第52話 軍団が町を食べる
市場から穀物が消えた。
ウェソンティオへ入って、二日である。
軍団が買い占めたわけではない。
少なくとも、公式には。
だが兵士。
随行商人。
奴隷。
御者。
職人。
数万人が一斉に町へ入った。
誰もが食料を求める。
葡萄酒を求める。
肉を求める。
布や靴を求める。
需要が急増し、商人は商品を倉庫へ隠した。
明日には、さらに高く売れると考えたからである。
「価格上昇を禁じますか」
補給担当者が尋ねた。
「禁止すれば、商品が市場へ出なくなります」
俺は答えた。
父との議論で学んだ。
価格を抑えるだけでは供給が消える。
「では自由に上げさせる?」
「兵士が買えなくなります」
「軍用分は契約価格で確保しています」
「住民用が不足します」
軍団の食料だけ確保しても、町の住民が飢えれば暴動が起きる。
さらに住民が病気になれば、軍団にも広がる。
「市場を三つに分けます」
俺は提案した。
軍用。
住民用。
自由取引。
「軍用は、事前契約と徴発分。住民用には、一家庭当たりの上限を設けます」
「自由取引は?」
「残りを高値でも売れる市場にする」
「同じ穀物が、違う価格になる」
「目的が違います」
最低限の生活保障。
軍事供給。
利益による追加供給。
三つを混ぜれば、どれも機能しない。
「住民が軍用価格で買おうとします」
「登録します」
「兵士が住民の名で買います」
「起きるでしょう」
「なら」
「監視と罰則です。ただし完全には止められません」
補給担当者がため息をついた。
「最初から穴がある制度を作るのですか」
「穴のない制度を待っていたら、明日には市場が空になります」
◇
カエサルへ提出すると、彼は最初の一文を読んだだけで尋ねた。
「誰が三つの市場を管理する」
「町の商人組合、ローマ軍補給担当、住民代表です」
「住民代表は誰が選ぶ」
「町側に選ばせます」
「反ローマの男が入る」
「入る可能性があります」
「なぜ認める」
「不満を持つ者を外へ置けば、見えない場所で妨害します」
管理組織の中へ入れ、発言と責任を与える。
それでも敵意が消えるわけではない。
「人質は?」
「取りません」
「保証は」
「帳簿と相互監視です」
カエサルは俺を見る。
「木板で裏切りを止める?」
「裏切りを完全には止められません。異常を早く見つけます」
「また警報か」
「はい」
軍団の疾病記録と同じ。
すべてを防ぐのではなく、早期発見する。
「試せ」
許可は簡単に出た。
「ただし、軍の配給を遅らせるな」
軍事が最優先。
その範囲内で民政を行う。
◇
住民代表として選ばれたのは、マトゥゲヌスという中年の商人だった。
ローマ語を話せる。
市場に複数の倉庫を持つ。
町の有力者である。
「ローマ軍が来る前は、穀物価格は安定していた」
彼は開口一番、不満を述べた。
「軍団が町を食べている」
「代金は払っています」
「金を食べることはできない」
正しい。
穀物を売れば金は得られる。
だが次の穀物が入らなければ、金があっても買えない。
「周辺農村から追加供給を呼びます」
「農民は軍団を恐れて、荷車を出さない」
「安全を保証します」
「誰がローマ兵から守る」
「ローマ軍が」
マトゥゲヌスが笑った。
「狼に、羊を守らせるのか」
「略奪した兵士は処罰します」
「全員を見張れる?」
「できません」
正直に答える。
「だから、被害報告所を作ります」
「報告すれば、穀物が戻る?」
「確認できれば補償します」
「誰の金で」
「軍の予算です」
まだカエサルの正式許可はない。
後で交渉する必要がある。
「虚偽報告が増える」
マトゥゲヌスが言った。
「あなたも確認してください」
「私をローマの役人にする?」
「町の代表です」
「協力者と呼ばれ、ローマが去った後に殺されるかもしれない」
その危険を考えていなかった。
占領軍へ協力した者。
住民から裏切り者と見られる可能性がある。
俺は制度の穴を数えていた。
穴に落ちるのが人間だということを、また忘れていた。
「代表者を一人にしません」
「三人?」
「商人、職人、農民から一人ずつ」
ヘルウェティイ族の村で使ったのと同じ仕組みである。
権限分散。
ただし責任も曖昧になる。
「ローマ軍が去った後、記録を公開します」
俺は言った。
「誰が何を決めたか残す」
「記録が身を守る?」
「少なくとも、個人で勝手に決めたのではないと示せます」
