第55話 測れない者たち
アリオウィストゥス軍は、ローマ軍の東側を回り込むように移動した。
正面から攻撃するのではない。
補給路を断とうとしている。
「ウェソンティオとの街道が危険です」
偵察担当者が地図を指した。
「敵がここへ陣を置けば、穀物輸送が止まります」
アリオウィストゥスも兵站を見ている。
ローマ軍が何を必要としているか理解している。
「野蛮な王ではありません」
俺が言うと、ラビエヌスは不快そうに答えた。
「誰も無能とは言っていない」
「兵士の間では、力だけの怪物として語られています」
「恐怖を減らすには、その方がよいのではなかったか」
「怪物ではなく、人間だと説明しました」
「人間なら、賢くないとでも?」
兵士へ伝えた情報が、単純すぎたかもしれない。
敵も傷つく。
飢える。
死ぬ。
それは正しい。
だが、敵にも判断力がある。
戦略がある。
学習する。
俺は恐怖を薄めるために、敵を小さくして見せた。
小さくして見せたものは、いつか実物より小さいまま兵士の頭に残る。
◇
「士気調査を行います」
俺が言うと、ラビエヌスは眉をひそめた。
「また木片か」
「敵が補給路へ回ったことで、不安が増える可能性があります」
「増えていたら、どうする」
「原因を確認します」
「確認している間に、街道が切られる」
「対策は軍事行動です」
「なら、調査は不要ではないか」
鋭い。
士気が下がっていても、補給路を守ること自体は変わらない。
「部隊配置や説明方法に使います」
「士気が低い部隊を後方へ置けば、他軍団が不満を持つ」
「高い部隊だけを危険へ出せば、疲弊します」
「結局、何を変える」
答えがすぐに出ない。
測ることが目的になり始めている。
数値があれば安心する。
問題を把握していると感じられる。
だが、測定結果を意思決定へ使えないなら、兵士の時間を奪うだけだ。
「今回は、全軍調査を行いません」
俺は言った。
「補給路警備へ出る部隊だけ確認します」
「何を」
「任務理解。必要物資。交代予定。敵騎兵への不安」
「士気ではなく、準備状況か」
「はい」
恐怖という感情を直接聞くより、行動に必要な条件を見る。
「少しはましになったな」
ラビエヌスが言った。
「以前は悪かったように聞こえます」
「悪い」
即答された。
◇
補給路警備へ選ばれたのは、第八軍団の一部だった。
第十軍団ほどの戦歴はない。
だが規律は良い。
兵士たちへ聞き取りを行う。
任務を理解しているか。
交代はいつか。
食料は何日分か。
敵が来た場合の退路。
負傷者の搬送場所。
「交代時刻を知りません」
複数の兵士が答えた。
「百人隊長は?」
「敵の動き次第だと」
交代が不明。
終わりの見えない任務は、疲労と不安を増やす。
「最長時刻を決めます」
「敵が来ても交代するのか」
「戦闘中は別です。ただし通常時は、日没前に交代」
「次の部隊が遅れたら?」
「一刻待ち、それ以上なら伝令を出す」
不確実性を完全には消せない。
だが、基準を示せる。
「食料は?」
「三日分」
「任務予定は二日です」
「なぜ一日多い」
「遅れに備えるため」
適切。
「水は」
「現地の小川から」
「上流を確認しましたか」
誰も答えない。
補給路を守る部隊が、水で病気になれば意味がない。
衛生担当者を一人追加する。
「敵騎兵への不安は」
俺が尋ねると、兵士の一人が言った。
「不安がないと言えば、前へ出されますか」
質問自体が行動を変える。
正直に不安を話せば、弱い部隊と判断されるかもしれない。
「配置を変えるためではありません」
「信じろと?」
匿名調査でも、兵士は意図を読む。
誰が何のために聞いているか。
完全に中立な測定などない。
「では、聞き方を変えます」
俺は言った。
「敵騎兵が来た時、何が足りないと思いますか」
「騎兵です」
笑いが起きる。
「他には」
「杭」
「弓兵」
「退路」
「角笛」
「馬除けの溝」
恐怖を数えるより、必要な対策を引き出す。
具体的な答えが出る。
「杭と簡易障害物を用意します」
「工兵が必要です」
「各百人隊から経験者を選びます」
「また仕事が増える」
「騎兵に踏まれるよりよい」
兵士たちが笑う。
この方法の方が、現場には受け入れられた。
◇
その夜。
俺は以前の士気記録と、今回の聞き取りを比較した。
白。
黄。
赤。
三色の数字。
美しいほど整理されている。
だが、兵士が何を守りたいか。
なぜ逃げたいか。
何を恥じているか。
どの指揮官を信じているか。
そこまでは分からない。
第十軍団は白が多い。
しかし、カエサルから特別扱いされることで他軍団との対立が生まれている。
赤が減った軍団でも、恐怖が誇りや怒りへ形を変えただけかもしれない。
行動できる。
それを健康と呼んでよいのか。
「難しい顔をしていますね」
ディオニュシオスが天幕へ入ってきた。
「士気の数字を見ています」
