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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第4章 ビブラクテの戦場

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第36話 荷車の城壁

ビブラクテの戦いは、夕暮れとともに新しい段階へ入ります。


押し込まれたヘルウェティイ族は、荷車を円形に並べ、即席の城壁を作りました。


その内側にいるのは、戦士だけではありません。


家族。


負傷者。


子供。


老人。


ローマ軍は勝利へ向かっています。


しかし主人公の救護所には、敵味方を問わず負傷者が運び込まれ続けます。


水も布も人手も足りない中、誰を先に救うのか。


軍医幕僚としての判断が、さらに重くのしかかる回です。


どうぞお楽しみください。

夕暮れとともに、戦場の形が変わった。

丘の斜面で戦っていたヘルウェティイ族は、荷車を円形に並べ、その内側へ家族と負傷者を入れていた。

荷車の隙間には木箱、家具、穀物袋、壊れた車輪が積まれている。

生活のために運んできた物が、即席の城壁へ変わっていた。

その向こうから、子供の泣き声が聞こえる。

「投槍隊、前へ!」

ローマ側の命令が響く。

盾を構えた兵士たちが、ゆっくりと荷車陣へ近づいていく。

ヘルウェティイ族の戦士は、荷台の陰から石と槍を投げる。

ローマ兵が倒れる。

後方の者が盾を引き継ぎ、列を詰める。

「担架!」

戦列の後ろから声が上がった。

担架班が走る。

盾と槍の間を縫い、倒れた兵士を引きずり出す。

救護所の入口へ、また患者が運び込まれた。

「右胸に槍!」

「赤!」

俺は叫んだ。

「左下腿骨折!」

「黄! 固定して待機!」

「顔面切創!」

「白! 自力歩行!」

分類が続く。

患者数はすでに救護所の収容能力を超えていた。

寝台は埋まり、地面へ藁を敷いて患者を寝かせている。

血の臭い。

汗。

吐物。

葡萄酒。

蜂蜜。

人の熱。

天幕の内部は息苦しいほどだった。

「水が足りません!」

衛生担当者が叫ぶ。

「煮沸分は?」

「あと二壺です!」

「飲料水と創洗浄を分けろ!」

「どちらを優先します!」

答えが出ない。

脱水した患者には水が必要。

創傷感染を減らすには洗浄が必要。

どちらも命に関わる。

「飲める患者には少量ずつ配る。創洗浄は深い傷と土の入った傷を優先!」

「浅い傷は?」

「布で拭き、後で洗う!」

不完全な処置。

感染が増える。

だが全員へ同じ量を使えば、すぐに水が尽きる。

ディオニュシオスが手術区画から出てきた。

腕は血に染まっている。

「縫合糸が残り少ない」

「麻糸は?」

「あと十人分もない」

「深部だけ縫い、皮膚は開放したままにします」

「傷が開くぞ」

「感染を閉じ込めるよりよい」

「すべての傷でか」

「汚染が強いものだけです」

その時、入口で争う声がした。

「敵兵を入れるな!」

「退け!」

見ると、二人の衛生兵が若いガリア人女性を支えていた。

腹部を押さえ、衣服が血に濡れている。

戦士ではない。

荷車陣の近くで倒れていたのだろう。

「どこから連れてきた」

搬送責任者が怒鳴った。

「ローマ兵を運びに行った時、近くに倒れていました」

「味方が先だ!」

「歩ける味方より、この女の方が重い傷です!」

判断は正しい。

だが、周囲の兵士たちは納得しない。

「俺たちは敵を治すために戦っているのか!」

「こいつらが俺の兄を殺した!」

怒号が広がる。

俺は女性の傷を確認した。

下腹部の切創。

出血が続いている。

妊娠している可能性もある。

腹部がわずかに膨らんでいる。

「赤です」

俺が言うと、兵士たちの顔が険しくなった。

「味方の赤が待っています!」

ティロが報告する。

「何人」

「三人!」

女性を入れれば四人。

手術できるのは、俺とディオニュシオス。

すべて同時には救えない。

「この女は後です」

クィントゥスが言った。

いつの間にか入口に立っていた。

「出血が続いています」

「味方を先にしろ」

「重症度では同じです」

「なら味方だ」

軍事組織としては当然の判断だった。

「患者としては区別できません」

「軍医幕僚としては区別しろ」

二つの役割が衝突する。

