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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第4章 ビブラクテの戦場

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第37話 夜の終わり

戦いは日没後も終わりません。


荷車の城壁に火が上がり、負傷者はさらに増えます。


水は足りない。


布も足りない。


担架も足りない。


そして救護班を危険な場所へ出すかどうか、主人公はまた選択を迫られます。


勝利が近づくほど、救護所には死にかけた者たちの声が集まってくる。


戦場の夜がどれほど長いものなのか。


主人公が知る回です。


どうぞお楽しみください。

戦いは日没後も続いた。

荷車の城壁へ火矢が放たれる。

乾いた布。

木箱。

藁。

荷車の一部から火が上がった。

赤い炎が夜空を照らす。

その光の中で、戦士と兵士が殺し合っている。

「水を持ってこい!」

荷車陣の内側から、ガリア語の叫びが聞こえる。

火を消すためか。

負傷者へ飲ませるためか。

ローマ側も水が足りない。

「救護所近くの水は使わせるな!」

衛生担当者が叫ぶ。

「火を消すために全部使われます!」

戦場と救護所が、同じ水を奪い合っている。

「消火用は川から運べ!」

俺は命じた。

「遠すぎます!」

「飲料用を使うな!」

「火が広がれば、こちらの陣まで来ます!」

また選択。

今使えば患者が脱水する。

使わなければ火が広がり、さらに多くが負傷する。

「飲料水二壺を消火へ回す!」

「先ほど使うなと!」

「状況が変わった!」

命令を変える。

現場は混乱する。

だが、一度決めたことへ固執すれば被害が増える。

「変更を全員へ伝えろ!」

命令変更の理由も伝える。

理由がなければ、現場は指示が気まぐれだと考える。

その時、ローマ軍の歓声が一段と大きくなった。

荷車陣の一角が崩れた。

兵士が内部へなだれ込む。

戦士だけでなく、逃げ惑う人々の姿が見える。

「非戦闘員を攻撃するな!」

一部の百人隊長が叫んでいる。

だが、戦闘の興奮に包まれた兵士全員へは届かない。

荷車の陰から石が飛ぶ。

投げたのが少年なのか戦士なのか、暗闇では分からない。

ローマ兵が反射的に剣を振るう。

女の悲鳴。

子供の泣き声。

火。

煙。

「救護班を前へ出します」

搬送責任者が言った。

「まだ危険です」

「負傷者が増えています」

「戦線が安定するまで待つ」

「その間に死にます」

ソーヌ川で、患者を助けるため医療班を遅らせた。

今回は、救護班を危険へ出すかどうか。

出せば救える者が増える。

だが救護班が負傷すれば、今後の患者を治療できなくなる。

「盾を持った護衛を付けます」

「何人」

「各班四人」

「二人で十分です」

「荷車陣の中です。四人必要です」

兵力を医療へ回す。

ラビエヌスが認めるか。

確認している時間はない。

「四人付けます」

俺は決めた。

「ただし荷車陣の外周まで。内部深くへ入るな」

「敵味方は?」

「救命可能な者を運べ。ただし、戦士が武器を持っている場合は近づくな」

救護班が出ていく。

数分後。

最初の患者が運び込まれた。

ローマ兵。

続いてガリア人戦士。

さらに子供。

左腕へ深い切創。

「子供は白です!」

衛生兵が言った。

「歩けません!」

「意識は?」

「あります!」

「黄へ!」

分類を変更する。

子供は身体が小さい。

少量の出血でも状態が悪化しやすい。

現代なら小児用の基準が必要だ。

ここでは成人と同じ分類を使っている。

制度の欠陥がまた見える。

「子供の分類基準を別にします」

ティロが困惑する。

「今からですか」

「今からです」

「全員へ伝える時間がありません」

「入口担当だけでよい。子供は一段階重く評価する」

過剰分類になる。

だが、見逃しを減らす。

「記録へ残してください」

「戦闘中に制度を変え続けるのですか」

「戦闘後では、今の患者へ間に合いません」

ティロは木板へ追記した。

その横で、ディオニュシオスがガリア人戦士の傷を処置していた。

「敵を先に診ている!」

ローマ兵が怒鳴る。

「お前は黄だ。この男は赤だ」

ディオニュシオスは顔も上げない。

「不満なら、もっと血を出せ」

患者が黙った。

俺は思わず笑いそうになった。

彼なりに、重症度優先を受け入れ始めている。

「ルキウス!」

救護所の外からクィントゥスが現れた。

肩を負傷した兵士を抱えている。

「戦線は?」

「終わりかけている」

「勝ったのですか」

「荷車陣は崩れた。残った戦士は逃げるか、家族を守って死んでいる」

声に勝者の喜びはなかった。

「追撃は」

「カエサル様が夜間の深追いを止めた」

意外だった。

「なぜ」

「兵が疲れている。暗闇で隊列が崩れる。略奪も止められなくなる」