「文字を読めない者は?」
「公開の場で読み上げます」
マトゥゲヌスは俺を観察した。
「あなたは、ローマ人にしては奇妙だ」
「よく言われます」
「町を支配したいのか、助けたいのか分からない」
「両方ではありません」
言ってから止まる。
本当にそうか。
ローマ軍が安全に駐留するため、町の市場を整える。
住民を助けることは、軍団の利益にもなる。
「助けることが、結果的に支配を安定させます」
俺は言い直した。
「それを支配と言う」
マトゥゲヌスの答えは厳しかった。
◇
三市場制度を始めた初日。
軍用市場は動いた。
住民用市場には長い列ができた。
自由市場では価格がさらに上がった。
問題は、すぐに起きた。
住民用穀物が、自由市場へ横流しされている。
「印の付いた袋です」
書記が報告した。
袋には住民用を示す印がある。
「誰が売った」
「登録された住民が買い、商人へ高値で戻しています」
「なぜ」
「一日分を売れば、三日分の金になるからです」
食料を今食べるより、金へ変える。
合理的に見える。
だが翌日には食べ物がなくなる。
「再販売を禁止します」
補給担当者が言った。
「隠れて売ります」
「罰を重くする」
「さらに隠れます」
「なら、どうする」
住民用穀物を現物ではなく、調理した粥やパンで渡す。
再販売しにくくなる。
「共同炊事場を作ります」
「人手が必要です」
「町の料理人と、軍団の炊事兵を使います」
「薪は」
「必要量を出します」
また物資が増える。
しかし袋で渡すより、不正転売は減る。
「自由を奪うと反発されます」
書記が言った。
「家で好きに調理できません」
「希望者は袋で受け取れるようにします。ただし再販売が確認された家庭は、調理済み配給へ切り替える」
行動に応じて制約を変える。
「貧しい者ほど監視される制度になります」
その指摘に、手が止まった。
裕福な者は自由市場で買える。
貧しい者は住民用市場へ並び、行動を記録され、再販売すれば調理済み配給へ制限される。
支援を受ける者ほど自由を失う。
ヘルウェティイ族の穀物契約で、父と争ったのと同じ形だった。
支援という名の鎖。
場所が変わっただけで、俺はまた同じものを作りかけている。
「全住民を対象に、一定量の低価格購入権を与えます」
「裕福な者にも?」
「はい」
「費用が増えます」
「貧困者だけを選別すると、監視と烙印が強くなります」
普遍的な最低保障。
追加分は市場価格。
現代的な考えだが、この時代でも理屈は通る。
「カエサル様が認めますか」
「交渉します」
◇
カエサルは案を聞き、最初に費用を尋ねた。
予想通りだった。
「軍団駐留一日当たり、住民用価格補填としてこの程度です」
木板を示す。
「高い」
「暴動が起きた場合の警備費と比べれば安い」
「暴動が起きると決まっている?」
「市場価格は二日で二倍です」
「三倍になれば?」
「略奪、窃盗、暴力が増える可能性があります」
「可能性」
「市場での争いはすでに昨日の三倍です」
確認できる数字を出す。
カエサルは少し考えた。
「五日間だけ認める」
「短すぎます」
「軍団が滞在する期間も長くない」
「アリオウィストゥスとの戦況次第です」
「だから五日ごとに見直せ」
恒久制度にしない。
試行。
効果測定。
「承知しました」
「ルキウス」
「はい」
「軍団は町を食べる」
マトゥゲヌスと同じ言葉だった。
「だから長く留まれば、味方の町も敵になる」
カエサルは理解している。
「早く出るために、アリオウィストゥスと会う」
「会談を受け入れたのですか」
「条件付きでな」
「どのような条件です」
「双方、騎兵のみを連れて会う」
ローマ側に問題があった。
カエサルの騎兵の多くは、ガリア同盟部族から出されている。
その中には、ドゥムノリクスの影響下にある者もいる。
「信用できますか」
俺が尋ねると、カエサルは笑った。
「だから、第十軍団の兵士を馬へ乗せる」
歩兵を騎兵にする。
「乗馬訓練は」
「今日からだ」
「一日で騎兵にはなれません」
「馬上で戦わせるのではない。会談場所まで運ぶだけだ」
目的を限定する。
完璧な騎兵を作る必要はない。
「落馬者が増えます」
「医療班を付けろ」
◇
天幕を出ると、住民用市場の列がまだ続いていた。
日が暮れても、短くならない。
俺が作った制度の前に、人が並んでいる。
並ばずに済む者は、この町を出ていける者だけだった。