外科医として、救命可能性が同じなら到着順や緊急度で判断したい。

軍人として、味方を優先しなければ組織の信頼を失う。

「ルキウス」

クィントゥスが低い声で言った。

「兵士は見ている」

周囲の視線。

自分たちが命を懸けて戦っているのに、敵を先に治療する。

そう思われれば、衛生制度そのものが拒絶されるかもしれない。

「女性へ圧迫止血。黄の区画で待機」

俺は決めた。

「味方の赤を先にします」

口の中が苦かった。

女性は言葉を理解していない。

ただ自分が後回しにされたことだけは、周囲の動きで分かったらしい。

目に恐怖が浮かぶ。

「必ず診ます」

ガリア語で言った。

返事はない。

俺は最初のローマ兵へ向かった。

胸部刺創。

呼吸困難。

血胸の可能性。

「刃物を!」

手術を始める。

意識を集中させる。

だが、天幕の外から聞こえる女性のうめき声が、頭から離れない。

一人目の処置が終わる。

二人目。

大腿動脈近くの損傷。

止血。

結紮。

三人目。

腹部刺創。

腸管損傷。

時間がかかる。

手術中、外から叫びが上がった。

「女の意識が落ちました!」

手を止められない。

「圧迫を続けろ!」

「脈が触れません!」

それでも、目の前の患者を離れられない。

腸を縫う。

腹腔を洗う。

出血を止める。

ようやく三人目を終え、女性のもとへ走った。

皮膚は冷たい。

脈はない。

呼吸もない。

「いつからです」

「少し前です」

「少しとは?」

誰も答えられない。

胸骨圧迫。

呼吸。

反応なし。

腹部の出血は止まっていない。

手術を行っても助かる可能性は極めて低い。

それでも、俺は圧迫を続けた。

「ルキウス」

ディオニュシオスが肩へ手を置く。

「もう死んでいる」

「まだ温かい」

「死んだばかりだからだ」

「もう一度」

圧迫。

呼吸。

何も戻らない。

「外科医殿」

ティロの声が震える。

「次の赤が来ています」

目の前の死者。

これから救えるかもしれない患者。

俺は手を止めた。

女性の瞼を閉じる。

「黒へ」

声が出なかった。

ティロが代わりに黒い木片を置いた。

荷車陣の方向から歓声が上がった。

ローマ軍が一部を突破したらしい。

勝利が近づいている。

だが俺の目の前では、一人の女性が名前も分からないまま死んだ。

味方を優先した判断が誤りだったとは言えない。

三人のローマ兵は、今も生きている。

それでも胸の中に、黒い傷が残った。

「次の患者を」

俺は立ち上がった。

選ばなければ、偶然が選ぶ。

そう言ったのは自分である。

だが、自分で選んだ死は、偶然よりもはるかに重かった。


第36話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、ヘルウェティイ族が荷車を城壁に変えて抵抗する回でした。


彼らにとって荷車は、単なる輸送手段ではありません。


家財道具。


食料。


子供を乗せる場所。


故郷を失った人々が、人生の残りを積み込んだものです。


それが戦場では、即席の防壁になります。


生活の道具が戦争の道具へ変わる。


この変化が、民族移動の過酷さを示しています。


また今回は、主人公が敵側の女性を後回しにし、結果として救えなかった場面がありました。


味方の兵士を優先するという軍事組織としての判断。


患者を敵味方で分けたくないという医師としての信念。


どちらも完全には否定できません。


主人公はここで、自分で選んだ死の重さを知ることになります。


次回、第37話。


戦いは夜まで続き、救護所はさらに限界へ近づいていきます。


【ローマ豆知識㉞ 荷車陣とは】


古代や中世の戦場では、荷車を並べて防壁のように使うことがありました。


移動する集団にとって、荷車は物資を運ぶための重要な道具です。


しかし戦闘になれば、荷車は家族や負傷者を守る即席の壁にもなります。


ヘルウェティイ族のような民族移動では、戦士だけでなく女性、子供、老人、家畜、生活道具も一緒に動いていました。


そのため、戦場では軍隊と民間人の境界が非常に曖昧になります。


本作では、荷車陣を単なる軍事的な防御陣地ではなく、移住民たちの生活そのものが戦争へ巻き込まれていく象徴として描いています。

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