第45話 支援という名の鎖
生存局が作られてから十五日。
帰還した村は四十を超えた。
再建済みの井戸、二十三。
使用禁止、十七。
仮住居、四百六十二。
下痢患者、百三十八。
発熱患者、九十一。
死亡者、二十七。
孤児、百六十四。
出産、九。生存した母、八。生存した子、六。
最後の三行は、この十五日で新しく増えた欄である。誰も数えたことのなかった数字が、初めて木板の上に並んだ。
数字は毎日増えた。
救われた者の数だけではない。
問題の数も増える。
「穀物の返済について、村から質問が来ています」
ティロが言った。
「返済?」
「ローマから受け取った食料は、無償ではないと商人が説明しているそうです」
俺は木板から顔を上げた。
「誰の指示です」
「アエリウス家を含む複数の商人です」
父。
嫌な予感がした。
「契約書を見せてください」
商人が村の代表者へ示した契約には、ローマ軍と周辺部族が供給した穀物の一部を、翌年の収穫後に返すと記されていた。
利息付きである。
「誰が認めた」
「補給担当者です」
「カエサル様の命令は?」
「穀物を供給させる、というものです」
無償とは言っていない。
商人は、供給を取引として処理した。命令の隙間に、契約が滑り込んだ。
「この利息では返せません」
俺は言った。
不作。
再建。
家畜不足。
来年の収穫自体が不確実である。
「返せなければ、土地や労働で支払う条件です」
ティロの声が低くなる。
食料支援。
返済不能。
土地の譲渡。
債務労働。
支援が支配へ変わる。
ローマの商人と請負人が、再建を通じてヘルウェティイ族の土地と人を手に入れる可能性がある。
ディウィキアクスが言っていた。
ローマは最初、友人として来る。
敵から守る。
道を作る。
商人が来る。
契約が増える。
借金が増える。
気づいた時には、ローマなしでは何も決められなくなる。
「父を呼びます」
◇
夜、俺は木板を持って、井戸の脇の天幕へ行った。
アリアが薬草を仕分けている。乾いたものと、まだ湿っているものを分けていた。
「読めますか」
俺は契約の写しを差し出した。
「ラテン語は話せる。読むのは半分」
俺は条項を一つずつ読み上げた。
供給量。
利息。
返済期限。
不履行時の担保。
土地。
そして、労働。
読み終えても、アリアはしばらく何も言わなかった。
薬草を仕分ける手だけが動いていた。
「アリア」
「聞いてる」
「意見を」
「意見じゃなくて、報告をする」
彼女は手を止めた。
「これ、うちの村にもある」
俺は動けなかった。
「いつから」
「私が子供の頃から。ローマの商人が麦と鉄を運んできて、代わりに書き付けを置いていった」
「返せましたか」
「最初の年は返した。次の年は半分。その次は、畑を一つ渡した」
「今は」
「兄が、他人の畑で働いてる。自分の家だった土地で」
天幕の中の空気が、重くなった。
アエドゥイ族はローマの同盟部族である。友人であり、兄弟と呼ばれる。戦って負けたわけではない。
彼らはただ、契約を結んだだけだ。
「あなたたちは、剣で来なかった」
アリアは言った。
「だから誰も戦わなかった」
俺は自分の木板を見た。
そこには、生存局が支給した穀物の量が、村ごとに正確に記録されている。俺が作った。俺が誇っていた。
その正確な記録が、そのまま来年の債務台帳になる。
俺は、取り立てのための帳簿を三十村分、自分の手で整備したのだ。
「……止めます」
「止められるの」
「試します」
「前にも、そう言ったローマ人がいた」
アリアは薬草へ視線を戻した。
「その人は、三年で属州へ帰った」
◇
ガイウス・アエリウスは、契約書を見ても悪びれなかった。
「穀物は空から降ってきたのではない」
父は言った。
「誰かが育て、集め、運んだ。荷車も牛も人手も必要だ」
「支払いは必要です」
「なら問題はない」
「利息が高すぎます」
「危険が高い」
「返せないと分かっているでしょう」
「返せる村もある」
「返せない村から土地を取るつもりですか」
「契約に書いてある」
父の声は冷静だった。
悪意があるようには見えない。
彼にとって、契約は契約である。
危険を負って物資を運んだ者が利益を得る。
返せなければ、別の資産で支払う。
ローマ商業の論理。
「彼らは選べる状態ではありませんでした」
「食料を受け取らない選択はあった」
「飢えて死ねというのですか」
「だから受け取った」
「それを自由な契約とは呼べません」
父の目が険しくなる。
「お前は商売を知らない」
「MBAで――」
言いかけて止まった。
「経営と契約を学びました」
「誰からだ」
「遠い土地の教師です」
「なら、その教師は食料を運んだことがない」
父は机を叩いた。
「危険地帯へ荷車を出し、盗賊と戦い、牛を失い、兵士へ賄賂を払い、それでも穀物を届けた商人へ、利益を取るなと言うのか」
「適正な利益は必要です」
「適正を誰が決める」
