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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第51話 ウェソンティオを先に取れ

ウェソンティオは、天然の要塞だった。

大きく蛇行するドゥビス川が、町をほとんど円形に取り囲んでいる。

陸続きとなる狭い場所には高い丘があり、その上へ城壁が築かれていた。

川。

丘。

城壁。

三つの防御が重なる。

地図で見た時は、ただの輪だった。

実際に立つと、その輪の内側にどれだけの物が入るかが分かる。

「ここをアリオウィストゥスに取られれば、厄介です」

俺は地図と実際の地形を見比べた。

「厄介どころではない」

工兵隊指揮官バルブスが答える。

「北と東へ向かう街道を押さえられる。倉庫も市場もある。攻め落とすには長い包囲が必要だ」

兵士だけではない。

穀物。

塩。

鉄。

皮革。

馬。

荷車。

軍団が必要とする物資が集まる場所である。

アリオウィストゥスが先に入れば、ゲルマン軍は補給拠点を得る。

カエサルが先に入れば、ローマ軍が得る。

町そのものが、巨大な兵站設備だった。

「敵との距離は」

カエサルが偵察騎兵へ尋ねた。

「最短で二日。こちらの進軍速度なら、明日の夕刻に到着できます」

「敵が急げば?」

「同じ頃になる可能性があります」

競争である。

戦場で戦う前に、都市をどちらが先に取るか。

「軽装部隊を先行させる」

カエサルが命じた。

「第十軍団から選抜。騎兵と工兵を付ける」

「医療班は?」

俺が尋ねる。

「後続だ」

「先行隊が戦闘になれば、救護がありません」

「速度が落ちる」

「最低限の衛生兵と担架班を付けます」

「何人だ」

「衛生兵二十。担架班四十。医師一人」

ラビエヌスが首を振る。

「多い。先行隊は戦うためではなく、門を確保するためだ」

「敵の先遣隊と接触する可能性があります」

「なら、負傷者を本隊へ戻せ」

「距離が開けば、搬送中に死亡します」

「十人ずつだ」

カエサルが決めた。

「衛生兵十。担架担当二十。医師一人」

「手術器具は」

「必要最小限」

「何を最小限とするかは、こちらで決めます」

「好きにしろ。ただし荷車は一台だけだ」

荷車一台。

医療器具。

水。

布。

薬草。

担架。

患者が出れば、その荷車へ乗せる。

物資と搬送を一台で兼ねる必要がある。

「患者が三人以上出れば足りません」

「出ないように門を取れ」

カエサルは簡単に言った。

戦闘を避けることが最良の医療。

それは正しい。

だが、避けられない場合へ備えるのが俺の仕事である。

◇

「医師は誰を出す」

ディオニュシオスが尋ねた。

「あなたは本隊に残ってください」

「お前が行くのか」

「私は全軍の医療を見る必要があります」

口にすると、以前ほど抵抗はなかった。

自分が先頭へ行かなくてもよい。

任せる。

「若い医師のフィロンを出します」

「経験が足りない」

「だから衛生兵と明確な手順を付けます」

フィロンは二十代のギリシャ人医師だった。

父はマッシリアの医者で、母はこの土地の女だという。

傷の洗浄や縫合はできる。

だが大規模な戦闘経験はない。

「不安ですか」

俺が尋ねると、彼は正直に頷いた。

「はい」

「何が最も怖い」

「判断を誤ることです」

「全員が怖いことです」

「ルキウス様なら、すぐ決められるのでしょう」

「そう見えるだけです」

俺は小さな木板を渡した。

出血。

呼吸。

意識。

歩行。

四項目だけ。

「複雑な分類は不要です」

「腹部の傷は?」

「搬送。止血できない出血は圧迫。胸の開いた傷は湿らせた布。骨折は固定」

「手術は」

「救命のために必要で、移動できない場合だけです」

「判断できなければ?」

「生かしたまま本隊へ戻すことを優先してください」

「途中で死んだら」

「記録してください」

フィロンの顔が曇る。

