取る。
ゲルマン騎兵と歩兵の混成部隊が突撃してきた。
「やはり来たか」
クィントゥスが剣を抜く。
ローマ軍の戦列が前へ出る。
敵は深く踏み込まなかった。
投槍を投げ、数人を倒し、すぐに退く。
追撃を誘っている。
「追うな!」
ラビエヌスの命令。
第十軍団は踏みとどまった。
負傷者が運ばれる。
「赤二!黄六!」
前方救護所が動く。
止血。
分類。
後送。
新しく作った担架道が、初めて使われる。
荷車用道路では、工事資材と兵士が混雑していた。
予備路がなければ、搬送が遅れていた。
「二十八人分の価値はありました」
俺が言うと、バルブスは不満そうに答えた。
「まだ一日だ」
俺と同じことを言うようになった。
◇
日没前。
第二宿営地の防御線が完成した。
完全ではない。
だが夜を越せる。
敵陣まで六百歩。
夜になると、向こうの焚き火が一つずつ数えられた。
七十四。
そこで数えるのをやめた。
数えたところで、火の数は戦士の数ではない。
二つの軍が、互いの息づかいを感じながら眠る。
「明日は戦いますか」
俺がカエサルへ尋ねる。
「こちらは求める」
「敵は?」
アリオウィストゥスの陣地では、戦士たちが歌っている。
低く、繰り返しの多い旋律だった。
「まだ出てこないかもしれん」
カエサルは答えた。
「なぜ」
「何かを待っている」
「増援?」
「違う」
カエサルは敵陣の奥を見た。
そこには、大きな荷車陣と無数の天幕がある。
「彼らの女たちが、まだ戦う日ではないと言っているらしい」
占い。
予言。
戦う日を決める女たち。
俺はそれを迷信と切り捨てかけた。
切り捨てなかったのは、数万の戦士がそれに従っているからだった。
信じるかどうかは関係ない。
従うなら、それは軍事的要因である。




