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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第三章 ソーヌ川の夜明け

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第43話 焼けた村の診断

先行隊から最初の報告が届いたのは、五日後だった。

使者の顔は煤で黒く汚れていた。洗っても落ちない種類の汚れである。

「村は、ほとんど残っていません」

木板には、村ごとの状態が記されている。

家屋。

井戸。

穀物倉庫。

家畜小屋。

畑。

道。

焼失。

使用可能。

修理必要。

不明。

「井戸は?」

俺が尋ねた。

「多くは残っています。ただし、死んだ家畜や灰が入っているものがあります」

「その水を飲ませないでください」

「すでに先行隊の一部が飲みました」

「病人は」

「下痢が七人。発熱が三人」

疫病の兆候。

焼けた村へ戻れば、清潔な水も住居もない。

灰。

腐敗した家畜。

放置された遺体。

排泄物。

大人数が一気に戻れば、感染症が広がる。

「帰還速度を落とします」

俺が言うと、ラビエヌスが反対した。

「野営中も病気は広がる」

「焼けた村へ全員を入れれば、さらに危険です」

「では、どこへ置く」

「村の外に一時宿営地を作ります」

「故郷へ着いたのに、家へ入れるなと?」

「水と遺体を確認するまでです」

ヘルウェティイ族の反発は必至だ。

三か月歩いて、二十万人が死んだり散ったりして、ようやく戻った故郷。

そこへローマ人が立ち入りを禁じる。

「理由を説明します」

「聞くと思うか」

「実際に病人が出ています」

「神々の怒りだと考える者もいる」

ディオニュシオスが言った。

「自ら家を焼いた罰だと」

「そう考える者には、どう説明します」

「神々は汚れた井戸を好まない、と言えばよい」

俺は彼を見る。

「医学的ではありません」

「伝わらない正しさより、伝わる言葉だ」

商人ドゥムノリクスの弟から学んだのと、同じ理屈だった。

相手の言葉へ翻訳する。

「嘘では?」

「汚れた井戸を飲むなという結論は同じだ」

倫理的な迷いはある。

だが、微生物の説明はできない。俺は顕微鏡を持っていない。持っていない人間が「見えないものがいる」と言えば、それは神々の話と区別がつかない。

「悪いものが水へ入っている、と説明します」

「悪い気か?」

「目に見えない汚れです」

「神々より分かりにくい」

それでも試すしかない。

◇

俺は少人数の医療班とともに、先行隊のいる村へ向かった。

村の名はアウレンナ。

丘の南斜面に開けた、水の便のよい土地である。かつて七十近い家族が暮らしていた。

今、残っている家屋は十にも満たない。

焼けた柱。

崩れた石壁。

黒くなった畑。

三か月の雨で、焼け跡には草が生えはじめていた。黒い地面から緑が伸びているのが、かえって悪い夢のように見えた。

井戸のそばには、腐敗した牛の死体が横たわっている。

「これを飲んだのですか」

先行隊の男たちは目を逸らした。

「水は透明だった」

「死体が近くにあります」

「井戸の中には入っていない」

地下水の汚染を説明するのは難しい。

土は水を通す。通しながら、通したものを全部は濾さない。それを説明する言葉が、この言語にはない。

「少なくとも、死体を片づけ、井戸を空にし、壁を洗うまで飲まないでください」

「別の水場は遠い」

「川から運びます」

「人手がない」

問題は常に資源へ戻る。

「作業順を決めます」

俺は村の中央に木板を置いた。

第一。

遺体と腐敗物の除去。

第二。

安全な水場の確保。

第三。

仮住居。

第四。

共同炊事場。

第五。

個々の家屋再建。

「自分の家を先に建てたい」

村人が言った。

「共同の水と食事が先です」

「なぜローマ人が決める」

「下痢が広がっています」

「我々は昔から、この土地で生きてきた」

「以前は、家と井戸が管理されていました。今は焼けています」

「お前たちが追ったからだ」

言葉に詰まった。

家を焼いたのは彼ら自身。

だが、追撃し、多くを死なせ、帰還を強制したのはローマである。

責任は一つではない。

「その通りです」

俺は答えた。

周囲が静まる。

「ローマ軍も、この状況を作った一因です」

同行した兵士が驚いて俺を見る。属州総督の幕僚が、公然と自軍の責任を認めた。報告されれば問題になるだろう。

