第46話 私がいなくても
眠れなかった。
生存局を離れる、最後の夜である。
天幕の机には、木板が積み上がっている。
帰還村数。
再建家屋。
井戸の状態。
下痢患者。
発熱患者。
穀物配給。
債務契約。
孤児。
負傷兵の職務転換。
どの数字にも、まだ未解決の問題が残っていた。
新しい利息上限は、商人側から反発されている。
三人制にした村の配給責任者は、意見が割れて作業が止まる場合がある。
巡回担当へ転じた負傷兵の中には、文字を覚えられない者もいる。
孤児の引き取りを巡り、労働力として欲しがる家族まで現れた。
俺が離れれば、問題はさらに増える。
「やはり、もう少し残るべきではないか」
自分へ言い聞かせるようにつぶやいた。
「誰に話しているのです」
入口からティロが顔を出した。
両腕に木板を抱えている。
「独り言です」
「最近、増えましたね」
「仕事が増えたからです」
「仕事を増やしているのは、ルキウス様です」
否定できない。
ティロは木板を机へ置いた。
「明日からの体制案です」
生存局の責任分担。
帰還村の管理。
配給。
衛生。
債務調整。
孤児。
記録。
各部門に一人ずつ責任者が置かれている。
医療の欄には、アリアの名がある。
俺の名前は、最上段にない。
代わりに、暫定責任者としてティロの名が記されていた。
「本当に、あなたが引き受けるのですか」
「命じたのはルキウス様です」
「断ることもできました」
「断ったら、誰に任せるつもりでしたか」
答えられなかった。
ディオニュシオスは軍団とともに行く。
クィントゥスも当然、軍へ戻る。
父は商人であり、生存局の規制対象でもある。
負傷兵の中に有能な者はいるが、全体を見られる者はまだ少ない。
「私で不満ですか」
ティロが尋ねた。
「不満ではありません」
「不安?」
「はい」
「正直ですね」
「命が関わります」
「私が間違えると思っていますか」
「必ず間違えます」
ティロの顔が強張る。
「私も間違えました」
俺は続けた。
「ディオニュシオスも、クィントゥスも、カエサル様も間違えます」
「総督閣下も?」
「人間ですから」
「聞かれたら怒られますよ」
「本人も知っています」
おそらく。
「問題は、間違えないことではありません」
俺は木板の項目を指した。
「間違いを見つけられるか。隠さず報告できるか。修正できるかです」
「それでも、人が死んだら?」
「死ぬ人はいます」
口にするのがつらい。
「制度を作っても、全員は救えません」
「では、何のために」
「減らすためです」
死者をゼロにはできない。
感染症も。
飢えも。
事故も。
不正も。
それでも、何もしない場合より減らせる。
◇
「毎朝、五つだけ確認してください」
俺は別の木板を渡した。
一、新規死亡者。
二、新規発熱・下痢患者。
三、食料不足までの日数。
四、帰還途中で行方不明となった人数。
五、各村からの重大な訴え。
「五つだけ?」
「最初に全体の異常を見るためです」
「他の数字は?」
「担当者が管理します。異常があれば上げる」
「異常とは何です」
そこが難しい。
基準を決めなければ、担当者ごとに判断が変わる。
「前日より二倍以上増えた場合」
俺は答えた。
「死亡が一人から二人でも?」
「人数が少ない場合は、絶対数も見ます」
「また複雑になりました」
「単純な規則だけでは足りません」
ティロがため息をつく。
「一つ増やします」
「何を」
「現場が不安に感じた場合」
「数字ではありません」
「だから必要です」
異常の兆候は、数字より先に現場が気づくことがある。
臭い。
患者の顔色。
村人の雰囲気。
配給所の怒鳴り声。
記録に表れない変化。
アリアは、俺が板に欄を作る前から、それを読んでいた。
「理由を説明できなくても、気になることは報告させてください」
「それでは報告が多すぎます」
「最初は多くて構いません」
「木板が足りなくなります」
「父に買わせます」
「また怒られますね」
ティロが少し笑った。
その笑顔を見て、ようやく理解した。
俺は彼を、まだ若い書記として見ていた。
だが彼は、赤痢患者の記録から始まり、戦場の死傷者、捕虜、帰還者、村の再建まで見てきた。
俺が一人で抱えようとしていた情報の多くを、実際に整理していたのはティロである。
「ティロ」
「はい」
「私は、あなたを過小評価していました」
彼は目を瞬いた。
「突然、どうしたのです」
「責任者を任せながら、自分の代わりにはならないと思っていました」
「なれませんよ」
即答だった。
「ルキウス様のように傷を切ることも、病気を判断することもできません」
「それでよいのです」
俺は言った。
「私になる必要はありません」
ティロは記録を整理できる。
人の話を聞ける。
矛盾した数字を見つけられる。
自分が分からないことを認められる。
俺にはない能力もある。
「医療判断は、アリアと現地の治療師へ確認してください」
「意見が割れたら?」
「記録を残し、最も害が少ない方を選ぶ」
「それでも決められなければ?」
「あなたが決める」
ティロの顔から笑みが消えた。
「怖いです」
「私も最初は怖かった」
「今は?」
「今も怖いです」
「そう見えません」
「見せないのが少し上手くなっただけです」
◇
夜が深くなる。
俺は生存局の命令書へ印を押した。
暫定責任者、ティロ。
決定権。
報告義務。
緊急時の食料放出。
感染発生時の隔離。
契約停止権。
重要事項はカエサルの幕僚団へ送る。
「最後に一つ」
俺は言った。
「私へ判断を求めすぎないでください」
「報告するなと?」
「報告はしてください。ただし、返答を待たずに必要なことは行う」
「間違えたら」
「後で直します」
ティロは命令書を受け取った。
「ルキウス様」
「はい」
「戻ってきた時、生存局があなたの考えた通りでなくなっていても怒らないでください」
「どういう意味です」
「現場に合わせて変えます」
一瞬、抵抗を覚えた。
自分が作った制度。
自分が決めた手順。
勝手に変えられる。
だが、それこそ必要なことではないか。
「理由を記録してください」
俺は答えた。
「それなら構いません」
◇
翌朝。
軍団が出発した。
俺は何度も振り返った。
生存局の天幕。
木板を運ぶ書記。
井戸を調べる衛生担当者。
配給を確認する負傷兵。
そこに俺はいない。
それでも、人々は動いている。
「気になるか」
馬上のクィントゥスが尋ねた。
「はい」
「戻るか」
「戻りません」
「なぜだ」
俺は前方を見た。
新たな戦場。
アリオウィストゥス。
ゲルマン人。
「私がいなくても動くかを確かめるためです」
クィントゥスは鼻で笑った。
「壊れたら?」
「直します」
「お前がいない間に、人が死ぬぞ」
「私がいても死にます」
自分で口にしながら、胸が痛んだ。
だが、それが現実である。
一人の外科医が救える人数には限界がある。
一人がすべてを判断する組織にも限界がある。
街道が分かれる場所で、俺は最後に一度だけ数を確かめた。
生存局へ残してきた木板、百四十七枚。
自分の荷へ入れた板、六枚。
三年で書いたものの、ほとんどを置いてきた。
それは患者の手術を他人へ任せるよりも、はるかに恐ろしかった。




