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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第53話 馬に乗る第十軍団

第十軍団の兵士たちは、突然馬へ乗せられることになった。

「これは騎兵への昇進ですか」

一人の兵士が尋ねた。

「違う」

百人隊長が答える。

「では、なぜ馬を」

「総督閣下が、お前たち以外を信用していないからだ」

歓声が上がった。

ウェソンティオへ来る前、カエサルは第十軍団だけを連れて進むと宣言した。

あの一言で植えつけられた誇りが、まだ燃えている。

その火を、会談護衛へ使う。

「乗馬経験者は?」

俺が尋ねると、千人近い兵士のうち、手を挙げたのは二割ほどだった。

農村出身でも、馬を持てる者は限られる。

騎兵は裕福な階級や騎馬文化を持つ部族が中心である。

「全員を一度に乗せるのは危険です」

「必要なのは一個部隊だ」

ラビエヌスが言った。

「会談へ連れていく人数は制限されている」

「何人です」

「千人程度」

「ほぼ全員ではありませんか」

「名誉だろう」

「骨折者が増えます」

「敵に襲われるよりましだ」

乗馬による負傷。

落馬。

馬に踏まれる。

肩や手首の骨折。

頭部外傷。

医療上は予測できる。

「訓練を三段階にします」

第一。

止まった馬へ乗り降りする。

第二。

歩かせる。

第三。

隊列で移動する。

「速歩や駆歩は?」

「行いません」

騎兵指揮官が笑った。

「それでは行軍に間に合わん」

「会談場所は近い」

「敵が襲えば逃げられない」

「戦う時は馬から降ります」

ローマ軍団兵は歩兵として強い。

馬上で不慣れな戦闘をさせる必要はない。

馬は輸送手段。

「槍は?」

「通常装備を持たせます。ただし盾は馬上で扱いにくい」

「小型盾を貸す」

「下馬後は不足します」

装備の変更は、戦い方全体へ影響する。

「通常の盾は荷車で会談地点近くまで運びます」

「荷車を連れていけば、騎兵のみという条件へ反する」

「予備装備を途中に置きます」

会談地点から一定距離離れた場所。

緊急時に下馬して取りに戻る。

「時間がかかる」

「完全な対応はできません」

また、限界を受け入れる。

◇

訓練初日。

予想通り、落馬者が続出した。

「脚を離せ!」

「手綱を強く引くな!」

「馬の後ろへ立つな!」

怒鳴り声。

馬のいななき。

兵士の悲鳴。

午前だけで負傷者二十七人。

手首骨折二。

肩関節脱臼三。

打撲多数。

一人は頭部を打ち、意識が混濁していた。

「中止すべきです」

俺はラビエヌスへ言った。

「明日が会談だ」

「この速度では、会談前に護衛が減ります」

「負傷者を除外しろ」

「原因を変えなければ、さらに出ます」

訓練を観察する。

馬の選定が悪い。

気性の荒い軍馬へ初心者を乗せている。

鐙は、この時代の西方では使われていない。

足を掛ける場所がないまま、腿の力だけで身体を支えることになる。

鞍も騎兵用で、慣れない兵士には安定しにくい。

さらに、指導者が騎兵であるため、初心者の恐怖を理解していない。

「穏やかな荷馬と輸送馬を使います」

騎兵指揮官が反発した。

「戦場へ荷馬で行くのか」

「馬上戦闘はしません」

「見栄えが悪い」

「護衛は見世物ではありません」

「アリオウィストゥスに弱く見られる」

政治的な問題。

屈強な軍馬に乗るローマ兵。

荷物を運ぶ穏やかな馬。

印象は違う。

「前列だけ軍馬。後列は穏やかな馬にします」

「前列の兵士は」

「乗馬経験者」

見せる部分と、安全を優先する部分を分ける。

「訓練時間も短くします」

「増やすのではなく?」

「疲れるほど落馬が増えています」

記録では、訓練開始直後より、二刻を超えた後の負傷が多い。

集中力と筋力が落ちるからだ。

「一回を短くし、休憩後に繰り返す」

「時間が足りない」

「同じ時間内で二組に分けます」

一組が訓練中、もう一組は乗降動作を地上で練習。