合理的な判断。

敵を全滅させるより、自軍の統制維持を優先した。

「捕虜を集めています」

「負傷者は?」

「数え切れん」

クィントゥスが救護所の中を見る。

寝台。

地面。

通路。

至る所に患者がいる。

「ここも限界か」

「すでに超えています」

「何が必要だ」

「水。布。人。場所」

「全部足りないな」

「はい」

「なら、何を捨てる」

その問いに、手が止まった。

捨てる。

患者を捨てるのか。

治療を捨てるのか。

「完璧を捨てます」

俺は言った。

「何だ、それは」

「すべての傷を縫いません。すべての患者を天幕へ入れません。軽傷者は外で処置し、歩ける者同士で助けさせます」

「医師が診ないのか」

「最初の確認だけです」

「感染は」

「増える可能性があります」

「それでも?」

「今夜を生き残らなければ、感染する明日もありません」

クィントゥスが頷いた。

「必要な兵を出す」

「百人隊長として?」

「患者として、早く眠りたいからだ」

肩の兵士を渡し、再び外へ出ていった。

俺たちは救護所を拡張した。

捕獲した天幕布を使う。

壊れた荷車を寝台代わりにする。

歩ける捕虜へ、自分たちの負傷者の世話をさせる。

ローマ兵とガリア人を完全には分けない。

感染症状のある者だけ分ける。

敵味方より、病態で区分する。

夜半。

戦場の音が少しずつ減った。

剣の音が消える。

叫び声が減る。

代わりに、うめき声が広がる。

戦いが終わると、死にかけた者の声が聞こえるようになる。

「外科医殿」

一人の衛生兵が呼びに来た。

「黒の区画に、意識のある者がいます」

「何人」

「十二人」

「鎮痛に使える葡萄酒は」

「ほとんどありません」

「蜂蜜水は」

「あります」

俺は黒の区画へ向かった。

救命困難と判断された患者たち。

胸を貫かれた者。

腹部が大きく開いた者。

頭蓋を損傷した者。

ローマ人。

ガリア人。

区別なく横たわっている。

一人のローマ兵が俺を見る。

「もう治療しないのか」

「今の設備では、助けることが難しい傷です」

「難しいだけか」

「……はい」

「なら試せ」

胸が痛む。

「他に救える患者がいます」

「俺は救えないのか」

答えられない。

医療資源の配分。

合理的には正しい。

だが患者一人にとって、全体最適など意味がない。

「名前を教えてください」

俺は言った。

「名前?」

「記録します」

「死ぬ前に名簿を作るのか」

「忘れないためです」

兵士は笑った。

弱い笑いだった。

「マルクス・ウィビウス」

「出身は」

「ピケヌム」

「家族は」

「妻と娘」

ティロが記録する。

隣のガリア人も、通訳を介して名前を話した。

名前。

村。

家族。

一人ずつ記録する。

治療ではない。

救命でもない。

それでも、番号のまま死なせたくなかった。

夜が明け始めた。

東の空が灰色になる。

荷車陣から上がっていた火は、ほとんど消えている。

戦場には、壊れた車輪と死体が残った。

ローマ軍は勝った。

ヘルウェティイ族の主力は敗れ、さらに西へ逃れた。

だが救護所では、朝までに七十三人が死亡した。

この夜。

俺は初めて、勝利の夜がこれほど長いことを知った。


第37話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、ビブラクテの戦いの夜と、救護所の限界を描きました。


戦場では、剣が止まっても戦いは終わりません。


むしろ戦闘音が消えた後に、負傷者のうめき声が聞こえ始めます。


主人公は今回、水、布、人手、場所の不足に直面しました。


全員に十分な処置はできない。


すべての傷を縫えない。


すべての患者を天幕へ入れられない。


完璧を捨て、今夜を生き延びるための最低限を選ぶ。


これは医師として非常につらい判断です。


また、黒の区画で、助けられない患者たちの名前を記録する場面も重要でした。


治療ではない。


救命でもない。


それでも、名前を残す。


数字の中に埋もれた人間を、ただの死者数にしないための行為です。


次回、第38話。


戦いの後、主人公は「死者」ではなく「生き残った者」を数えることになります。


【ローマ豆知識㉟ 戦場医療と水】


現代の医療では、水や清潔な器具、包帯は当然のように使われます。


しかし古代の戦場では、それらを十分に確保すること自体が難しい問題でした。


飲むための水。


傷を洗うための水。


火を消すための水。


煮沸するための燃料。


すべてが限られています。


戦場医療では、医師の技術だけでなく、水、布、場所、人手、搬送手段の管理が生死を分けます。


本作で主人公が医療と兵站を結びつけて考えるのは、治療そのものが物資と組織に支えられているからです。

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