「市場と交渉です」
「市場が壊れている時は?」
答えに詰まる。
戦争で価格は上がる。
需要が急増し、供給が減る。
高価格には、物資を集めるインセンティブという役割もある。
価格を抑えすぎれば、誰も危険を冒して運ばなくなる。
だが自由にすれば、飢えた者からすべてを奪える。
「上限を作ります」
俺は言った。
「利息と担保に制限を設ける」
「ローマ軍が商人の利益を決めるのか」
「生存局が監督します」
父は笑った。
「役人になった途端、商人を縛るか」
「この契約の結果、村が崩壊すれば再建支援が無駄になります」
「無駄かどうかで止めるのか」
「人が土地を失うからです」
「最初にそれを言え」
父は俺を見た。
「お前は費用の話をしているようで、最後は感情で決める」
「感情ではありません」
「では、人が土地を失うことを数字で示せ」
また問われる。
何戸が返済不能になる。
土地を失った者がどこへ行く。
再移住。
反乱。
奴隷化。
長期的な社会不安。
計算できる部分はある。
「示せます」
俺は言った。
「アエドゥイ族で、すでに起きています」
父の顔から、初めて表情が消えた。
「三十年前から同じ契約が動いている部族があります。今、その部族の土地の何割が、ローマ市民か請負会社の名義になっているか、調べれば出ます」
「……誰から聞いた」
「その土地で生まれた者からです」
沈黙が落ちた。
父は契約書の端を指で押さえたまま、しばらく動かなかった。
俺は初めて、この人が何かを計算し損ねている顔を見た。
◇
「一時的に新規契約を停止します」
「権限はあるのか」
俺はカエサルの命令書を出した。
帰還者の食料と再建に関する調整権。
範囲は曖昧。
解釈すれば、契約監督も含められる。
「総督の名を使うか」
父の声に軽蔑が混じった。
胸が痛む。
「必要です」
「便利な言葉だな」
ラビエヌスにも言われた。
必要。
その言葉で何でも正当化できる。
「父上」
「何だ」
「商人が利益を得ることは否定しません」
「なら」
「ですが、返済不能を前提に土地を取る契約は認めません」
「なぜだ」
「支援が鎖になるからです」
父は黙った。
「食料を与え、生かす。その後、借金で土地と自由を奪うなら、奴隷として売るのと何が違うのです」
「大きく違う」
「どこが」
「契約した」
「飢えた人間に署名させただけです」
「署名ではない。証人と印だ」
「形式の話ではありません!」
声が大きくなった。
父も立ち上がる。
「なら、お前が損失を払え!」
「何を」
「商人が負う危険と費用だ。利息を下げるなら差額を誰かが負担する。お前の役所か。軍団か。ローマ市民か」
正しい。
損失は消えない。
誰かへ移るだけである。
「生存局の予算から一部補填します」
「予算などあるのか」
「戦利品と鹵獲物資を使います」
「将兵の取り分を減らす?」
「一部を」
「反発するぞ」
「分かっています」
「カエサルが認めると思うか」
「交渉します」
父は長く俺を見ていた。
怒っている。
だが、その奥に別の感情がある。
「本当に変わったな」
姉と同じ言葉だった。
「以前の私は、どうしましたか」
「商人の利益を増やす方法ばかり考えていた」
ルキウスは父の事業を継ぐつもりだった。
利益。
地位。
政治への進出。
「今は、父親の商売を壊そうとしている」
「壊すつもりはありません」
「同じだ」
父は契約書を取り上げた。
「三日待つ」
「新規契約を?」
「止める」
意外だった。
「その間に、商人が利益を得ながら、村が土地を失わない条件を作れ」
「協力していただけるのですか」
「お前の案が現実的なら」
「現実的でなければ」
「元の契約へ戻す」
厳しい条件。
だが、交渉の余地はできた。
父は扉の前で足を止めた。
「アエドゥイの話は、誰にもするな」
「なぜです」
「私の会社も、その名簿に載っている」
そう言って、出ていった。
◇
俺は新しい仕組みを考えた。
利息上限。
返済猶予。
収穫量に応じた返済。
凶作時の延期。
土地を担保にしない。
代わりに、将来の穀物の一定割合を供給する契約。
商人には、ローマ軍が一部の支払いを保証する。
村が返済不能となった場合、土地を取るのではなく、次年度へ繰り越す。
ただし永遠に債務が残らないよう、上限年数を決める。
債務の一部は、道路、井戸、倉庫建設への労働で返済可能とする。
働いた分は村全体の資産として残る。
「また制度ですか」
ティロが言った。
「はい」
「穴は?」
「たくさんあります」
収穫量を少なく申告する村。
労働時間を水増しする者。
不作を装う者。
保証を当てにして高値をつける商人。
「どうします」
「記録と監査です」
「木板が増えますね」
「増えます」
◇
夕方。
カエサルへ案を提出した。
「戦利品を使えと?」
「一部です」
「兵士が命を懸けて得たものだ」
「その兵士が次に戦う時、後方が安定している方がよい」
