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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

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第49話 恐怖は伝染する

脱走者は三人だった。

夜間、宿営地の裏側から抜け出そうとしたところを、見張りに捕らえられた。

いずれも新しく編成された軍団の兵士。

戦闘経験が少ない。

「理由は」

ラビエヌスが尋ねた。

三人は黙っている。

「命令違反と脱走は、死刑に値する」

百人隊長が言うと、一人の兵士が震え始めた。

「ゲルマン人に殺されるよりましだ」

小さな声だった。

「何だと」

「奴らは、人間ではない」

兵士の顔は青ざめている。

「背丈はローマ人の倍。寒さの中でも裸で戦い、傷を負っても倒れない」

「誰から聞いた」

「商人が言っていた」

「他には」

「ガリア人が。以前戦った兵士も」

噂が混ざっている。

背丈が倍。

傷を負っても倒れない。

誇張。

だが、本人たちは信じている。

「スエビ族は毎年戦い、農業をせず、戦いだけで生きている」

別の兵士が言う。

「ローマ軍を森へ誘い、全員殺す」

「どの戦いだ」

「昔の戦いです」

「いつ、どこで」

「知りません」

具体性がない。

だが恐怖には、正確な場所や日付は必要ない。

むしろ、ない方がよく広がる。

「処刑しますか」

ラビエヌスがカエサルへ尋ねた。

「軍紀を守るには必要です」

カエサルは三人を見た。

「まだ決めない」

「見逃せば、脱走が増えます」

「先に原因を知る」

俺は驚いた。

普段なら即断する男が、今回は待った。

「ルキウス」

「はい」

「病気が広がる時、最初に何をする」

「患者数と接触経路を調べます」

「同じことをしろ」

「恐怖を病気として?」

「兵士が戦う前に崩れれば、疫病より危険だ」

恐怖は見えない。

手洗いでは止められない。

煮沸もできない。

それでも、人から人へ広がる。

「誰が、どの噂を、どこで聞いたか調べます」

「期限は今日中」

「全軍ですか」

「主要な百人隊だけでよい」

◇

俺は従軍している書記たちを集めた。

質問は五つ。

一、ゲルマン人を恐れているか。

二、何を恐れているか。

三、誰から聞いたか。

四、実際にゲルマン人と戦った経験があるか。

五、戦えると思うか。

「兵士が正直に答えますか」

書記が尋ねる。

「名前を書かないでください」

「匿名?」

「百人隊名だけです」

「臆病者と答えた者を処罰できません」

「処罰のための調査ではありません」

「軍の記録で名前を書かないなど」

「名前を書けば、全員が勇敢だと答えます」

実態が分からなくなる。

「木片を使います」

白。

恐れていない。

黄。

不安。

赤。

戦いたくない。

各兵士が、他人へ見えないよう壺へ入れる。

文字が読めなくても答えられる。

負傷者の分類に使った色を、そのまま転用した。

「正確ですか」

「完全ではありません」

「またですか」

「それでも、百人隊長の感覚だけよりよい」

◇

調査が始まった。

結果は予想以上に悪かった。

経験豊富な第十軍団。

白が多い。

不安はあるが、戦えると答える者が大半。

新設軍団。

黄と赤が多い。

特に上級将校の従者、補給担当、商人など、実際の戦闘経験がない者ほど恐怖を強く語っている。

「兵士より、将校の方が恐れている部隊があります」

書記が言った。

上級者の恐怖が、下へ伝わっている。

荷物を整理し、遺言を書き、ローマへ戻る理由を探す者もいる。

「噂の発生源は」

「ガリア人商人。アエドゥイ族の使者。以前ゲルマン人と戦った補助兵」

「同じ話ですか」

「少しずつ違います」

背丈が巨大。

盾が剣を通さない。

女性が後方から叫び、逃げた男を殺す。

占いで戦う日を決める。

ローマ兵の首を杯にする。

事実が含まれている可能性はある。

だが誇張され、結びつき、怪物の物語になっている。

「恐怖の理由を分類します」

一、敵の身体能力。

二、過去のローマ軍敗北。

三、地形と森。

四、数の多さ。

五、未知の戦い方。

六、指揮官が恐れていること。

「六番が最も危険です」

俺は言った。

兵士は、指揮官の表情を見る。

将校が荷物をまとめれば、兵士は敗北が決まったと考える。