「だから、再建を手伝います」

「罪滅ぼしか」

「違います」

「では何だ」

「同じことを繰り返さないためです」

村人は納得していない。

それでも、完全な正当化をするよりはましだと思った。

◇

作業は、最初の項目で止まった。

遺体である。

村の外れに、十七体が並べられていた。三か月前、出発に間に合わなかった老人と、途中で戻ってきて死んだ者たちだという。

「焼却します」

俺は言った。

腐敗が進んでいる。埋めるにも土が乾ききって固く、人手も時間も足りない。感染源として、これ以上危険なものはない。

「駄目だ」

村の年長者が前へ出た。

「触れさせない」

「衛生上の問題です」

「あの者たちは、まだ送られていない」

「送る?」

説明を求めても、通訳の言葉が途中で止まる。宗教用語が訳せていない。

俺は苛立った。

十七体の腐敗した遺体が、下痢の広がる村の風上に置かれている。それが今、この村で最も危険なものである。それは動かせない事実だ。

「日没までに処理します」

俺が兵士へ命じかけた時、横から手が伸びて、木板を押さえた。

アリアだった。

「あなた、今、この村を敵にした」

「感染が――」

「知ってる。私が下痢患者を診てる」

彼女は静かに言った。

「その上で言ってる」

「では、どうしろと」

「三つ聞いて」

アリアは指を折った。

「一つ。あの人たちは、火で送られる決まり。だからローマ兵が火をつけること自体は間違っていない」

意外だった。

「二つ。ただし、火をつけるのは家族。他人が触れれば、死者は帰る場所を失う」

「三つ目は」

「持ち物を一緒に燃やす。杯を一つでいい。それがないと、送ったことにならない」

俺は十七体を見た。

「それだけですか」

「それだけよ」

「では、なぜ最初に言ってくれない」

「聞かれなかったから」

言葉が出なかった。

俺は「遺体を焼却する」という結論だけを伝え、その方法を誰にも尋ねなかった。作業順序は五項目に分解したのに、一項目めの中身は分解しなかった。

「……杯は、どこにあります」

「焼けた家の中」

「井戸より先に、焼け跡を掘るのですか」

「そう」

俺は自分の木板を見た。

第一項目の下に、行を三つ足した。

家族が火をつける。

副葬品を一つ探す。

そのための時間を半日取る。

作業順序は変えない。中身だけを変える。

「半日遅れます」

ティロが言った。

「半日で全員が協力してくれるなら安いです」

その日の夕方、十七の火が焼け跡の脇で上がった。

家族が松明を持ち、順番に火をつけていった。誰も泣かなかった。歌のようなものを、低い声で唱えていた。

ローマ兵たちは、少し離れて立っていた。

一人が兜を脱いだ。

すると、隣の男も脱いだ。

命令ではなかった。

翌朝から、井戸の掘り出し作業への村人の参加者は、前日の三倍になった。

◇

「あなた、私に礼を言うつもり?」

作業を見ながら、アリアが言った。

「言うつもりです」

「やめて。気持ち悪い」

「では、教えてください」

俺は木板を差し出した。

「他に、ローマ人が知らずに踏んでいるものはありますか」

アリアは木板を見て、それから俺を見た。

「これに書くの」

「はい」

「私の部族の作法を、ローマ人の板に」

その言い方に、俺は初めて自分の危うさを理解した。

知ることは、扱えるようにすることでもある。習慣を知れば、避けることもできるが、利用することもできる。どの祭りの日に襲えばよいかを知るのも、同じ知識だ。

「……使い道を制限します」

「どうやって」

「この板は、医療と再建の担当者だけが持ちます。軍事へ渡しません」

「あなたが死んだら?」

答えられなかった。

「制度で守ります」

俺は言った。

「私がいなくなっても、渡らない仕組みを作ります」

アリアは長く黙っていた。

それから、井戸のほうを見たまま言った。

「今日のところは、信じておく」

「今日のところは」

「明日また考える」

◇

その日の夕方。

下痢患者は十一人へ増えた。

原因は井戸水だけではないかもしれない。

共同食事。

汚れた手。

移動中の感染。

俺は患者を一か所へ集めた。

「また隔離か」

村人が不満を示す。

「治療と感染予防のためです」

「病人を村の外へ追い出すのか」

「村の外ではなく、風下の天幕です」

「同じだ」

軍団の宿営地でも、同じ反発があった。三年前、俺が最初に手を洗えと言った時と、返ってくる言葉は何も変わっていない。

「家族は面会できます」

「なら感染が広がる」

「手を洗い、食器を分けます」

「面倒だ」

「死ぬより短い」