「兵士の心を三色に分けた板か」
「簡略化しすぎたかもしれません」
「今さら気づいたのか」
「効果はありました」
「演説の前後で色が変わった?」
「はい」
「なら、演説の時だけ白い石を入れたくなった可能性は?」
手が止まった。
カエサルの演説後。
軍団の誇りが刺激された。
赤を入れること自体が恥と感じられたかもしれない。
匿名でも、自分自身へ嘘をつくことはある。
「兵士は、本当は怖くても白を選んだ可能性があります」
「医師へ元気だと言う患者は多い」
ディオニュシオスが言った。
「なぜです」
「弱いと思われたくない。治療が怖い。仕事へ戻りたい。家族を心配させたくない」
患者の自己申告も、目的によって変わる。
「では、質問には意味がない?」
「意味はある」
「なぜ」
「答えた内容だけでなく、答え方を見る」
沈黙。
目線。
声。
周囲の反応。
「木片には残りません」
「なら人間が見ろ」
簡単な言葉だった。
俺は数字へ変換することに集中しすぎていた。
「全軍を直接見ることはできません」
「だから医師や百人隊長がいる」
「報告者の主観が入ります」
「人間を見るのだから、入る」
「比較できません」
「比較できないものもある」
ナンメイウス。
ディウィキアクス。
ディウィコ。
何度も言われてきた。
数字で分かることと、分からないことがある。
俺は知っているつもりだった。
だが、数字が役立つたびに、測れないものまで測れると思い始めていた。
「ルキウス」
ディオニュシオスが言った。
「お前は、患者を見ずに記録だけで手術するか」
「しません」
「なら軍団も見ろ」
「軍団全員は見られません」
「全員を見る必要はない。自分が見られないことを忘れるな」
その言葉を、木板へ書こうとした。
途中で手を止めた。
これさえ記録へ変えようとしている。
ディオニュシオスが笑った。
「重症だな」
「治療法は?」
「一日、木板を置け」
「無理です」
「なら治らん」
◇
翌朝。
アリオウィストゥス軍がローマ軍の補給路近くへ陣を置いた。
小規模な騎兵攻撃が始まる。
第八軍団は、準備した杭と溝で最初の突撃を止めた。
角笛。
弓。
投槍。
敵騎兵は深追いせず退く。
被害は軽い。
「準備が役立ちました」
書記が報告した。
「はい」
「士気調査のおかげですか」
「違います」
俺は答えた。
「兵士に、何が必要か聞いたからです」
「同じでは?」
「士気を測るのではなく、行動を支える条件を探しました」
数字は必要。
だが、数字にできない言葉も必要。
「今後、士気の木片は使わないのですか」
「使います」
「使うのですね」
「一つの警報として」
答えではない。
診断でもない。
異常の可能性を示すだけ。
「百人隊長と衛生兵の観察報告も加えます」
「主観的です」
「それも残します」
客観的な数字と、主観的な観察。
どちらか一方では足りない。
◇
午後。
カエサルへ補給路防衛の報告を行った。
「被害は?」
「戦死三。重傷八。軽傷二十一」
「敵は」
「確認できた死者は五。推定はしません」
「珍しいな」
「見えない範囲が多すぎます」
「士気は?」
質問され、少し考えた。
以前なら白、黄、赤の割合を答えた。
「不安はあります」
俺は言った。
「しかし任務を理解し、必要な準備があり、交代予定も分かっています。現時点では戦えます」
「数字は?」
「補助的にはあります」
「言わないのか」
「数字だけでは誤解します」
カエサルが俺を見る。
「数字の男が、数字を疑い始めたか」
「以前から疑っています」
「以前より強く、だろう」
否定できない。
「よいことか、悪いことか」
「まだ分かりません」
「では、戦場で確かめろ」
カエサルは地図上の平原を指した。
「アリオウィストゥスは、毎日少しずつ我々の補給路へ近づいている」
「決戦を避けながら、飢えさせるつもりです」
「こちらから戦いを求める」
「敵が応じますか」
「応じさせる」
カエサルは軍団配置を変え始めた。
二つの宿営地。
前進陣地。
敵の目の前での築城。
アリオウィストゥスが無視できない位置へ出る。
「負傷者受け入れを準備します」
俺は言った。
「数字は?」
「患者数の推定は出します」
「士気は?」
一瞬、迷う。
「兵士を見ます」
カエサルは小さく笑った。
「ようやく医師らしくなったな」
◇
その夜。
俺は木板を天幕の外へ置いた。
ディオニュシオスに言われた通り、一日だけ。
置いてから、宿営地を歩いた。
炊事の煙。
低い話し声。
誰かが盾の縁を磨いている。
第八軍団の区画で足を止めた。
明日、補給路へ出る部隊である。
顔を見ろ、と言われた。
見た。
三十人ほどの兵士が、火を囲んでいる。
笑っている者。
黙っている者。
食べていない者。
分かったことがある。
俺は、この兵士たちの名前を一人も知らない。
天幕へ戻り、木板を拾い上げた。
半刻ももたなかった。