「遠い利益だ」
「反乱が起きれば、再び軍を出す必要があります」
「脅しか」
「費用比較です」
カエサルは案を読んだ。
「商人にも利益は残る」
「残さなければ、次から物資を運びません」
「村は土地を失わない」
「原則として」
「原則?」
「意図的な詐欺や契約違反は別です」
「誰が判断する」
「生存局と現地代表者、商人側代表者の三者です」
「裁判所まで作る気か」
「紛争調整です」
「名前を変えればよいと思っているな」
カエサルは笑った。
「試せ」
「認めていただけるのですか」
「成功すれば、ローマは安定した穀物供給を得る。失敗しても、お前と父親が争うだけだ」
「総督閣下にも責任があります」
「命令書には、試行と書け」
逃げ道を作っている。
だが、新制度を試す許可は得た。
「ルキウス」
カエサルが呼び止める。
「支援が鎖になると言ったそうだな」
父から伝わったらしい。
「はい」
「鎖がなければ、人は従わないこともある」
「鎖以外の方法を作ります」
「報酬か」
「選択肢です」
「ローマに逆らう選択肢も与えるのか」
答えに詰まる。
ローマの支援制度である以上、完全な自由はない。
人質。
武装解除。
報告義務。
穀物契約。
帰還地の指定。
すでに多数の鎖がある。
「少なくとも、生きるために自由を売るしかない状況は減らします」
カエサルは静かに俺を見た。
「お前は、ローマを弱くするかもしれんな」
「長期的には強くします」
「皆そう言う」
「結果を記録します」
「それも、いつもの答えだ」
カエサルは地図へ視線を戻した。
「三日後、私はアリオウィストゥスへの対応を始める」
次の敵。
ゲルマン人の王。
ヘルウェティイ戦役が終わったばかりだというのに、歴史は止まらない。
「生存局は?」
「残せ」
「私も残るのですか」
「お前は軍団と来い」
「誰が責任者を」
「育てた者へ任せろ」
また、人へ任せる時が来た。
「制度が機能するかどうか、見届けたいのですが」
「お前がいなくなった途端に壊れるなら、制度ではない」
カエサルの言葉に反論できなかった。
◇
出発の前夜。
俺はアリアへ、生存局の医療部分を任せたいと伝えた。
「私に」
「産科と薬草はあなたが上です。村の作法も、あなたしか分かりません」
「ローマ人が従うと思うの」
「命令書を出させます」
「紙で人は動かない」
「動かないところは、あなたが動かしてください」
アリアはしばらく黙っていた。
薬草の束を一つ持ち上げ、匂いを確かめ、また置いた。
「条件が三つある」
「どうぞ」
「一つ。私は、ヘルウェティイもアエドゥイもローマ兵も、同じ順で診る。あなたの規程がどう書いてあっても」
「……ここは戦場ではありません。認めます」
「二つ。あなたの板に載せた私たちの作法は、軍へ渡さない。渡ったら、私は全部やめる」
「約束します」
「三つ」
アリアは顔を上げた。
「戻ってきて、結果を見なさい」
意外な条件だった。
「逃げるなということですか」
「そう。あなたたちは、いつも仕組みだけ置いて次の戦争へ行く」
「置いていくのが目的です。私がいなくても動くように」
「それは、上手くいった時の言い方」
彼女は言った。
「上手くいかなかった時に見に来ないなら、ただ捨てただけ」
俺は返事に詰まった。
制度は、作った人間が消えても動くべきだ。それは正しい。
だが、消えた人間が結果を確認しないことまでは、正しさに含まれていない。
「戻ります」
俺は言った。
「いつ」
「分かりません。戦争が終わるまでは」
「帰るまでが戦争、でしょう」
自分の言葉を返された。
「……そうです」
「なら、まだ終わっていない」
アリアは薬草の束を荷へ結んだ。
「行きなさい。ここは診ておく」
◇
翌朝。
俺は天幕を出た。
遠くでは、帰還者が新しい家の柱を立てている。
その横で、商人が契約書を広げている。
兵士が人数を記録している。
子供が再建された井戸から水をくんでいる。
そして井戸の向こうで、格子縞の外套の女が、若い衛生兵に何かを教えていた。手ぶりからすると、包帯の巻き方だろう。ローマ人がガリア人に教わっている。十五日前には、この村になかった光景である。
ローマの支援は、彼らを生かした。
同時に、ローマの制度を彼らの土地へ根づかせ始めていた。
俺は人を救っているのか。
ローマの支配を効率化しているのか。
おそらく、両方だった。
そして俺は生存局を託し、新たな戦争へ向かう。
ラインの彼方から来た王。
アリオウィストゥスと対峙するために。
馬上で一度だけ振り返った。
井戸の向こうの女は、こちらを見なかった。
見送る義理はない、ということだろう。
俺はそれでいいと思った。
見送られるために制度を作ったわけではない。
◇
北東へ向かう街道で、俺は自分が何度目の夏を越えたかを数えた。
この身体で、一度目。
紀元前五十八年。
三月十五日まで、あと十四度の三月がある。