馬の数も限られている。

「指導者を増やします」

乗馬経験のある軍団兵を、十人ごとの指導役へする。

騎兵一人が百人を怒鳴るより、近くで教える方がよい。

午後。

落馬者は八人まで減った。

「数字が減りました」

若い衛生兵が喜ぶ。

「まだ一日です」

「いつもそれですね」

「明日、会談です。再現確認する時間はありません」

「なら成功としてよいのでは」

「暫定的に」

完全な証明を待てない。

それでも実行する。

◇

夕方。

カエサルが訓練を見に来た。

不慣れな兵士たちが、ぎこちなく馬上で隊列を作っている。

「第十軍団が騎兵になったな」

彼が言うと、兵士たちから笑いが起きた。

「総督閣下!」

一人が叫ぶ。

「馬から降りれば、いつでも戦えます!」

「乗ったまま戦えるようになれ」

歓声が上がる。

俺は小声で言った。

「今、そのような目標を追加しないでください」

「士気が上がる」

「実際に試す者が出ます」

「百人隊長が止める」

「止め切れません」

案の定、数人が馬上で剣を抜こうとした。

一人が姿勢を崩す。

「剣を抜くな!」

怒鳴り声が飛ぶ。

カエサルは楽しそうに見ている。

「不満か」

「負傷者が増えます」

「兵士は喜んでいる」

「喜びと安全は別です」

「安全だけを求めれば、兵士ではなくなる」

「無駄な危険を減らしています」

「無駄かどうかは、結果で決まる」

カエサルは馬上の兵士たちを見た。

「この護衛が、アリオウィストゥスに私の自信を示す」

「自信のために骨折者が出ています」

「骨折者は治せ」

簡単に言う。

俺は言い返そうとした。

だが止まった。

この護衛は、実際にカエサルの命を守る。

同盟騎兵の裏切りを避ける。

敵へ精鋭部隊を見せる。

第十軍団の誇りを高める。

複数の効果がある。

負傷者二十七人。

その費用と比較する。

比較しようとしている自分に、一瞬遅れて気づいた。

「次回から、事前訓練期間を設けます」

「次もあると思うのか」

「今回成功すれば、使いたくなるでしょう」

カエサルが笑った。

「お前は、私を少し理解してきたな」

理解したいのか。

利用され方を予測しているだけか。

◇

夜。

第十軍団の士気調査を行った。

白が圧倒的に多い。

馬へ乗ることへの不安はある。

だが、カエサルから選ばれたという誇りが上回っている。

「士気は高いです」

書記が言った。

「他軍団は?」

「不満が増えています」

予想通りだった。

なぜ第十軍団だけが選ばれる。

自分たちは信用されていないのか。

特別扱いは、選ばれた集団を強くする。

同時に、選ばれなかった集団へ亀裂を作る。

「全軍へ説明しますか」

「何と」

「乗馬経験のある兵士が多かった、と」

「嘘です」

「では、精鋭だから?」

「さらに不満が増えます」

「総督閣下の安全のため?」

「なぜ自分たちでは駄目なのかと聞かれます」

どの説明にも問題がある。

「今回は、説明しません」

「隠すのですか」

「見れば分かることです」

「なら噂になります」

「はい」

沈黙。

士気を測れば、問題は見える。

だが見えた問題すべてに対策できるわけではない。

下手に説明すれば悪化することもある。

「他軍団には別の重要任務を与えるよう提案します」

城壁警備。

補給路確保。

偵察。

それぞれの役割に意味を与える。

全員を特別にすることはできない。

だが、自分の任務が必要だと感じさせることはできる。

「人間の感情は面倒ですね」

書記が言った。

「はい」

「数字より?」

「はるかに」

◇

翌朝。

カエサルは第十軍団の即席騎兵を率い、アリオウィストゥスとの会談へ向かった。

俺も医療班とともに同行した。

出発の直前、クィントゥスが俺の馬の腹帯を締め直した。

「緩んでいた」

「気づきませんでした」

「気づけ」

彼は手綱を俺の手へ押し込んだ。

「お前も落ちるなよ」


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