以前と同じ言葉を使った。

だが今回は笑いが起きなかった。

彼らにとって俺は、仲間を救った変わり者ではない。

征服者側の医師である。

◇

夜。

最初の井戸から水をくみ出し始めた。

縄を垂らし、木桶で汲み、また垂らす。松明の輪の中で、それが延々と続いた。

底から、腐った小動物と灰が出てきた。

村人たちの顔色が変わる。

「見えない汚れだけではありませんでしたね」

ディオニュシオスが言った。

「今回は」

「神々より、死んだ鼠の方が説得力がある」

井戸を洗い、周囲へ排水路を作る。

水は煮沸してから飲ませる。

翌日から、新規の下痢患者は減り始めた。

◇

だが、その夜、別の患者が来た。

若い女が運ばれてきた。

臨月である。二日前から陣痛が始まり、止まっていた。

俺は手を洗い、天幕へ入り──そして、そこで動けなくなった。

外傷外科医である。

腹部の刺創なら、暗闇の中でも開ける。骨折は触れば分かる。だが、この身体の中で今起きていることについて、俺が持っているのは教科書一冊分の知識だけだった。前の人生でも、分娩室は他科の領分である。研修医の一時期に十例ほど見た。二十年前だ。

微弱陣痛。

胎位異常の可能性。

産道の状態。

現代なら超音波を当て、必要なら帝王切開へ移る。

ここには何もない。

あるのは、俺の手と、腹の上に置かれた女の手だけである。

「切ればいい?」

背後でアリアの声がした。

「切りません」

「切れないの間違いでしょう」

「……はい」

俺は正直に言った。

「私は、この分野を知りません」

言った瞬間、天幕の空気が変わったのが分かった。ティロが息を呑み、衛生兵が俺を見た。

軍医幕僚が、できないと言った。

アリアは外套を脱いで放り、袖をまくった。

「なら、そこをどいて」

「何をします」

「手を洗う」

彼女は言った。

「あなたたちの真似。煮た水」

彼女の処置は速かった。

腹を触り、胎児の位置を確かめる。産婦の身体を横向きにし、膝を立てさせ、腰の下へ丸めた布を入れる。呼吸の指示を出す。汗を拭き、水を飲ませ、絶えず話しかける。

痛みを取ることはできない。この時代のどんな医者にもできない。

だが、彼女は産婦を一人にしなかった。

俺は横で、脈を数えていた。それしかできることがなかった。数を数えるだけの人間として、俺はその夜、四刻をそこで過ごした。

夜明け前に、子供が泣いた。

小さい。だが泣いた。

アリアは臍帯を煮た糸で結び、煮た刃で切った。

「それは、誰に教わったのですか」

俺は尋ねた。

「あなたたちの布を煮る話を聞いた」

彼女は手を止めずに言った。

「試した」

「いつ」

「三日前」

「結果は」

「まだ二人。分からない」

俺は言葉を失った。

彼女は俺の方法を聞き、疑い、自分の手で試し、そして結果が二例では何も言えないことを理解していた。

誰も教えていない。

「ルキウス」

アリアが初めて俺の名を呼んだ。

「あなたたちの数え方、教えて」

「なぜ」

「二人じゃ足りないんでしょう」

「……足りません」

「なら、数える」

彼女は血に汚れた手を桶へ入れた。

「私の村では、十人に一人か二人、産む時に死ぬ。ずっとそう。誰も数えたことがないから、増えているのか減っているのかも分からない」

俺は自分の木板を見た。

軍団の疾病率。

部隊別の死亡数。

対策前後の比較。

三年かけて作ってきたものが、この村では一度も使われていない。産む時に死ぬ女の数を、誰も数えていない。

「教えます」

俺は言った。

「条件がある」

「何でしょう」

「私の名前も、その板に載せて」

「なぜ」

「後で、ローマ人が全部自分でやったことにするから」

反論できなかった。

『ガリア戦記』という書物がこの先どう書かれるかを、俺は知っている。

◇

「効果が出ました」

ティロが言った。

「まだ一日です」

「また偶然ですか」

「その可能性はあります」

ティロが笑う。

「変わりませんね」

焼けた村を前にしても、俺ができることは同じだった。

観察する。

仮説を立てる。

変える。

記録する。

再び確かめる。

患者が人間から軍団へ。

軍団から民族へ。

今度は村そのものを診断している。

だが、村は身体とは違う。

痛む場所を切ればよいわけではない。

そこには記憶と誇りと怒りがある。

それらは、木板の項目には収まらなかった。

収まらないものを扱える人間が、俺の隣に一人いた。

今のところは。


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