第50話 士気を測る
総督の天幕には、軍団の上級将校が集まっていた。
表向きは、進軍計画の確認。
実際には、アリオウィストゥスとの戦いを避けるための会議だった。
「補給路が長すぎます」
一人の将校が言った。
「森が多く、騎兵の行動も制限される」
「偵察情報が不足しています」
別の男が続ける。
「敵兵力も不明。戦うには危険です」
どれも間違いではない。
補給。
地形。
情報。
軍事的な懸念として合理的である。
だが、その声には別のものが混じっていた。
恐怖。
「なら、どこまで戻るべきだ」
カエサルが尋ねた。
「ウェソンティオを確保し、そこから交渉を続けるべきです」
「アリオウィストゥスが進軍してきたら?」
「城壁で守れます」
「アエドゥイ族の土地は?」
将校は黙った。
自分たちが安全な都市へ入れば、その外側の村が攻撃される。
「敵が攻めてくると決まったわけではありません」
「我々が退けば、来る」
カエサルの声は静かだった。
「なぜ、そう言えるのです」
「敵は我々の恐怖を見るからだ」
会議室の空気が固まる。
カエサルは将校たちを見回した。
「荷物をまとめ、遺言を書き、病気を理由にローマへ帰ろうとする者がいる」
誰も目を合わせない。
「兵士が恐れるのは当然だ」
カエサルは言った。
「だが、指揮官が先に逃げ道を探せば、軍団は戦う前に敗れる」
「慎重さと臆病は違います」
将校の一人が反論した。
「その通りだ」
カエサルは頷いた。
「慎重な者は、戦う方法を考える。臆病な者は、戦わない理由を集める」
強烈な言葉だった。
俺にも向けられているように感じた。
データが足りない。
不確実性が高い。
もう少し待つべきだ。
分析は、慎重さにも逃避にもなる。
◇
「ルキウス」
突然、名を呼ばれた。
「はい」
「昨日、士気を数えたそうだな」
将校たちが一斉に俺を見る。
匿名調査。
百人隊ごとの恐怖。
上級者の不安。
公表するつもりはなかった。
「調査しました」
「結果を言え」
迷った。
特定部隊の士気が低いと公表すれば、名誉を傷つける。
将校への非難にもなる。
「全軍として、不安は強いです」
「具体的に」
カエサルは逃がさない。
「経験の浅い軍団では、戦いたくないと回答した者が三割を超える百人隊があります」
どよめきが起きた。
「三割?」
「臆病者を処罰すべきだ!」
将校たちが騒ぐ。
「名前は記録していません」
俺が言うと、さらに反発が強まった。
「なぜだ!」
「誰が逃げようとしているか分からないではないか!」
「処罰のためではなく、状態を知るためです」
「兵士へ臆病を告白させ、罰しないのか!」
「罰すると分かれば、次から全員が勇敢だと答えます」
「それでよい!」
一人の将校が叫んだ。
「軍では、勇敢に振る舞わせることが重要だ!」
一理ある。
行動が先に変われば、感情が後から追いつくこともある。
だが、隠された恐怖は消えない。
「勇敢と書かせても、戦場で逃げれば意味がありません」
俺は答えた。
「では、どうする」
「恐怖の原因ごとに対策します」
敵の実像を伝える。
戦い方を訓練する。
医療と後送を示す。
補給計画を説明する。
指揮官が逃げない姿を見せる。
「士気を病気のように扱うのか」
「似ています」
「兵士を患者にするな」
「軍団全体が崩れる前に治療します」
会議が騒然とする。
カエサルが手を上げた。
一瞬で静まった。
「将校の調査結果は?」
鋭い質問だった。
兵士だけではない。
「正式には行っていません」
「だが、見ているだろう」
「はい」
「言え」
俺は将校たちの顔を見た。
ここで話せば敵を作る。
黙れば、調査の意味がない。
昨夜、名簿の三人の名を読んだ時から、この瞬間は来ると分かっていた。
「一部の部隊では、兵士より将校の不安が強いと考えます」
空気が凍った。
「根拠は」
「荷物の発送。遺言の作成。病気を理由とした帰還申請。兵士へ流れている噂の発生源です」
「誰だ!」
将校の一人が怒鳴る。
「個人を断定できる証拠はありません」
「なら侮辱だ!」
「現象として報告しています」
「現象?」
「将校の不安が兵士へ伝わっています」
殴られてもおかしくない空気だった。
ラビエヌスが一歩前へ出る。
「静まれ」
彼の声で、怒号が止まる。
「ルキウスの言葉が不快なのは分かる」
ラビエヌスは将校たちを見る。
「だが、不快だから誤りとは限らん」
意外な援護だった。
「私もゲルマン人の強さは知っている」
彼は続ける。
「だから備える。逃げる理由にはしない」
◇
カエサルが立ち上がった。