「治療は?」

書記が尋ねる。

医学なら、病因に応じて対策する。

恐怖も同じか。

「情報と訓練です」

俺は答えた。

「噂を禁止しますか」

「禁止すれば、隠れて広がります」

「では」

「事実を示します」

ゲルマン人の平均的な体格。

武器。

戦い方。

弱点。

ローマ軍が持つ優位。

だが、正確な情報が足りない。

「ガリア人で、ゲルマン人と戦った経験者を集めます」

「恐怖を増やしませんか」

「話す内容によります」

経験者は、自分の敗北を大きく語るかもしれない。

逆に、実際の人間として描ければ、怪物性を減らせる。

「選びます」

◇

その日の午後。

兵士を集めた説明会を開いた。

最初に話したのは、アエドゥイ族の戦士だった。

彼はゲルマン人との戦いで兄を失っている。

「彼らは強い」

冒頭から、兵士たちの顔が硬くなる。

「だが血を流す」

戦士は続けた。

「腹を刺せば死ぬ。脚を折れば歩けない。腹が減れば弱る」

当たり前のこと。

だが怪物ではなく、人間であると伝える。

「背丈は?」

兵士が尋ねる。

「大きい者もいる。私より小さい者もいる」

「傷を負っても倒れない?」

「興奮していれば、すぐ倒れない者はいる。ガリア人にもいる」

「首を取る?」

「取る者はいる。ローマ人も敵の首や武器を持ち帰るだろう」

兵士たちの間から、小さな笑いが起きた。

恐怖が少しだけ現実へ戻る。

次にクィントゥスが前へ出た。

「ゲルマン人は強い」

兵士たちが静まる。

「だが、俺の脚に刺さっていた木片よりは小さい」

意味が分からず、沈黙が続いた。

「この外科医が切れば、何でも出てくる」

笑いが起きた。

「お前たちが負傷しても、こいつらが後ろにいる」

医療班を指す。

「死なないとは言わん」

クィントゥスは言った。

「だが、以前より死ににくい」

完全な安心ではない。

現実的な支え。

兵士は、傷を負えば必ず死ぬという恐怖も持っている。

医療制度の存在が、士気に影響する。

「ルキウス」

クィントゥスが俺を呼ぶ。

話す予定ではなかった。

◇

兵士たちの前へ立つ。

何を言うべきか。

敵は弱いと嘘をつくか。

必ず勝てると保証するか。

どちらもできない。

「ゲルマン人は強いでしょう」

俺は言った。

「数も多い。戦い方も違う」

兵士たちの顔から笑みが消える。

「ですが、病気にも弱い。飢えにも弱い。傷を負えば感染する。人間です」

木板を掲げる。

「我々は、彼らの数、食料、部族、移動を調べています」

「数字で勝てるのか!」

誰かが叫んだ。

「数字だけでは勝てません」

俺は答えた。

「剣を持つのは皆さんです」

「なら何の役に立つ!」

「皆さんが、最も勝ちやすい場所と時を選ぶためです」

カエサルを見る。

「そして、負傷した時に戻れる場所を作るためです」

救護所。

担架。

衛生兵。

外科医。

以前のローマ軍にはなかった仕組み。

「怖くないとは言いません」

俺は続けた。

「私も怖い」

ざわめきが起こる。

「外科医殿も?」

「はい」

「なら逃げたいか」

「逃げたい時もあります」

正直に答えた。

「それでも残るのは、恐怖が間違っているからではありません」

言葉を探す。

「恐怖より、守りたいものがあるからです」

仲間。

家族。

故郷。

名誉。

給与。

土地。

理由は人によって違う。

「皆さんが何を守るかは、私には決められません」

俺は言った。

「ただ、怖いことを理由に、すでに負けたことにしないでください」

静かになった。

成功したかは分からない。

演説は専門ではない。

それでも、兵士たちは耳を傾けていた。

◇

夕方。

同じ木片調査をもう一度行った。

赤は減った。

黄は多い。

白は少し増えた。

恐怖は消えていない。

だが、形が変わった。

正体のない怪物への恐怖から、強い人間と戦う不安へ。

「効果がありました」

書記が言った。

「一日だけです」

「明日も調べますか」

「はい」

恐怖も、熱や下痢と同じように経過を見る必要がある。

だが、その夜。

さらに悪い報告が届いた。

上級将校の一部が、カエサルへ進軍中止を求めようとしているという。

名簿を見せられた。

十一人。

そのうち三人は、昨日まで俺の衛生規程を支持していた男だった。


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