「死なせた責任を、記録で消すのですか」

街道で、脚を失った少年の母親から言われた言葉に似ていた。

最善という言葉は、助からなかった時の逃げではないか。

「消しません」

俺は答えた。

「次に同じ死を減らすためです」

「今回の患者は戻りません」

「はい」

記録は死者を救わない。

未来の誰かを救うだけだ。

それでも、残すしかない。

「フィロン」

ディオニュシオスが言った。

「傷を見て、分からなければ触りすぎるな」

「何もしないのですか」

「分からない者が刃を入れるよりよい」

古い医師の経験から出た言葉だった。

「ただし出血は止めろ」

「はい」

「水で洗え」

「はい」

「そして生きて戻れ」

フィロンが深く頷いた。

◇

先行隊は夜明け前に出発した。

盾と武器以外の荷物を減らし、速い速度で進む。

本隊もその後を追う。

通常の行軍より休憩を短くする。

食事も歩きながら取る者がいる。

「脱落者が増えています」

ファビウスが報告した。

「何人」

「午前だけで四十三人」

足の水疱。

筋肉痛。

熱中症に近い状態。

下痢。

恐怖が減っても、身体が行軍へ耐えられるとは限らない。

「白分類の軽症者は、後方隊列へ移します」

「荷車へ?」

「乗せません。速度を落とした集団で歩かせます」

「本隊から離れます」

「護衛を付けます」

「また兵力が減ります」

急行軍では、最も遅い者へ全軍を合わせることはできない。

置いていく者を作る必要がある。

「一時後送隊を編成します」

歩けるが速く歩けない者。

重症ではない。

戦闘には遅れる。

「何人になれば一隊としますか」

「五十人単位」

「四十三人です」

「七人出るまで待てません」

自分で言って、気づく。

数字の区切りに現実を合わせようとしている。

「四十三人で出します」

「五十人単位では?」

「基準は管理のためです。患者を待たせるためではありません」

制度を守ることが目的になってはならない。

◇

午後。

前方から伝令が来た。

「ウェソンティオの門を確保!」

周囲から歓声が上がる。

「敵の先遣隊は?」

「まだ見えません!」

先に取った。

戦わずに。

カエサルは頷くだけだった。

喜びより、次の命令が先に出る。

「城壁を確認。倉庫を封鎖。井戸を調べろ。市場の穀物を勝手に買い占めさせるな」

俺の仕事まで含まれている。

「医療班を町へ入れます」

「病人を宿営地へ持ち込むな」

カエサルが言った。

「町の中で治療所を作ります」

「住民と混ぜるのか」

「軍団内の感染症を持ち込む危険があります」

「なら分けろ」

ローマ軍専用区域。

住民用区域。

水場も可能なら分ける。

占領直後の都市で感染が広がれば、住民の反発も強まる。

「先行隊の負傷者は」

「七人。重傷二人です」

「フィロンは」

「生存。処置を続けています」

胸の奥の緊張が少し緩んだ。

任せた者が、生きて仕事を果たした。

◇

本隊がウェソンティオへ入ったのは日没前だった。

城壁の上には、第十軍団の軍旗が立っている。

アリオウィストゥスの軍影はない。

都市を確保した。

一人の敵も殺さずに。

「勝利ですか」

俺が尋ねると、カエサルは城壁から北東を見た。

「まだだ」

「重要拠点を取りました」

「敵も戦わずにいる」

アリオウィストゥスは遅れたのか。

意図的に譲ったのか。

別の道を選んだのか。

「町を取っただけでは、敵の意図は分からん」

カエサルは言った。

「ここからが戦いだ」

俺は城壁の下に広がる倉庫と市場を見た。

ウェソンティオを先に取ったことで、軍団は食料と安全な拠点を得た。

しかし同時に、町の住民はローマ軍数万人を受け入れることになる。

勝利は、常に誰かの負担を増やす。

その夜。

町の穀物価格は、二倍になった。

一人の敵も殺していない日の、最初の被害だった。


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