「全軍へ伝える」
天幕の中だけではなく、軍団全体への演説。
「何をです」
誰かが尋ねた。
「第十軍団だけでも、私は進む」
将校たちの顔が変わる。
「他の軍団が従わないなら、第十軍団を私の親衛軍として連れていく」
挑発だった。
第十軍団だけを信頼すると宣言する。
他軍団の誇りを刺激する。
「総督閣下」
俺は口を開いた。
「他軍団の士気がさらに下がる可能性があります」
「逆だ」
「見捨てられたと感じる者もいます」
「見捨てられたくなければ、ついてくる」
報酬と名誉。
軍団間の競争。
恐怖へ正面から説得するのではなく、誇りを利用する。
「それでも来ない者は?」
「置いていく」
カエサルは迷わない。
「戦えない軍団を連れていく方が危険だ」
厳しい。
だが合理的。
「ルキウス」
「はい」
「演説後に、もう一度測れ」
「士気を?」
「そうだ」
「演説の効果を確認するのですか」
「お前は、対策前後を比べるのだろう」
手洗い。
衛生改革。
工事工程。
同じ方法を、士気へ適用する。
「承知しました」
◇
全軍が集められた。
カエサルは高い壇上へ立った。
ゲルマン人が強いことを否定しなかった。
過去にローマ軍が敗れたことも認めた。
だが、アリオウィストゥスの軍は無敵ではないと語った。
ガリア人も、すでに何度も彼らと戦っている。
ローマ軍はヘルウェティイ族を破った。
補給も、陣地構築も、医療も整っている。
そして最後に言った。
「諸君が恐れて進めないなら、私は第十軍団だけを連れていく」
第十軍団から歓声が上がる。
他軍団は沈黙した。
「第十軍団を、今後もっとも信頼する軍団として扱おう」
今度は他軍団から不満の声が上がる。
「我々も戦える!」
「第十だけではない!」
怒り。
嫉妬。
誇り。
恐怖とは別の感情が前へ出る。
カエサルは兵士たちを煽りながら、軍団全体の感情を変えていく。
俺にはできない方法だった。
◇
演説後。
再び木片調査を行った。
白。
黄。
赤。
結果は大きく変わった。
赤は半分以下。
黄はまだ多い。
白が増えた。
特に、演説前に赤が多かった軍団ほど変化が大きい。
「本当に効きました」
書記が驚いている。
「一時的な可能性があります」
「明日も測りますか」
「測ります」
士気は固定値ではない。
演説。
勝敗。
食事。
天候。
指揮官の態度。
仲間の噂。
毎日変化する。
「この数字を、カエサル様へ?」
「報告します」
◇
木板を持って総督の天幕へ向かう。
カエサルは結果を見ると、笑った。
「第十軍団は役に立つ」
「演説の内容より、軍団間の競争が効いた可能性があります」
「分かっている」
「意図的でしたか」
「当然だ」
完全に操られていた。
兵士の感情を。
軍団の誇りを。
将校の不安を。
「不快か」
カエサルが尋ねる。
「少し」
「だが進める」
「はい」
「ならよい」
「よくはありません」
「結果は?」
「赤は半分以下です」
「なら成功だ」
結果主義。
だが、長期的な影響は分からない。
第十軍団の特別扱いが、他軍団との亀裂を生むかもしれない。
誇りを刺激し続ければ、無謀な行動を促す可能性もある。
「継続して測ります」
俺は言った。
「好きにしろ」
カエサルは地図を広げた。
「明日、ウェソンティオへ向かう」
「アリオウィストゥスより先に都市を確保するためですか」
「そうだ」
重要な補給拠点。
堅固な地形。
奪われれば、ゲルマン軍の拠点となる。
「軍団は動けます」
俺は報告した。
「病人は」
「行軍不能者は後方へ残します。医療用荷車は十五台」
「食料は」
「十二日分」
「士気は」
木板を見る。
白。
黄。
赤。
「戦える範囲です」
自分でも奇妙な言葉だと思った。
士気を数値として報告する。
正確ではない。
それでも、昨日よりは状態を説明できる。
カエサルは頷いた。
「なら進む」
◇
恐怖は消えていない。
兵士たちは今もゲルマン人を恐れている。
だが、恐怖があることと、戦えないことは同じではない。
熱があっても歩ける患者がいる。
痛みがあっても生きられる者がいる。
恐怖もまた、ゼロにする必要はないのかもしれない。
行動できる範囲へ下げればよい。
その夜、俺は新しい木板を削らせた。
表題を刻む。
「測れるもの」
疾病。
損耗。
食料。
工程。
距離。
そして、恐怖。
六つ書いて、手を止めた。
一年前、俺が測れたのは一つだけだった。
欄が増えるたび、俺は自分が賢くなったと感じている。
その感覚に名前が付くのは、十日ほど先のことになる。




